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第二章 4

 それは車、というよりも装甲車、といったほうが相応しい威容を誇っていた。

蒸気機関のエンジンを積んだ車体前部からは、金属製のパイプが左右に四本ずつ突き出ている。それは鋼鉄で補強された車体側面から後部へと到達し、斜めに切断された開口部から白煙を噴いていた。

 静寂性能を一切考慮していないのか、ボイラーからのエネルギーで上下運動するシリンダーの轟きが大気を震わせていた。


「いかがですか、我が社が誇る蒸気自動車スレイプニル三号は」


 八つの車輪を持つ巨大な装甲車を指し示し、スーツ姿のヴァルハラ社員、リゼル・ジルバは得意げに小鼻を膨らませている。傍らに並んで眺めていたリロイは、「でかいな」と呟いたあと、首を少し傾げた。


「一号と二号は、失敗したのか」

「はい」


 リゼルは、サングラスのブリッジを人差し指で押し上げた。「乗員ごと爆発、四散しました」

「そんなのに人を乗せるのかよ」


 憤慨したようにリロイは言ったが、カレンたちに雇われたり請われたわけでもなく、勝手に相乗りしようとしているのだから、それを言う資格はない。


「怖いなら、乗らなくていいのよ」


 だから、車を所有しているヴァルハラ側からそう言われるのも(むべ)なるかな。

 しかし、カレンが少し意地悪くそう言ったのは、ただ乗りしようとしている我が相棒を疎んじて、というだけではない。


 主たる原因は、リロイの傍らにいるフリージアとリリーだ。


 ふたりがリロイと行動を共にする理由は、いうまでもなく監視である。

 彼女たちにカルテイルの救出を依頼されたリロイは、まずはカレンに、それを正直に打ち明けた。そして、ヴァルハラが車でアシュガンを追跡する、と私から聞いていたリロイは、一緒に乗せてくれないか、と持ちかける。


 なぜリロイがそれを知っているのか訝しがったカレンだったが、否応の前にその口から飛び出したのは「本気なの?」だった。あたりまえだ。ヴァルハラはアシュガンとカルテイルの捕獲が目的だが、フリージアたちは当然、カルテイルの救出が目的である。似て異なる目的を持つ者を──最終的には必ず対立するはずの相手を、なぜわざわざ連れて行く必要があるのか。

 少人数での追跡に不満と危惧の念を抱いていた彼女だが、それを差し置いても、リロイの懇願は非常識と言わざるを得ない。


 しかし、それでも一応はリゼルたちに話を持って行ってくれたのだから、リロイは最大限の感謝を彼女にするべきだ。


「いいんじゃない?」と言ったのは、レニーである。相手の戦力が不明なのだから、戦力は多いほどいい。とにかくアシュガンを制圧することが第一で、そのあとのことはじゃんけんでもすれば? と、主張した。


 そのじゃんけんは、さぞや血腥いものに違いない。


 臨機応変というよりも行き当たりばったりが過ぎるレニーの提案は、しかしリゼルの賛同を得る。「いいじゃないですか」彼は、嬉しそうにそう言った。「旅は道連れ世は情けですよ」

 少なくともリロイに情けを求めるのは、致命的な間違いだと私は思う。


「わたしは――」カレンは、リロイの同行が避けられない流れになると、断固とした口調で言った。「じゃんけんには、参加しない。それでいいわね」

〝紅の淑女〟でいきなり戦いを挑んできた彼女らしからぬ態度にも思えたが、あのときとは状況が違う。


「そんなに気負わなくてもいいんじゃない? リゼルも言ったっしょ。旅は道連れってさ」気負わなさすぎるにもほどがある緩んだ顔で、レニーは笑った。「ま、死出の旅にならないといいけどねぇ」


 そんな笑えない冗談を言っていた彼女が、スレイプニル一号と二号の末路を聞いた途端、カレンの後ろで小さく手を上げた。


「あたし怖いから、乗らなくていい?」

「大丈夫ですよ!」


 気苦労が多そうなカレンと違い、リゼルは能天気に、頑丈そうな車体を掌で軽く叩いた。「三号は走行距離が千キロを超えましたし、安定感は抜群です。一号、二号の犠牲は無駄にしてません」


