3-17.子ども扱い、大人扱い【挿絵】
聖輝が炉の火を見つめて語った。
「……幼い頃の私は、しょっちゅう寝込んでばかりでね。そのたびに母がこの飲み物を作ってくれたんです。大きくなってくると、母もだんだんと忙しくなってきて、あまり私に構っていられなくなりました。そういうときは、姉が同じものを作ってくれました」
「聖輝さん、お姉さんがいるんですか?」
「ええ、あなたと同じですよ」
アミュウはすっかり平らげた椀を両手で包み、うつむいた。
「……私とナターシャは、血はつながっていないわ。だけど、確かにナターシャは、貰われっ子の私に、ものすごく良くしてくれた」
聖輝は目を細めた。
「傍目には、実の姉妹とおなじくらい仲良く見えますがね。ああ、そういえば料理がうまいところなんかも、ナタリアさんはうちの姉と似ている」
ナタリアの話題になり、アミュウはワインで忘れかけていた胸の重苦しさを思い出した。黙り込んだアミュウに構わずに、聖輝は話を続ける。
「さっきは、豆とベーコンの煮込みをご馳走になりましたよ」
「え? 実家で食べてきたの?」
「すぐ失礼するつもりだったんですけどね。せっかくだから食べて行けと」
アミュウは聖輝を睨みつけた。腹にものを入れた分、少しだけ気力が回復してきていた。
「ナターシャには近づかないって、自分で言ってたじゃないですか」
それを言えば、聖輝をカーター邸へおつかいに行かせたアミュウ自身にも落ち度があるのだが、アミュウはそれを棚に上げて聖輝を責めた。
「それはそうなんですが……相談したいことがあると言われてしまいまして」
「相談したいこと?」
「ええ」
聖輝はアミュウから空になった椀を受け取ると、流しのたらいの水でゆすいだ。食卓の椅子をベッドのそばに寄せて座る。
「パーティーのときに、ケインズ・カーターの息子にからまれたそうですよ」
アミュウは聖輝から目線をそらした。
「……知ってます」
「おや、そうでしたか」
「立ち聞きしたの。ジークと一緒に」
聖輝は「はは」と声を上げて苦笑した。
「そういえばあなたは、私とナタリアさんの話も立ち聞きしていたんでしたっけね」
アミュウはもともとそっぽを向いていたのを、さらに目を伏せた。
「悪かったわね」
聖輝は笑うのをやめたが、その目には面白がるような煌めきがいまだ消えていない。
「カーター氏との関係で、悩んでいるようですよ。家族の問題ってやつですか」
「ナターシャにはナターシャの立場があるわ。それとどう折り合いをつけるか、私には口出しできない」
「ほう」
聖輝は意外そうな声を上げた。
「アミュウさんは、若いわりに達観しているんですね」
「私は、責任のない身分だから。ナターシャの負っているものを、代わりに負ってあげることはできない」
「そうですね。いくら田舎とはいえ、カーター家ほどであれば、後を継ぐにも色々と悩みがあって当然です。でもアミュウさん。それを誰かが代わってあげることはできなくても、その重みを分かち合うことはできるはずですよ」
アミュウは聖輝をじろりとにらんだ。
「田舎は余計です」
「これは失礼」
アミュウは身震いした。ずっと石壁にもたれていたので、背中が冷えたのだった。壁から背を離し、上掛けごと膝を抱く。
「寒い……」
「もう一杯、どうですか」
聖輝が流しに置いてある椀を取りに行こうと立ち上がるのを、手を掴んでアミュウは引き止めた。
「行かないで」
聖輝が小さく息を飲んだのが分かった。
黒い瞳に驚きが浮かび、それは困惑へと色を変えたのち、急速に光を失っていった。その瞳の温度とは裏腹に、聖輝の手は温かかった。
「そういう酔い方は褒められませんね」
聖輝はアミュウの手を振り払おうとしたが、アミュウは病人なりの力をありったけこめてその手を握り、離さなかった。そして小声で言った。
「酔ってません」
「いえ、顔が赤いですよ」
「酔ってませんってば」
アミュウは聖輝をきっと睨みつけた。心臓が音を立てて緊張と弛緩を繰り返している。その脈動はアミュウのこめかみと後頭部を容赦なく締め上げる。頭痛が頂点に達していた。片手で膝を抱えていたアミュウは、もう片方の手で聖輝の手を握ったまま、卵が横倒しになるような恰好で、ごろんと枕に頭を預けた。
聖輝はアミュウに手を引かれて前かがみになっていたが、やがて大きなため息をついて、自由な方の手でアミュウの上掛けを肩まで引き上げてから、椅子をさらにベッドに寄せて座り込んだ。
「酔っていないなら、なおのことたちが悪いですよ」
アミュウは黙って、掴んだままの手と手を見ていた。聖輝の手は大きく湿っていて、アミュウの手には余る。本気で振りほどこうとすればたやすいだろう。聖輝は空いている方の手で前髪をかき分けて頭を抱えた。
「まったく、妙に悟ったようなことを言ったかと思えば、今度は子どもの真似ですか」
「子どもっぽいですか」
「聞き分けの無い子どもと同じですよ。何を拗ねているのやら」
どこかで聞いたことのある言葉だった。アミュウはジークフリートの言ったことを思い出した。
(聖輝がこっちを見てくれないって言っていじけてるのは、なんだか意外でさ)
