26.別れ
***
外に出ると、日差しのまぶしさが目に染みた。
シェーラはどこへ行ったのか、ジェイドの姿も見当たらない。あとでお礼を言わなければと思っていると、別の人影に気がついた。
「話は終わったか」
「……ギルさま?」
待ち構えていたらしいギルフェルドが、もたれていた壁から身を起こした。
「どうして……」
「前に言わなかったか。私にはお前の居場所が分かると」
そうでした。
それで納得したアイナだが、彼の変化に目を見張った。
ギルフェルドの全身が輝いている。
今までも十分まぶしかったが、今は直視できないほどだ。目の錯覚かと思ったが、どう見てもまぶしい。内側からにじみ出る輝きが彼を鮮やかに彩っている。
「あの……ギルさま?」
「なんだ」
「いえ、なんでも」
どうしてだろう、彼から目が離せない。
「それで、狼との話し合いはどうだった」
「大丈夫です。多分、尋問にも答えてくれると思います」
「――そうか」
彼は穏やかな顔で頷いた。
「お手柄だ、アイナ。忍び込んだのは不問にしよう」
「す、すみません」
「謝る必要はない」
ギルフェルドは輝きを帯びた瞳でアイナを見た。
その表情がこの上なく幸福そうに見える。
どうしてだろうと思ったが、なんとなく理由は聞けなかった。
「そ……そういえば、帰る前に問題が片づいてよかったです」
「…………」
それを聞き、彼はぴたりと動きを止めた。
「ギルさまのおかげです。家に帰ったら、家族にたくさん話しますね」
「……ああ……そうか」
そうだったな、とギルフェルドが呟く。
気のせいか、輝きが急に色あせたように見えた。
「家族に会うのは楽しみか?」
「はい、それはもちろん」
「帰ったら何をしたい?」
「そうですね……。まずは家のことを手伝って、お喋りして、畑に行って、森で木の実も探したいし、川で魚も獲りたいし、寝る時はみんな一緒だから、それもすごく楽しみだし……」
指折り数えるアイナを、ギルフェルドは黙って見ていた。
「――それがお前の幸福か」
「え?」
「いや、なんでもない」
ギルフェルドは静かに首を振った。
「できる限り手助けしよう。何があろうと、お前を人間の国に送り届ける。お前の大切な、家族の元へ」
「ギルさま……」
「それまでは、この城でくつろいで過ごすといい」
ギルフェルドが目元を和らげる。
やさしいのに、哀しく見える顔だった。
***
***
そして、アイナが人間の国に戻る日がやって来た。
「アイナ様、どうかお元気で。旅の間、体調には十分に気をつけてくださいね」
「ありがとうございます、ファナさん」
「私のことをたまには思い出してくださると……やっぱり嫌、離れたくない」
ぎゅうっとファナにしがみつかれ、アイナは苦笑してしまった。
「大丈夫。ずっと忘れません」
「アイナ様……」
「今までお世話になりました。本当にありがとう、ファナさん」
ファナを抱きしめ返すと、細い体が硬直する。直後、感激したように縋りつかれた。なるほど、竜人は情が深い。
「ファナ、アイナが困ってるから」
ジェイドが口を挟んだが、ファナは離れようとしない。それでも根気よく促されると、しぶしぶといった様子で身を引いた。目元をぬぐい、一歩下がる。
「僕たちもお別れをしたいけど、その前に用事を済ませようか」
「用事?」
「こっちよ、アイナさん」
シェーラに手招かれ、アイナは小さな部屋に案内された。そのまま鏡台の前に座らされる。
「ファナに頼んだら、張り切りすぎてしまうでしょうから。わたくしがしてあげる」
「えっと、あの?」
「せっかくの里帰りだもの。可愛らしくしましょうね」
丁寧に髪を梳き、爪を磨かれる。それだけでなんだか見違えた。
「ありがとうございます、シェーラさん」
「いいのよ。それよりも……」
本当にいいのかという問いを呑み込んだシェーラに、アイナは頷いた。
ジェイドも言いたい事を我慢している様子だったが、問い詰めはしなかった。
二人の気遣いをありがたく思う。
今の自分の気持ちを、自分でも説明できなかった。
「ところで今日、兄上は?」
「あ、まだ見ていなくて……」
ギルフェルドに送ってもらうという話も出たが、アイナがそれを辞退した。
家族に紹介したいと思っていたが、すでに面識はあるという。それなら別に構わないだろう。ギルフェルドも拒否しなかったので、彼とはここでお別れだ。
「じゃあ部屋にいるのかな。アイナ、よかったら会っていきなよ」
「えっ……」
「どうせ挨拶しないわけにはいかないんだし、せっかくだから。ね?」
どうしようと思ったが、アイナは言う通りに部屋へ行った。
だが、彼の姿はなかった。
拍子抜けしたが、そんな事もあるだろうと思い直す。気を取り直し、アイナはギルフェルドを捜す事にした。
それほど不思議に思わなかったのは、予感があったせいかもしれない。
歩き慣れた廊下を通り、朝露の落ちた庭を歩く。
この庭でギルフェルドと顔を合わせた。彼はなぜかアイナと一緒に、黙って小川を眺めていた。
沈黙はあったけれど、不快ではなかった。話す事が思い浮かばなくて、それでも妙に心地良くて。今でも鮮やかに思い出せる。
奥庭を抜けた先に、古びた建物があった。
ギルフェルドはここにいる。
なんとなく、それが分かった。
階段を上り、いくつかある部屋を見回すと、アイナはひとつの部屋を選んだ。
予感はあまりにもささやかで、それほど役には立たなかったけれど、ここまで連れてきてくれただけで十分だった。
扉を開けると、ギルフェルドが振り向いた。
「………アイナ」
「いつもと逆ですね」
