25.決別
***
地下牢に着くまで、面白いほど誰にも会わなかった。
正確に言えば人はいたが、シェーラが上手に目をかいくぐってくれた。
いつの間にそんな技術を身に着けたのかと思ったら、この城に来た当初、あまりにジェイドがまとわりつくので、周囲の者が教えてくれたという話だった。
(そんな切ない話は聞きたくなかった……)
竜の城の地下牢は、貴人を入れるためのものらしい。
レフリレイアもしばらく入っていたが、今は外に出されたという。竜気を失った彼女は、もはやギルフェルドの番候補ではありえない。王族との婚姻も許されず、未だに番も現れない。いつか現れたとしても、彼女の気に入る相手ではないだろう。彼女にとって、竜人の王子以上の番はいない。それだけは確かだった。
(私は……)
無意識に唇を噛み、アイナはぎゅっと目を閉じた。
「――さあ、ここが入口よ」
地下牢のある場所は、中庭のひとつから少し外れた建物だった。
ここからはわたくしも行けないわ、とシェーラが告げる。
「そんなに長い時間は取れないわ。階段を下りた先の、一番奥の部屋。行けば分かるはずよ」
「ありがとうございます、シェーラさん」
「お礼ならジェイドに言ってちょうだい」
そう言うと、軽やかに身をひるがえす。ドレスの裾がなびき、蝶のように揺れた。
それを見送り、アイナは深呼吸する。
ここからはアイナひとりだ。
入り口に見張りの姿はなく、アイナはやすやすと中に入った。
慎重に、薄暗い階段を下りていく。ややじめじめしていたが、思っていたほどひどくはない。アイナが以前暮らしていた環境よりはよほどましだ。けれど、レフリレイアなら耐えられないかもしれない。ガルゼルはどうだろうと思った時、階段が終わった。
石造りの床を踏みしめた時、空気が変わったのが分かった。
あの人はここにいる。
それが分かり、アイナはごくりと息を呑んだ。
一歩一歩、着実に足を進めていく。急がなければならない事は分かっていたが、駆け出す事はできなかった。
シェーラの言う通り、一番奥に人影があった。
鉄格子の向こう、ぼんやりと壁にもたれる人物。
予想に反し、拘束されているわけではない。力なく床に座り込んだまま、ただ息をしているだけだ。その息さえ、ふとすれば止まってしまうようだった。
儚い。
それが最初の感想だった。
近くには食事の皿があったが、まったく手をつけられていない。
それを見て、アイナは息を吸い込んだ。
「……ガルゼルさま」
「――――……」
ぴくり、とガルゼルが動いた。
ぎくしゃくと首を上げ、そこにいるのがアイナだと知ると、驚いたように目を見張る。ひび割れた唇が震え、声にならない呻きが漏れた。
「――アイ、ナ……」
「お久しぶりです。……ご飯、食べてないんですか」
最初の言葉がそれかと思ったが、空腹は何より辛い。それはアイナが体験した事だ。
「食欲がないのだ。食べたくない」
「あるのに食べないのはもったいないです。せっかく用意してくれたのに」
アイナはあの時、食べたくても食べられなかったのに。
「……そうだな。いただこう」
ガルゼルは素直に匙を取った。スープを一口、二口飲む。
アイナは知らなかったが、これを見た者がいれば驚いただろう。何しろガルゼルは捕らえられてからというもの、水すら口にしなかったのだ。獣人は体力があるとはいえ、十日近くも飲まず食わずだったなど考えられない。それがアイナの一言で、食事を摂った。
「……残りも必ず食べる。今はこれだけでいいか」
「はい……」
おそらく、胃が受けつけないのだろう。それを知ったアイナは頷いた。
「……どうして来てくれた」
「それは……」
「俺をいらないと言ったのに。一生目の前に現れるなと言ったはずだ」
ガルゼルの声には力がなく、投げやりなものが感じられた。
アイナは無言でかぶりを振った。
「ごめんなさい。どうしても気になって、会いに来ました」
「なぜだ?」
ガルゼルにとってアイナは番だが、人間であるアイナにはそれが分からない。アイナから拒絶された以上、二人をつなげるものはない。
アイナはもう一度かぶりを振った。今度はもう少し強く、大きく。
「言いたいことがあったんです。それをあなたに伝えに来ました」
「言いたいこと?」
恨み言か、とガルゼルは嘲った。乾いた空虚な笑いだった。
「いいぞ、構わない。俺はそれだけのことをした」
「ガルゼルさま?」
「あの女の力に当てられたとはいえ、お前にひどい真似をした。それだけでなく、以前のことも……。お前には俺を罵る権利がある」
「そういうわけじゃありません」
今さらかとも思ったが、レフリレイアの竜気に当てられたのは本当だろう。あの話の通じなさは、いくらなんでもひどすぎた。もっとも狼の国にいる間もひどかったので、大差ないかもしれないが。
「初めて会った日のことを、覚えていますか」
突然の話題に戸惑ったのか、ガルゼルは目を瞬いた。
ややあって、頷く。
「……もちろん覚えている。お前の姿を目にした瞬間、時が止まった。なんと愛らしい娘だろうと――そして、俺の番だと分かって嬉しかった。人生最良の日だと思った」
「あなたは私を番だと言ったけど、私には分からなかった。でも、そう言ってくれたことは嫌じゃなかった」
前にも言った事だ。恋ではなかったけれど、親愛の情はあった。
「最初に会った日からずっと、私は番が分からなかった。シェーラさんは違ったけど、私には無理だった。……だから、あなたに偽物だと言われても、違うと言い切ることができなかった」
騙していないと言う事はできる。けれど、本物の番だという確証はなかった。
ギルフェルドの番ではないかと言われて、嬉しさよりも困惑した。そんなはずはないと思った。
だってアイナはガルゼルの番だ。彼にそう言われたから。
けれど、シェーラに出会って、番が替わる事もあると教えてもらった。
だったら、そういう事もあるだろうか。
ギルフェルドには未だに番がいない。アイナに出会っても、彼にさしたる反応はない。多分アイナは彼の番ではないのだろう。でも、番は自分で選ぶ事もあると教えてもらった。
アイナがガルゼルの番でなく、誰を好きになってもいいのなら。
運命に導かれる番でなく、自ら選ぶ相手なら。
あの人を好きだと思っても――いいのだろうか?