ジークフリートは案外勘が良いのかもしれないとアミュウが考え込んでいるのを、聖輝は沈黙と受け取ったようだった。
「……ひょっとして、大人として扱ってもらいたいのですか」
聖輝はつかまれた手を今度こそ振りほどくと、指を絡め直し、自由な右手でアミュウの耳殻をそろりとなぞった。手はゆっくりと這うように、耳から首筋へ、首筋から鎖骨の凹凸へ――アミュウはまばたきも忘れて、聖輝を見つめ返していた。彼の黒い瞳は温度という温度を失い、冷え切っていて、火遊びのはじまりにふさわしい情熱の火の手は少しも上がっていない――否、押さえつけているような。
カーテンは大きく開いている。冬の陽射しは灰色を帯びて、部屋の中を明るく照らしていた。食卓には、聖輝のインク壺が置きっぱなしになっている。その蓋の上に載せていたペンが、音を立ててひとりでに落ちた。
聖輝の指先が、緩めたアミュウの襟元からはだけた鎖骨をなぞり終えたところで止まった。
「拒まないのですね、あなたは」
「聖輝さんにその気の無いのが分かっているから」
「はは、あなたに手を出したら、ナタリアさんに殺されてしまう」
そう言って聖輝はアミュウの胸元から手を離し、そのままアミュウの髪を撫でつけた。アミュウは、顔を背けて咳き込んだ。咳き込みの収まらないうちに、かすれ声で呟く。
「そうやって、またナターシャの話をする……」
「彼女のことを抜きにしたって、病人に手を出すほどさかっていませんよ。それに」
聖輝は苦笑いを浮かべたが、目はまったく笑っていなかった。
「私がどれだけナタリアさんを追い求めているか、あなたに分からない筈がないでしょう」
「……やっぱり、牽制していたのね」
アミュウはため息をつきたかったが、気管が耐え切れず、ヒューヒューと狭窄音を鳴らしながら喘ぐのみだった。
まだ二人の手は繋がれたままだった。
聖輝は無理な体勢で片手を伸ばし、畳んだ布団から自分の枕を引き寄せると、アミュウの枕の下に入れて、高さを確保した。アミュウがジョシュアにやってあげていたのと同じことだが、上体が高くなることで、アミュウは呼吸が確かに楽になった。アミュウは、自分がジョシュアに対して行った手当てが正しかったことを、身をもって理解した。聖輝はもう一度アミュウの髪を撫でつけ、毛先まで梳かしとおした。
「少し、休みなさい」
アミュウは素直に目を閉じた。しかし、口までは閉じなかった。
「手、このままでいて」
「やっぱり子どもじゃないですか」
「子どもじゃなくちゃ、そばにいられないのでしょう」
聖輝はたっぷり考え込んだあとに、穏やかな声で言った。
「大人扱いをしてしまっては、少なくともこの暮らしは続けられませんね」
表通りに、学校上がりの子どもたちが駆けていく足音と歓声が響いた。この頃はもう、学校は通常通りの日課を再開していたのだった。アミュウは目を閉じたまま、その邪気の無い声と靴音が遠くに消えていく余韻を味わっていた。
ワインの酒気が体中をめぐって体を熱くさせているのに、アミュウは今になって気付いた。アミュウは目を開いた。酔いを自覚すると、止める間もなく、押さえつけていた疑問がぽろりとアミュウの口からこぼれ落ちた。
「……聖輝さんは、私のことをどう思っているの」
聖輝は今度もたっぷり時間をおいてから、こう答えた。
「それを話したら、やはりこのままではいられなくなるでしょう」
「今なら、セーフなの?」
「ぎりぎり、ですね。このまま眠って起きたら、またいつもと同じ、しっかり者の魔術師と、食わせ者の牧師見習いの二人組です。私はあなたの安全を守り、あなたは私の失くした記憶の手がかりを私に提供する。ギブ・アンド・テイクの関係です」
アミュウは枕の上で頷いた。頭の芯が酔いと頭痛に痺れて溶けそうだった。
繋いでいた手を離すと、アミュウは重い頭を抱えて上体を起こし、カーテンを引いた。そして聖輝に背を向けて、一息に寝間着を脱いだ。聖輝が息を飲む気配が伝わってくる。アミュウは構わずに紙袋に手を伸ばし、借り物の寝間着に着替えた。
「いきなりは反則ですよ。心臓に悪い」
顔を背けていた聖輝が閉口して言った。アミュウは意地悪く言った。
「子どもなんだから平気でしょう」
アミュウは脱いだ寝間着をたたんで枕元に置くと、高くした枕に頭を預け、聖輝に向かって手を差し出した。
「聖輝さん」
「なんですか」
「手を繋いでいて」
聖輝は返事の代わりにため息をついて、アミュウの手に指を絡めてきた。
「聖輝さん」
「まだ何かあるんですか」
アミュウは目を閉じて、眠る態勢に入った。
「キスして。子どもにするみたいに」
聖輝が身じろぎしたのが、繋いだ手の先から伝わってきた。いつまでも続くかのような静けさののち、衣擦れの音がした。
「今だけですよ」
抑えた吐息の温かさが感じられたかと思うと、頬に乾いた感触がふってきた。
聖輝の顔が離れてから、肉桂と丁子の芳香に混じって、酒臭さがアミュウの鼻腔に届いた。自身もまったく同じにおいを振りまいているのだろうと、痺れる頭の片隅でアミュウは考えた。




