2-19.残酷な束縛【挿絵】
「ちょっと待っていてください」
そう言うと聖輝は、台所へ続く扉の奥へ消えていった。まだフィオナが夕飯の片付けをしていたらしい。フィオナと聖輝が何やら話し合う声が聞こえ、じきにその声が途絶え、さらにどれくらい待っただろうか。
ノックの後に、カップを手にした聖輝が扉の奥から現れた。
「どうぞ。温まりますよ」
アミュウはそろりと藁のベッドから降り、聖輝からカップを受け取った。カップは熱く、湯気とともにシナモンがにおいたつ。中身は赤黒い液体だった。
「ワインですか」
「そう。酒気を飛ばしたので、飲みやすいですよ」
アミュウは立ったままそのとろりとした液体を舐めた。スパイスの香り、オレンジの果汁の甘酸っぱい風味。確かに、アミュウの口に合った。
アミュウはすとんとスツールに座り、次の一口を啜った。そして、もう一口。聖輝は微笑み、壁際からもうひとつのスツールを引きずり出して斜向かいに座り、自身はすっかり冷めたであろうお湯割りを啜った。
「あのね、聖輝さん」
「はい」
(あなたが追いかけているのは、私自身ではなく、あなたの失くした記憶を取り戻す手がかりとしての、単なる夢の虚像でしかないのではないですか)
「どうして私とナターシャに、紙雛をくれたんですか」
「おっと……そうだ、すっかり忘れていた」
そう言って聖輝は革の鞄をまさぐり、何かを取り出した。アミュウに差し出された聖輝の手のひらには、新しい紙雛が収まっていた。
「この前のは使えなくなりましたからね。もうこの人形の役割は分かるでしょう。肌身離さず持っていてください」
アミュウはそれを受け取ることができなかった。代わりに、アミュウ自身にもまったくわけが分からなかったのだが、ひとりでにアミュウの目から涙がこぼれ落ちた。
「ちょっ……ちょっと、アミュウさん?」
さすがの聖輝も慌てふためいていた。アミュウ自身も驚いたが、一度緩んだ涙腺はなかなか締まらなかった。アミュウはまだ熱いカップを両手で包んだ。
「受け取れない。だって私、知ってるわ。それは神聖術の禁じ手なんでしょう。きっとその紙雛には、あなたの血をそそいだんでしょう。あのとき森で、私たちは、あなたの血に守られたんだわ。どうしてそこまでするの? どうしてそこまでして、私とナターシャを守るの?」
そこまで一気に言い切ってしまうと、アミュウは作業台に突っ伏した。聖輝が困惑しているのが分かると、アミュウの留飲はいくらか下がった。胸を満たしていく満足感。自分の狡さの片鱗を掴みかけた気がしたが、今は、アミュウは理性の舵を握っていることができなかった。
「えっと……かなり火を入れたはずなんですが。酔ってます?」
「そんなことないわ」
アミュウは突っ伏したまま答えた。聖輝はスツールをアミュウの隣へ寄せると、再び鞄をまさぐった。
「なら、こっちは受け取ってもらえるでしょうか」
アミュウはほんの少しだけ頭を動かし、髪と腕の隙間から聖輝を窺った。差し出された手には、鮮やかな藍染めのハンカチが握られていた。
「……これは」
「ほら、例の呪いを解いたとき、ハンカチを駄目にしたでしょう。本当はもっと早く渡そうと思っていたんですが、なかなかタイミングが合わなくてね」
アミュウはそれを受け取ると、目のふちをぬぐった。新しいハンカチには糊が効いていて、目に当てるとごわついて痛かった。ハンカチの、涙を吸って色の濃くなったところをじっと見つめていると、目の奥からまた新しい涙が湧いてきた。アミュウは再度目頭を押さえ、ホットワインを啜った。
しばらくアミュウも聖輝も何も言わなかった。ランプの灯は細く頼りなく、しかし、見えない糸でぴんと張られたように動かなかった。
「アカシアの記録というのをご存知ですか」
アミュウは小さく頷き、掠れ声で答えた。
「王都の魔術学校で教わりました……この世の全ての歴史が、過去から未来にわたるまで記された、高次元の書物ですね」
