第四章 8
その静寂が、決して無事であることの証明にはならないことは私にもわかった。
空気が、重い。
王城を望む、正面の広場だ。
美しく敷き詰められていた石畳は無残に砕かれ、陥没し、大きな亀裂が四方八方へ延びている。
死体の数は、数える気にもなれない。
〝闇の種族〟の屍もあるが、大半は人間――ここで城を背に討ち死にした騎士たちだ。
「嫌な感じだな」
カイルが、眉間に皺を寄せて王城へと続く巨大な門を見上げた。
そう、確かに嫌な感じだ。
なんともいえない不気味さが、静寂の中に潜んでいる。
これだけの人間が息絶えた場所であれば、そう感じるのは生物としての本能だが、あいにくと私にはそういうものは備わっていない。
この不快さ、重い空気、背筋を這い上ってくる悪寒は、不安や畏れなどの精神的動揺からくるものではなく、確固たる物理現象に起因するものだ。
だが、いったいなにが起こっているのか。
「どうやら――」
声は背後からだが、慌てて振り返る必要はない。
「この門から、〝闇の種族〟の大群が現れたらしい」
ふらりと現れたのは、アーネストだ。
「城の中からだと?」
門を見上げたまま、カイルは眉根を寄せる。普通に考えれば馬鹿げた話だが、彼は言下に否定しようとはしなかった。「もうすでに城は落ちたのか?」
「いや」
アーネストは、自分でも納得していないのか、目の下を少し歪めた。「城の中から出てきたんじゃなく、その門から飛び出してきたんだと」
その瞬間を目撃した者によると、開いていない門から、〝闇の種族〟が次々に広場へとなだれ込んできたらしい。
私はふと、周囲を見渡した。
騎士たちは城に繋がる門を死守した、と先入観で判断してしまったが、そう言われてみると彼らの陣形には不審な点がある。強力な〝闇の種族〟に蹴散らされ、隊列が崩壊したことを差し引いても、門の防御ではなく広場から門を包囲しようと試みた形跡があった。
「どういうことだ?」
「さあなあ」
さしてその謎に関心があるわけではないのか、アーネストの相槌には心がこもっていない。閉じられた門を横目にするその顔には、早くここから立ち去りたい、と言わんばかりの嫌悪感が滲み出ていた。
「入ってみりゃわかるだろ」
やはりというかなんというか、リロイはためらうことなく門へと近づいていく。その背中を、カイルは唖然としながらもどこか羨望の眼差しで、アーネストはただ単に正気を疑うような目つきで見つめていた。
私は小さく肩を竦めて、歩を進める。
巨大な両開きの鉄扉は、機械仕掛けだ。人力でも開閉可能だが、成人男性が十人ほど必要になる。
リロイはそれを、ひとりで押し開いた。
重い響きとともに視界が開け、美しい王城の姿が目に飛び込んでくる。変わらない姿だ。待ち伏せていた〝闇の種族〟が襲いかかってくることもない。
そこにあるのは、広場と同じ不穏な静寂だ。
否――同じではない。
門をくぐった瞬間に襲いかかってきたのは、強烈な眩暈だ。
視界が収縮し、色を失い、上下左右の感覚が消失する。堪えることもできずに膝をついた私は、先を進んでいたリロイもよろめき、辛うじて崩れ落ちずに耐えている姿を目にした。
「なんだ――こりゃ」
忌々しげなアーネストの呻き声が、地を這う。
答えられる者はいない。
真っ先に思い浮かんだのは毒物だが、私のセンサーはそれを否定した。少なくとも、データベースに存在するあらゆる毒物と合致しない。
毒にはめっぽう強いリロイにも効果があるところからして、毒とはまったく別の現象では、と推測できるが――
「まさか、火か」
切迫した声色はカイルだ。足を止めた私たちの周囲を、黒煙のようなものが漂い始めている。
「いや」
私より先に、リロイが否定した。「臭いが違う」
リロイの嗅覚は(本人曰く)犬並みだが、そうでなくともこの黒い靄のようなものが燃焼ガスでないことはすぐにわかった。
ではなんの臭いかと訊かれれば、まったく見当がつかない。
なんなんだ、これは。
「どこかで、嗅いだことがあるな」
心当たりでもあったのか、リロイは小さく呟いた。鼻孔を膨らませて、得体の知れない粒子を吸い込む。しかし、その記憶の断片を掴むことができなかったのか、顔を顰めて首を振った。
「なんだろうな、変な感じだ」
「俺は嫌な予感しかしないね」
アーネストは、忌々しげに吐き捨てた。「ほら、見ろよ。さっきは酷い二日酔いみたいだったってのに、もう平気だ」そして口の中だけで「イヤだイヤだ」と漏らしながら、カイルに煙草をねだり始める。