彼は驚いた様子だったが、それほど表情には出なかった。
「どうしてここが分かった?」
「なんとなくです」
目を伏せてアイナは微笑んだ。
ここは使われていない建物で、人の出入りはないらしかった。掃除は定期的にされているようだが、どことなくうら寂しいものがある。別れにはぴったりだ、とアイナは思った。
この城に連れてこられた日、アイナは何も知らなかった。
ただ、救い出された事が嬉しくて、ほっとして。それだけで十分だった。
それ以上を望む事など考えてもおらず、夢見る事もなかった。
それが変わったのはいつからだろう。
彼はいつから知っていたのだろう。それとも、気づかなかったのか。
シェーラとジェイドの時とは違う。アイナはガルゼルの番だった。それなのに、ギルフェルドに「特別」を感じてしまった。
獣人ならばありえない。これは種族の差だろうか。
――それとも、「心」が変わったのか。
「お別れを言いに来ました、ギルさま」
「……ああ」
「今までありがとうございました。本当にお世話になりました」
「構わない」
ギルフェルドが首を振る。
「お前の役に立ったなら、それでいい。お前を連れてきたかいがあった」
「ギルさまのおかげで、私は――」
そこで一度言葉が詰まり、アイナは小さく首を振った。
「……なんでもありません。ギルさまがいてくださって、本当によかった」
「……そうか」
そこで会話が途切れ、沈黙が生まれた。
二階の窓からは奥庭が見えた。瑞々しい葉が朝日を浴びて爽やかに光る。花々も色鮮やかに咲き誇り、やさしい風に揺れていた。
ああ――とアイナは思った。
この人が好きだ。
抱えている思いが大きくて、重くなりすぎて。
この人が好きだ。
本当は、ずっと前からそうだった。
自分でも気づかないうちからずっと、このやさしい竜人に惹かれていた。
この人に幸せになってほしい。いつも笑顔でいてほしい。
でもそれはきっと、今のアイナでは無理なのだ。
目を上げると、ギルフェルドも自分を見ていた。
彼もきっと知っている。その目を見たら分かってしまった。
アイナは彼の番だ。
ガルゼルとの糸が切れ、ギルフェルドとの絆が生まれた。けれど以前と違ったのは、その前から彼との絆を感じていた事だった。
その時のアイナは彼の番ではなかったはずなのに、どうしてだろう。
種族の違いか、竜人の特性か、それともただの気のせいか。
(それとも)
アイナの心が原因か。
「お元気で、ギルさま」
「ああ……」
ギルフェルドはずっとアイナを見ていた。
互いに言いたい事が言えず、言い出すつもりもない。それが分かる沈黙だった。
アイナは彼の番だが、そばにいるだけの覚悟はない。
種族の違いも、立場の違いも、未だに二人の間に横たわる。何よりアイナは家族を置いて、ひとり生きる事が考えられない。
そんなアイナは彼の「番」であっても、本当の意味での番にはなれないのだろう。
だから、これでいい。
「アイナ」
背を向けようとして、アイナは呼び止められた。
「忘れていた。これを」
「これは……?」
差し出されたのは首飾りだった。
中央に見た事のない宝石がついている。親指の爪ほどの大きさで、目を見張るほど美しい。藍色に金色の粒がちりばめられたそれは、ギルフェルドの目の色と同じだった。
「私の鱗だ。持っていくといい」
「え、でも」
「いいから、受け取ってほしい。ただのかけらだ」
そう言われては断り切れず、アイナはおそるおそる頷いた。
そういえば、シェーラも似たような首飾りをつけていた。あれはジェイドの鱗だったのか。
手を出そうとしたが、ギルフェルドがそれをつけてくれた。
後ろに回り、慎重な手つきで首にかける。シャラリと音がして、アイナの胸で竜の鱗がきらめいた。
「思った通りだ。よく似合う」
「ありがとうございます……」
自分の鱗を身に着けたアイナを、ギルフェルドは黙って見ていた。
その目の奥に何かが瞬いて、消える。
愛しさ。切なさ。焦がれる思い。別離の痛み。――そして、哀しみ。
そのすべてを呑み込んだように、ギルフェルドが目を閉じる。次に目を開けた時、彼の瞳は普段の色を取り戻していた。
「お前と会えてよかった、アイナ」
「ギルさま」
「お前を家族の元に戻すことができて、私は幸せだ」
彼は静かに微笑んでいた。何かと決別した顔だった。
「アイナ、こちらへ」
ギルフェルドに呼び寄せられるまま、アイナは彼の元に近づいた。
ふわりと清涼な香りがして、腕の中に抱きしめられる。ごく軽い抱擁が数秒、すぐに力は抜けたが、そのまま体は離れなかった。
「私はお前の平穏を望む」
ギルフェルドは穏やかな声で言った。
「お前が願った、家族との健やかな暮らしを望む。いつかお前が夢見たような、平和で穏やかな日常を」
「ギルさま……」
「私はお前の安心を望む。いかなる時でも、誰にも冒されることのないように」
静かで玲瓏とした声だった。
「私はお前の笑顔を望む。何があろうと、くじけることのないように」
そして、と彼は口にした。
「私はお前の幸福を望む」
「――――……」
「どこにいても、何をしていても。お前が幸せであることを望む」
目を上げると、ギルフェルドもアイナを見下ろしていた。
もう見慣れたはずの瞳が、吸い込まれそうなほど深い。この瞳をこうして見上げるのは、きっと最後になるだろう。
目の奥に焼きつけたいと思いながら、アイナは彼の目を見つめた。
藍と金の混じる、綺麗な色彩。その輝き。
きっと、一生忘れない。
「私の願いはそれだけだ。どうか幸せに、アイナ。私はお前の幸福を望んでいる」