アイナは彼の番にはなれない。
家族の事は大切だし、今も会いたい思いは消えない。竜人の上、第一王子である彼など、不釣り合いにもほどがある。寿命の違いも、種族の違いも、今のアイナには大きすぎる。
でも……でも、想うだけなら。
好きだという思いを抱いて、人間の国に戻ればいい。いつかそれは徐々に薄れ、取り出しても胸が痛まないようになる。
アイナが年を取り、いつかよぼよぼのおばあさんになった時、なつかしく思い出す記憶であればいい。
そう思ったのに、知ってしまった。
ガルゼルに再会したあの日、唐突に分かってしまった。
出会ってずっと分からなかったのに、あの瞬間に気づいてしまった。
「私は……あなたの番でした」
「アイナ?」
「あなたと糸でつながっていた。それが分かったんです」
細い細い、頼りない糸。
それでもそれは切れる事なく、アイナとともにあったのだ。
ガルゼルの目が曇り、アイナを虐げていた時もなお、二人の間に存在していた。
アイナを襲ったあの時、ガルゼルが突然体を離したのも、アイナがこの城にいると確信したのも。ここにガルゼルがいると分かったのも、番だったら感じ取れる。
あの時泣いたのも全部、彼が番だったからだ。
「アイナ……本当か? 人間のお前が番を感じ取れるなど……」
「シェーラさんもそうでした。はっきりとは分からないけど、感じます」
「おお……」
ガルゼルの目が輝いた。震える足がアイナへと向かい、力を失ってくずおれる。それでも彼は手を伸ばした。
「アイナ……アイナ。俺の番、俺の最愛……」
「――だから、ちゃんとお別れを言いに来ました」
それを聞き、ガルゼルはぴたりと動きを止めた。信じられないという顔だった。
「何を……アイナ」
「この間は、ちゃんと言えませんでした。きちんとお別れするために来たんです」
「……待ってくれ! お前も番だと分かったのだろう? それなら俺のそばにいればいい。きっと幸せになれるはずだ!」
「できません」
アイナは首を振った。今度は緩やかに、ほんのかすかに。
「前にも言った通り、それは無理です。だから、会うのはこれが最後です」
「……嫌だ」
「今までありがとうございました。思い出したくないこともあるけど、もういいです。ずっと覚えている方が辛いから」
「嫌だ……」
「あの時は言えなかったけど、今は言えます。私はあなたの番でした」
「嫌だ、アイナ……っ」
「お元気で、ガルゼルさま」
「嫌だあああぁ―――ッ!」
ガルゼルの絶叫を、アイナは穏やかに受け止めた。
これ以上傷つけたいわけではない。彼はもう、十分に罰を受けたはずだから。
「ガルゼルさま」
彼の目を見て、アイナは言った。
「私と家族を助けてくれて、ありがとうございます」
「…………。何?」
「あの時、うちは本当に貧しくて、明日食べるものさえろくになくて。冬が越せるか分からなかった。だからあなたが贈り物をくれて、本当に助かったんです」
今でも覚えている。彼がしてくれたたくさんの事。
服や食べ物、十分なお金、炭や木材にいたるまで。
「狼の国に着いてからも、援助をしてくれたそうですね。私はそれを確かめられなかったけど、ギルさまが聞いてきてくれました」
「…………」
「番じゃなくなってからは無理だったけど、それまではずっと助けてくれたって。ありがとうございます、ガルゼルさま。あなたは私たちの恩人です」
「……お、俺は……」
ガルゼルはその場に固まっていた。何か言いかけ、口を閉ざし、それを幾度か繰り返す。やがて彼は口を開いた。
「俺は……お前が喜ぶだろうと、だからその顔が見たくて……それだけだ」
「それでも、嬉しかったんです」
「お前に騙されたと知って、怒りが湧いて……。誰よりも愛しかったからこそ、余計に悔しくて、腹が立って、許せなくて……」
――怒りに任せて虐げた。
アイナは小さく頷いた。
「忘れます。もういいです」
「だが、俺はお前を……っ」
「狼の国に戻ったら、ひとつだけ約束してください」
アイナの言葉に、ガルゼルは目を瞬いた。アイナは一度目を閉じて、後を続けた。
「二度と同じ目に遭う人が出ないよう、虐げられた人々のために働いてください。獣人に見出されて、勝手に違うと言われた人たちのために」