確かに、あの異様な感覚はそれほど長くは続かなかった。依然として黒い霧のようなものが漂ってはいるが、心身に異常はない。
「帰りたいなら、無理にとは言わないからな」
煙草を一本、渡しながらのカイルの台詞に、アーネストは大げさに傷ついた表情をして見せた。
「おいおい、そこは帰らないでくれって頭を下げるところだろうが」
自身も煙草を口に咥えながら、カイルは小さく鼻を鳴らす。「そう思われたければ、もう少し真面に働いてほしいものだがな」
「無給でかよ……」
アーネストは天を仰ぐ。
そんなふたりに背を向けたまま、リロイはすでに歩き始めていた。
先を急ぐ、といった感じではない。
私はその傍らに並ぶと、珍しく硬い表情の横顔を一瞥した。
「どうした」
「わからん」
口ではそうきっぱり言い放っても、表情には困惑と苛立ちが張りついている。
この男にしては、珍しい。
わからないことにはさっさと見切りをつけて前に進むのが常だが、なぜだかこの現象では立ち止まってしまった。
なぜだろう、私の背筋をひやりとした感触が這い上がってくる。
「それなら、いつものことだな」
だから私は、いつものように揶揄した口調で言った。
リロイは、苦笑いを浮かべ「まあな」と返す。
それでようやく踏ん切りをつけたのか、足取りに力が戻った。
「正面からか」
すぐ後ろのカイルが、言った。リロイは、足下を舐めるように漂っている黒い霧を蹴散らすように進む。
「それ以外になにがある」
これにカイルは小さく笑ったが、うんざりしたようにため息をついたのはアーネストだ。
「いやいや」彼は、呆れたように顔を顰めた。「愚の骨頂だろう」
そういうと、ふらりとした足取りで私たちとは別方向へ向かい始めた。逃げ出したわけではない。その爪先の向かう先から考えるに、城をぐるりと回り込むつもりか。
「俺は好きにやらせてもらうよ」
彼はそのまま、緊張感のかけらもない様子で私たちから遠ざかっていく。リロイがちらりとカイルを横目にすると、彼は紫煙を吐きながらひらひらと手を振った。
「いいのか?」
そう訊いたのは私だ。なにが潜んでいるかわからない場所を、ひとりで行かせてもいいのだろうか。
「あいつはもともと、単独行動のほうが得意だからな」
アーネストの能力を信用しているのか、カイルに心配する様子はない。確かに、門の前で合流するまで彼は単独行動だった。戦闘能力が高いというよりも隠密能力に秀でているのだろうか。
「爆殺される危険が減って、ありがたいことだ」
リロイは意地の悪い笑みを浮かべたが、この男も特に言及しなかったということはそういうことなのだろう。
私たちはなんら妨害や攻撃を受けることもなく、左右に見張り塔を備えた城門に辿り着く。
門は、開いていた。
そしてどうやら、 この黒い霧は城の中から漂い出てきているようだ。
「胡乱、剣呑」
カイルが、小さく呟く。選んだ言葉の割には、その表情に怯懦は微塵もない。
「望むところだろ?」
そして我が相棒はといえば、むしろ楽しげである。挑戦的、といったほうが正しいかもしれない。
カイルは、片方の眉を小さく持ち上げた。
「随分、余裕があるな」
「まさか」
黒い霧を踏み躙りながら、リロイは城の中へと踏み込んでいく。
「俺はいつでも必死だよ」
そう呟く黒い背中を、カイルは目を細めて見据えた。その言葉に隠された真意を探るかのようだ。
だが、嘘や冗談ではない。
手加減をする、手心を加える、といったことができないことを必死、と言うのならば、の話だが。
「――待て」
カイルがそう声をかけたが、リロイもすでに気がついている。
そして止まらずに、走り出した。
城の玄関ともいえるその場所は、広大なホールになっている。高い天井と、それを支える装飾された柱、そして螺旋階段が絵画のように美しく訪問者を出迎えていた。
リロイは、その柱のひとつへと駆け寄った。
何者かが蹲っている。
女性だ。
華美でなく、しかし機能美を形にしたような制服は近衛騎士団のもの――しかも、ほかの騎士たちとはデザインが違うそれに袖を通すことができるのは、ただひとり、騎士団長だけである。
つまりそこに膝をついているのは、近衛騎士団の団長、ミシェールその人だということだ。 だがなぜ、女王の側近くに仕えているはずの彼女が、こんなところにひとりで?
