23.わたしは番じゃない
「お……俺は……っ」
「前王と同じ轍を踏んだか。狼の一族は、皆よく似ているらしい」
番に対する扱いも、番でなくなった相手への言動も、やはり番だと分かった場合の反応も。
――そして、それを失った際の行動も。
痛烈な皮肉だったが、当人にはそんなつもりなどないらしかった。ただの事実として、無感動に述べている。客観的な見解は、けれど相手の精神を的確にえぐったようだった。
「しっ……仕方ないだろう! アイナの匂いは香水と同じだった。俺は何も悪くない……っ」
「間違えたのは仕方ない。だがお前は――お前たちは、番でないと思い込んだ相手に『何』をした?」
「それはっ……」
「違うと分かったのなら、そう言えばよかっただろう。それができない相手ではなかったはずだ」
話し合い、妥協点を見つけ、納得する道を探せばよかった。少なくとも互いの言い分は分かったはずだし、それだけでも何かが違っただろう。
その結果、家に帰す事になったかもしれないし、二度と会いたくないと詰られたかもしれない。別れたくないとごねられたかもしれないし、もしかすると、泣かれたかもしれない。それでも相手を尊重し、誠実に向き合う事はできたはずだ。
そもそも、とギルフェルドは口にした。
「番と言ったのは人間でなく、獣人のお前たちだろう。何の咎もない相手に、どうしてあんな真似ができた?」
「それは……」
「間違えたのはお前たちで、彼女たちではない。それがなぜ分からない?」
番だと思い込んで手を差し伸べ、その手を取った相手を責めた。それを理不尽だと言わずに何と言おう。
人間は番を感じる事ができない。ゆえに、申し出るのはあくまでも獣人の側だ。番を感じ取るのも、間違えるのも、常に獣人の側なのだ。人間からそれを言い出す事はない。
例外は前王のような場合だが、それほど同情の余地はない。娘と肉体的に結ばれる前は、理性を失うほどの芳香ではなかったと聞く。娘の誘いに乗らなければ、どこかでおかしいと気づいただろう。あの香水に持続性はない。やがては娘の体臭を不快に思い、遠ざける事ができたはずだ。
娘の匂いに惑わされ、誘われるまま手を出した。一国の王の決断としては、あまりにも未熟だ。
「もう一度問おう。話し合いもなく、一方的に、偽物と蔑んで虐げた理由はなんだ。お前の勝手で獣人の国に連れてこられ、逃げることもできなかったアイナに対し、言うべきことがあるだろう」
――愛の言葉を囁く前に。
そう告げられて、ガルゼルはぐっと唇を噛んだ。
「おれは……俺は、だからっ……」
「前王でさえ、跪いて許しを願った。請うのは相手の愛情ではなく、自らの愚かさに対する贖罪だ」
言外に、それ以上の事は認めないと告げる。
ガルゼルは喉を喘がせて、それでも声を振り絞った。
「……知らなかったのだ! 俺が悪いわけではない。そもそも紛らわしい匂いをしていた香水と、それを作ったやつが悪いのだ!」
「では、お前は確かめなかったのか」
「何?」
「アイナの訴えを聞き、一度でも調べなかったのか。私でさえすぐに気づいたことを、どうしてお前は分からなかった?」
「だからそれは、匂いがっ……」
「話にならない」
それで会話を打ち切ると、ギルフェルドはふいと顔を背けた。
ガルゼルは血走った目でアイナをにらんだ。
「アイナ! お前なら分かってくれるだろう。俺はお前を愛していた。大切にしてやっただろう。お前は俺の番なのだ!」
「ガルゼルさま……」
「服でも宝石でも与えてやった。なんでも望みを叶えてやった。忘れたとは言わせない、それこそが愛の証だ!」
先ほどまでの話を聞いていなかったのか。
そう思ったが、アイナは何も言えなかった。
ほんの一瞬、何かが胸をかすめていく。先ほどと同じ、それは小さな予感だった。
「あと少しだったのに……あと少しで、お前を番にできたのに」
「……番?」
「そうすればすべて解決したのに……お前が番に戻ったのなら」
ガルゼルはぶつぶつと呟いている。その表情は追い詰められているが、悪びれてはいない。
(この人は……)
何も分かっていないのか。
あれだけ言ったのに、何も心に響かなかったのか。
愕然とする思いとともに、アイナはひとつの事実に気づいてしまった。
――ああ、そうだったのか。