「無駄かどうかより犠牲になりたくない」


 子供のように唇を尖らせたレニーを振り返り、カレンは両目を猫のように細めた。「死出の旅にならないといいわね」

「うわー、いまそれは笑えない……」


 レニーは、がっくりと肩を落とす。


「そういえば、アグナルはどこ行った」


 リロイが唐突に、SS級傭兵の名を口にした。「あいつは行かないのか。ヴァルハラのなんちゃらかんちゃらなんだろ?」

「特別顧問です」


 なにひとつ正しいところのないリロイの言葉を、リゼルが、穏やかに訂正する。「もちろん彼にも要請をしたのですが、断られました。自分の足以外は信用できない、と仰いまして」

「それ、普通に逃げられただけだろ」


 こればかりは、私もリロイの意見に賛成だ。

 SS級も、爆発の危険性を孕んだものには乗りたくない、ということだろう。


「あの髭め……」


 恨めしげに、レニーが呻く。

 リロイは、傍らのふたりに目を向けた。


「どうする? 信用できないなら、無理に乗る必要はないぞ」


 リロイにしても、フリージアとリリーはいないほうがやりやすいはずだ。

 しかし、そう尋ねる口調に厄介者を追い払うような冷たい響きはない。


「信用できなくても」リリーは若干、不安そうな面持ちで蒸気自動車の巨躯を見上げていたが、その声に逡巡はなかった。「乗るしかないもの」

「そうだな」フリージアも頷く。「選択の余地はない」


 ふたりの意志は、やはり堅い。


 リリーは動きやすいブラウスとパンツに身を包み、小さなリュックサックと腰にポーチをつけている。それだけ見ればちょっとした散歩にでもでかけるような格好だが、折れた腕はまだ三角巾で吊っているし、松葉杖がないと歩けない。

 一方フリージアは、戦闘を想定しているのかベルトに段平を下げ、無骨なブーツと厚手の上着を羽織っている。リロイと同じようなナップザックを手に持ち、長い黒髪を邪魔にならないように後ろで括ったその姿は、犯罪組織の一員というよりも傭兵じみていた。


 ふたりの決意を確認したリロイは、「恨むなら、そこのサングラスを恨めよ」と、これから敵の追跡に出ようというのにどこか楽しそうなリゼルを指さした。

 サングラス、が自分のことだと気づいたリゼルは、フリージアとリリーに対して頷いてみせる。


「旅は大勢のほうが楽しいですからね」


 少しずれたことを口にして、微笑んだ。旅は大勢が楽しい、という今の言葉に、果たしてフリージアとリリーは含まれているのか否か。


 リゼルは軽やかな足取りで運転席へ近づき、ドアをノックする。


 ドアが開き、若い男が姿を見せた。雪のように白い髪が目を引くが、なによりも目立つのはその服装だ。

 一言で表現するのなら、拘束衣か。一見ただの白い外套だが、袖や胴回りにもベルトとバックルがいくつも取りつけられている。グレーのパンツも同様で、それらすべてを締めれば、彼は身動きひとつ取れなくなるだろう。