「どこだ?」
ミシェールに外傷はなかったが、顔色は土気色で脂汗をかき、かすかに身体を震わせている。右手に剣を握っているが、それが限界で、おそらくは振るうことすらできないだろう。
そんな彼女に向けての第一声が「どこだ」とは、相手を気遣う素振りすらない上に、相手によっては意味不明な質問だ。
だが幸いにも、ミシェールはプロだった。
我が身を慮る声がなくとも、リロイの意図を朦朧とする意識ではっきりと言葉を紡ぐ。「執務室だ」そしてさらに、続ける。「竜頭人身の〝闇の種族〟に、陛下と殿下が捕らえられた」
そう言って彼女は、悔しげに呻く。
竜頭人身、と言われれば嫌でもトゥーゲントを連想するが、あの男が彼女たちをなんの目的で捕らえたというのだろうか。
リロイもおそらく、そう考えたはずだ。
だが、それを声色にも表情にも出さない。
「ふたりだけか?」
「ブリジンガーメンの騎士が数名と、ランバートが――」
そこまで口にしたところで、彼女は唐突に言葉を切った。
驚愕したように口を開けたまま、顔を強ばらせている。
喉が、鳴った。
それは断末魔だったのだろうか。
彼女の身体から力が抜け、崩れ落ちた。リロイは咄嗟に抱き留めたが、受け止められない。
濡れた音を立てて、ミシェールだったものが床にぶちまけられた。
カイルが、罵倒混じりの唸り声を漏らす。
差し出したリロイの腕の中に残ったのは、近衛騎士団長の制服と彼女の皮だけだ。
中身――肉と脂肪、骨や内臓も一切合切が液体と化して体外へと流れ出ていた。口、眼窩、鼻腔、そして全身の毛穴という毛穴から滴り落ちる。全身に絡みつくような異臭が、かつて人間だったものから立ち上ってきた。
「なんなんだ、これは」
カイルのその言葉に答えられる者はいないし、彼も答えが得られるなどとは思っていなかったに違いない。
だが。
「奇術だよ」
答えは頭上から降ってきた。
背筋が凍りつくほどに美しい声だ。美しさを表現するのに、この世のものとは思えない、という言い回しがあるが、この声はまさにそうだろう。
だが、その声音がもたらすのは恍惚ではなく、嫌悪だった。悍ましさであり、忌避だった。 これほど美麗な声が、ここまで穢れているように聞こえるとは。
我々は、振り仰いだ。
視線は螺旋階段の先に向かったが、そこにも、そしてそれが辿り着く先の回廊にも声の主はいない。
さらに先だ。
「ようこそ、我が城へ」
彼は螺旋階段の遙か先、丸みを帯びた天井に立っていた。
重力を無視して、逆さまに。
優美に一礼した男は、紫色の唇を笑みの形に整えた。
吐き気がするほど、美しく。
「我が名はシュタール――奇術師シュタールと、お見知りおきを」