それが分かった瞬間、胸が締めつけられるように痛んだ。
それを認める事は苦しくて、けれど目をそらす事はできなかった。
「……私が番に戻れば満足ですか」
「アイナ……!」
「あなたに笑いかけることも、言葉を交わすことも、幸せを感じることもない。そんな状態で、体だけ戻れば満足ですか」
ぱぁっと顔を輝かせたガルゼルが、「もちろんだ!」と叫んだ。
「お前はそばにいてくれさえすればいい。番ならば当然だ」
「私は幸せじゃありません。それでもあなたは満足ですか」
「番なら、いずれ幸せを感じるだろう。今は不幸でも構わない」
少しの辛抱だとガルゼルが微笑む。先ほどと同じ、子供のように無邪気な目だった。
「もう一度だけ言います。私は幸せじゃありません。それでもあなたは満足ですか」
「何度も言わせるな。今は不幸でも、いずれ幸せになるだろう」
俺はいつまでも待つつもりだと、堂々と告げる。
アイナは目を伏せ、吐息を殺した。息苦しいほどの沈黙があった。
「――だから……嫌いになったんです」
「アイナ?」
「私の意思はどうでもよくて、私の幸せもどうでもいい。それが番なら、そんなものは欲しくない」
いつの間にか、目の端に涙がにじんでいた。
涙の理由を、今のアイナは知っていた。けれど、口にするつもりはなかった。
「もう一度言います。私はあなたの番じゃない」
「何を言う、アイナ!」
「番じゃなくなったんです。あなたが私を捨てた日から」
「……!」
ガルゼルははっと息を呑んだ。
「あなたが私をいらないと言って、奴隷にした日。あなたとのつながりも切れました」
それに対する謝罪もなく、夢のような未来を語る。
幸せな顔で、輝かしい日々を思い描き、その隣にアイナがいる事を疑いもしない。
そんな傲慢で身勝手な男、誰が愛するというのだろう。
「お、俺は……」
「あなたといても、幸せになれない。それがよく分かりました」
ガルゼルは愕然と立ち尽くしていた。
ようやくアイナの声が届いたのだろうか。気づかないでとアイナは思った。
多分、今のガルゼルは分かっていない。だから教えるつもりもない。
だって、言うべき事は同じだった。
「……あなたなんか……いらない」
涙がこぼれ、目の端を伝った。
ギルフェルドは黙ったままそれを見ている。痛ましげな顔をしたのがどちらに対してか、アイナには判断できなかった。
涙が次々にあふれていく。その理由も知っていた。
「待ってくれ! お前も俺を好きだっただろう。恋ではなくとも、思い合っていたはずだ!」
「……あなたなんか……好きじゃない」
ぼろぼろと泣きながら、必死に声を絞り出す。
「あなたは私の番じゃない。一生目の前に現れないで……!」
泣きじゃくるアイナに、ガルゼルは呆然とした顔をしている。その手が伸ばされ、力なく落とされた。
がっくりとうなだれたガルゼルが、竜人に連行されていく。
それを見送ると、静かに布が差し出された。
「……すみません」
ギルフェルドに礼を言い、涙を拭く。
「怖い思いをさせた。すまない」
「大丈夫です。言いたいことが言えたので、かえってよかったです」
「だが、お前は泣いている」
その言葉にアイナは微笑んだ。無言で首を振る。
その理由はちゃんと分かっている。だから、ギルフェルドが気にする事はない。
「ガルゼルさまは……これからどうなるんでしょう」
「しばらく拘束して、尋問する。それが終われば、狼の国に処遇を任せることになるだろう。二代続けての醜聞だ。あちらも気が気ではないだろうが」
「命は……」
「本来なら重罪だが、相手が国王だ。命を取られる心配はない」
そうか、とアイナはほっとした。
ほっとする自分が嫌だったが、口には出せなかった。
ギルフェルドに送られて、アイナは自分の部屋に戻った。
扉を開けると、ファナとシェーラが待っていた。二人ともアイナを心配してくれたらしい。泣いて喜ばれてしまい、アイナがなだめるほどだった。
無事を喜び合い、シェーラと別れた後で、どっと疲れが出てしまった。
寝台に倒れ込み、アイナはぐったりと目を閉じた。
胸の痛みは続いている。おそらく、消える事はないだろう。
全部夢だったらいいのにとアイナは思った。
深く深く息を吐き、体の力を抜く。
胸をうずかせるこの痛みが、消えてしまえばいいと思いながら。