「そう。神の領域にあるとされるこの書物には、この世界が生まれてから滅びるまで、そして人ひとりが生まれてから死ぬまで、すべてが詳らかに記録されています。五百年前に世界の言語統一がなされたが、その書物の言葉だけは翻訳できなかった。つまり、誰からも読まれることのない本です。
しかし、魂にその資格のある者は、稀にアカシアの記録を読み取ってしまう場合があります」
アミュウはゆっくりと聖輝の言葉を噛み砕き、ホットワインで喉を湿して言った。
「私の見る夢のことですね」
聖輝は頷く。
「私もナタリアさんも、その資格を持っていた筈でした。しかし、あなたにまじないを掛けられた後、その資格を剥奪された――記憶を失くした。新しくアカシアの記録を読むことができなくなっただけでなく、過去に、どんな記録を読んできたのかまで、忘れてしまった」
聖輝は、紙雛を弄びながら言う。
「あなたの見る夢は、私たちが失くした記憶そのものだ。そして、断言しましょう。あなたもナタリアさんも、きっとこれから間違いなく危険にさらされる。だから、これを持っていてほしいのです」
聖輝はもう一度アミュウに紙雛を差し出したが、アミュウは力なく首を横に振るのみだった。
「嫌です。わたし、自分の身は自分で守れます。聖輝さんの血を使うことなんか、ない」
聖輝は頭を掻くと、諦めたかのように紙雛を鞄にしまって言った。
「仕方ない……では、私は今まで以上にあなたに付きまといますよ。あなたもそのつもりで、私のそばから離れないでください。いいですね」
アミュウはじっとランプの灯を見た。埃と煤で汚れたホヤの中で、細く弱々しく、しかし少しも揺らがずに、凛と輝く灯りだった。土間は薄闇に沈んでいる。聖輝の顔は、小さな灯りに照らされて、普段と違う陰影を浮かび上がらせている。
(はじめてあの夢を見た夜も、こうして聖輝さんと話したんだった)
あのとき、聖輝の前でアミュウは不思議なほど滑らかに、するすると夢を語れたのだった。今になって思えば、当然だ。聖輝はその情報を望んでいたのだから。そしてその後、柘榴の夢を語ったとき、アミュウはうまく言いたいことを言えなかった。聖輝にとって重要な情報ではなかったのだ。そして、アミュウはずっと、騎士シグルドがジークフリートと瓜二つであることを聖輝に話そう、話そうと思いながら、切り出せずにいた。聖輝が望んでいる情報を全て渡してしまえば、彼にとってアミュウは用済みとなる。それを予感して、先延ばしにしていたのだ。
「いいですね」
聖輝は繰り返して念を押す。アミュウは頷いた。
「わかったわ」
その瞬間、アミュウは聖輝の言葉に縛られたことを自覚した。アミュウは彼のそばから離れられない。同時に、アミュウも聖輝のことを縛ったのだ。アミュウの見る夢に価値がある限り、聖輝はアミュウから離れられない。
それは残酷な束縛だった。
聖輝が結局、アミュウ自身のことを見ていないのだと認めるのと同義だった。それを甘んじて受け止めた上で、アミュウは自身の夢を取引材料として差し出したのだ。
(言うべきこと、言わないでおくべきことを慎重に見極めなければ)
冷めてぬるくなったホットワインを飲み干すと、再び涙が湧き上がってきた。アミュウはうつむいて顔を隠し、再び作業台に突っ伏した。傷だらけの作業台は、けものの臭いがした。
惨めさを全身で噛みしめていると、そのうちに身体が熱くなってきた。どくどくと血が波打つ。
(血塗られた人形なんて、絶対に使ってはいけない……)
渦巻く意識の中で、アミュウは、イノシシを退けた聖輝が眠り込んだときに触れた身体の温かさを思い出していた。時間の感覚も薄れ、アミュウとそうでないものとの境界が溶けていく寸前、その温もりが夢のように彼女を包むのを感じた――浮遊感。彼女を包む温もりそのものに、彼女は赤子のようにしがみついた。一定のリズムで揺られていくうちに、彼女は今度こそ深い眠りに落ちていった。