「アイナ……」
「彼らがひどい目に遭わないよう、あなたが目を光らせてください。国王ならできるでしょう?」
「無理だ……俺は。どうせ王座を追われるし、そんな力など……」
「あなたならできます、きっと」
だから、あなたに託したい。
アイナは彼の目を見つめた。かつて好きだった瞳の色を。
濁っていたはずの目がふと澄んで、以前の色彩を浮かべた気がした。
「……無理なことを言う」
ガルゼルはハッと笑みを浮かべた。先ほどよりもましな顔つきだった。
「国王じゃなくなったとしても、彼らのために動くことはできます。それをしてくれたら、私はあなたを許します」
「アイナ、俺は……」
「それでお別れです、ガルゼルさま」
それは決別の言葉だった。
ガルゼルは声を失ったままアイナを見ていた。長い時間が過ぎ、ぎこちなく首を振る。乾いた髪が揺れて、ぱさついた音を立てた。
「……お願いだ。俺と一緒に……虐げられた者たちを救ってくれ。お前となら、きっとできる。今度こそ間違えない。一生大切にすると誓う。だから、だから……」
「できません」
「二度と同じ過ちは犯さない。お前にずっと償い続ける。王座も、権力も、名誉もいらない。お前だけそばにいればいい。だからアイナ、頼むから俺と……っ」
「できません」
「お前のことが好きなのだ!」
血を吐くような叫びだった。
「愛している、愛している愛している愛している! お前を心から愛している。番だからではない、愛したお前が番だから嬉しかったのだ! 俺は順番を間違えた!」
「ガルゼルさま……」
「俺を捨てないでくれ、アイナ……!」
檻の隙間から伸ばす指先には血が滲んでいた。
必死な顔。必死な声。
胸を衝かれる気がしたが、アイナはそれでも首を振った。
「できません」
「どうして!」
だって。
「……好きな人がいるんです」
それを聞き、ガルゼルは呆けた顔になった。
「何、……?」
「その人のことが好きだから、あなたと一緒には行けません。ごめんなさい、ガルゼルさま」
これを告げる気はなかったが、告げないのは不誠実だと分かっていた。
「だから、ちゃんとお別れしたかったんです」
「アイナ、どうして……」
「あなたにはこの先きっと、大変なことが待っている。辛いこともあるかもしれません。でも、大丈夫です」
そっとその手に触れて、目を閉じる。
「どうか、生きてください」
「――――!」
「そしてたくさんの人のために働いてください。さっきも言いましたけど、ガルゼルさまならきっとできます」
「……そこに……お前はいないのにか?」
「昔の私と似たような人が、この先もいます。その人たちを助けてください」
どうか、お願いだから。
手を離すと、ガルゼルの指は地に落ちた。ぱたりと小さな音がした。
「……それがお前への償いか」
「どうでしょう……いえ、そうですね」
「それなら命を懸けねばなるまい。番との約束は絶対だ」
「はい、信じてます」
そろそろ時間かと思ったアイナの横で、「手を」というガルゼルの声がした。
「もう一度……手に触れさせてくれないか」
「え?」
「指だけだ。何もしない」
目を見張ったが、アイナは素直に手を伸ばした。檻越しに指先が触れ合い、そっと握られる。かさついた手がアイナの指をなぞり、爪をなぞって、愛おしむように触れていく。不思議と嫌な感じはなく、聖なるものに触れるような手つきだった。
彼はそっとアイナの指先に口づけた。触れるか触れないかの距離で、静かに離れる。その手を両手で捧げ持ち、彼は自らの額につけた。
「…………悪かった……」
謝罪の声は、ようやく聞こえるほどだった。
アイナは無言で首を振り、涙がこぼれないよう力を込めた。
もういい。もう十分だ。
先ほども言ったはずの言葉を、もう一度告げる。
「――許します」
そして静かに手を引き抜く。
背を向けた後も、ガルゼルが自分を見つめているのは感じていた。
なつかしいその視線。その気配。
だから、振り向く事はしない。
――プツリ。
その時、細い細い糸が切れる音が聞こえた気がした。
でもそれは、気のせいかもしれない。
アイナは前を向いて足を進めた。
そして二度と振り向かなかった。