 暴走したら拘束する、とリゼルが言っていたのは、間違いなく彼のことだ。


「人数が多い」彼──テュールは、立ち並ぶ面々を一瞥して、淡々と言った。「どういうことだ」ヴァルハラの面々の中では一番若いはずだが、そうは思えない横柄な口調だ。

「事情が変わりまして」リゼルが、成り行きを説明する。彼もまた、正直にリロイやフリージアたちの事情を説明したので、テュールは怪訝そうに眉根を寄せた。


 しかし、抗議はしない。

 そこは先輩の顔を立てたのか、あるいはどうでもいいと思ったのか。

 小さく顎を引いて了承の意を伝えると、無言でふたたび運転席に乗り込もうした。

 だが、足を止める。

 振り返った彼の浅黄色の瞳が、リロイを捉えた。

 睨みつけた、といってもいい。


「おまえ──」


 テュールは踵を返すと、リロイへと近づいていく。

 その何気ない足取りが孕む不穏な空気に、その場の空気が凍りついた。

 制止すべきか迷うように、カレンが身動ぎする。

 だが、なにを制止するというのか。

 白い青年は無造作にリロイの間合いへと踏み込むと、少し顎を上げた。彼の背丈は、リロイより十五センチ強低い。

 ガラス玉のように無機質な瞳が、リロイの黒瞳を射貫いた。


「リロイ・シュヴァルツァー、か」口調に、感情はない。ただ機械的に、情報をインプットしているかのようだ。

「そうだ」凡そ友好的とは言い難いテュールに対して、リロイはいつもの自然体だ。「よろしくな」

「テュール・ヴァイスだ」


 そして意外なことに、テュールは右手を差し出した。

 リロイは驚きもせず、握手に応じる。


 そして同時に、ほんの微かだが、眉根を寄せた。


 しかし、握られた手は何事もなく離れていく。テュールは踵を返すと、車の運転席へと戻っていった。

 リリーが小さく、息を吐く。なんともいえない妙な緊張感と不穏な空気に、知らず知らずのうちに息が詰まっていたのだろう。


「さあ、みなさんどうぞ」


 ことさら朗らかにリゼルが言ったのも、その嫌な空気を払拭しようとしたからに違いない。

 だが、意気揚々と蒸気自動車のドアを開いたものの、誰も乗り込もうとはしなかった。

 爆発四散の話を聞いたあとで、喜び勇んで乗りたがる者はさすがにいまい。


 リロイは、振り返った。

 少し離れた場所に佇んでいるのは、大きな荷物を背負ったスウェインだ。

 彼もまた同乗者のひとりだが、この中ではただひとり途中下車が決まっている。大陸鉄道最南端の駅でスウェインを下ろしたあと、我々は追跡を継続し、彼は迎えのヴァルハラ社員とヴァナード王国を目指す。


 カレンは自身でスウェインを連れて行きたかったようだが、仕事がそれを許さない。その代わりとして、同行する社員に、彼女が信頼の置ける人物を充ててもらったようだ。

 スウェインは、蒸気自動車を凝視している。

 その顔に浮かぶのは、突然開けた未来の展望に対する不安と高揚感だ。


「行こうか」


 スウェインに歩み寄ったリロイは、帽子をかぶった彼の頭に掌を載せる。


「うん」


 力強く頷いて、少年はリロイに続いて蒸気自動車に乗り込んだ。

 内部は車体の骨格が剥き出しで、快適な内装にはほど遠い。向かい合わせに設えられた椅子は、いかにも硬そうだ。

 幸い、広さはある。リロイが立ったままでも、頭頂部が天井にぶつからない。蒸気機関エンジンが小型化できないので、どうしても、それを搭載する車体そのものが巨大化してしまうのだ。


「なんか、凄いね」取り立ててみるべきものがある内装ではないが、スウェインは興味深げに視線をさまよわせている。「俺、こんなのに乗るのは初めてだよ」

「奇遇だな、俺も初めてだ」


 リロイは天井の鉄板を拳で叩きながら、楽しそうに笑った。続いて乗ってきたカレンが、その様子を見て呆れたような苦笑を浮かべる。「まるで子供ね」

 リロイは特に反論せず、狭い窓からの景色を確かめた。分厚いガラスが嵌め込まれた窓が車体の左右にあるが、その幅は辛うじて両目で外を覗ける程度だ。


「換気、ってどうなってるの?」誰にともなく訊いたのは、リリーだ。「窓、開かなそうなんだけど」

「ここですね」リゼルが指し示したのは、側面にある小さな切れ込みだ。そこにあるつまみを掴んで引くと、薄い鉄板がスライドして、車体に刻まれた開口部から外気が入ってくる。

 今は涼しい季節だからいいが、夏は地獄のような暑さになりそうだ。


「暑いですか?」

「ううん、大丈夫」


 おそらくリリーは、自分の体質を気にしているのだろう。

 確かにこの狭い車内では、彼女の身体から放たれる香気は絶大な効果を発揮するに違いない。万が一、テュールが昏倒すれば事故に繋がるだけに、彼女も気が気でないのかもしれないが、確か薬で抑えられると言っていたはずだ。

 もしかして〝深紅の絶望〟が壊滅したことにより、薬の入手手段が断たれたのだろうか。


「外の空気を吸いたくなったら俺に言えよ」リロイもそれを察したのか、何気ない口調で言った。「抱えて、車の屋根に登ってやるからさ」

「車を止めればいいだけの話でしょ」

 リリーは瞼を半分下ろして、リロイを見上げる。「どうして、走ってる車の屋根なんかに登るのよ。危ないじゃない」

「いや、絶対楽しいだろ」


 どこからその絶対がやってきたのか知らないが、リリーの賛同は得られそうになかった。代わりにスウェインが、天井を見上げて「あー」と、なにかを想像しながら小さく頷いている。


「お、登ってみるか」


 リロイはちょっと嬉しそうだ。

 だがそれを、「出発する」抑揚のない声が遮った。

 激しい震動が足下から突き上げてきて、蒸気自動車がゆっくりと前進し始める。リロイとスウェインだけが、狭い窓にへばりついて歓声を上げた。


 ヴァイデンから延びる主だった街道は石畳で舗装されているが、車はその道を避けて未舗装部分を走っている。そのせいで、必要以上に上下左右に車体が揺れていた。


「街道は、馬車などを想定して舗装されています」あまりの揺れに女性陣が非難の声を上げると、リゼルがそう説明した。「そこをこの車で走ると、重すぎて道を破壊してしまうんです。すぐに慣れますので、しばらくのご辛抱をお願いします」

「慣れるって──嘘でしょ」リリーがフリージアの腕に掴まりながらぼやき、「これ、車の前にあたしの胃が爆発するんじゃないの」レニーがいつになく暗い声で呻く。


「なんだよスウェイン、座るのか」


 出発してすぐに、スウェインは硬い椅子に腰かけていた。そのまま立っていたら、すぐに転倒すると判断したのだ。賢明である。


「座って辛気くさい顔を眺めてても退屈だろ」


 しかし、愚かな我が相棒はそう言って、集めなくてもいい怒りの視線を一身に浴びていた。愚かにもほどがあるが、いつものことと思えば腹も立たない。


「こういうときこそ、体幹を鍛えろよ」女性陣に睨みつけられてもどこ吹く風のリロイは、スウェインの帽子の鍔を指先で弾いた。「筋肉はあって損するもんじゃないぞ」

「そうだろうけど」


 スウェインはずれた帽子を直しながら、言った。


「トレーニングは安全にやらないと。立ってたら危ないよ」


 まさに、正論だ。


 そして、急ブレーキである。


 鉄が擦れる甲高い悲鳴がエンジン音を切り裂き、リロイの身体が吹っ飛んだ。椅子に座っていた面々も、前方に向かって滑っていく。

 それを椅子の端で受け止めたのは、フリージアとカレンだ。

 リロイは運転席の背もたれに激突し、打ちつけた後頭部を押さえて唸った。


「体幹はどうした」


嘲るでもない淡々としたフリージアの指摘に、リロイはさすがに返す言葉がない。


「どうしました」


 リゼルが声を掛けると、運転席のテュールが振り返った。

 その顔には、やはり感情はない。


「人を撥ねた」


 それは、そんな顔で報告するような事柄ではない。リゼルも、すぐにはその言葉の意味するところが飲み込めないようだった。


「突然、前に飛び出してきた」テュールは、お構いなしに状況を説明する。「急制動を掛けた上でハンドルを切ったが、おそらく引っかけた。運が良ければ死んでいない」

「轢いたおまえが運とか言うなよ」


 リロイは立ち上がると、ドアを開けて車外に出て行く。急ブレーキで止まった車輪が大地を削り、砂煙が視界を遮っていた。


 それでもすぐに、その人物が目に飛び込んでくる。

 人物、というよりも、目についたのは荷物だ。背中に背負っているリュックはぱんぱんに膨れあがり、両手に掴んでいたであろう鞄も今にもはち切れそうになっている。リロイは手近にあったそれをひとつ拾い上げながら、倒れている人物に近づいていった。


 老人だ。


 俯せになっているので正確な年齢はわからないが、ざんばらの白髪と枯れた皮膚から察するに七十歳は超えていそうに見える。


「死んじゃいましたか」


 リロイを追いかけてきたリゼルが、老人の傍らへ膝をつくリロイの背に訊いた。リロイは応えず、老人の背中にある荷物をどけてから、その身体をひっくり返す。目を閉じたその顔は、気難しそうな男性のものだ。七十代、という読みも当たっている。


「あの、シャベルならありますよ」


 それは埋めろ、ということか。涼しい顔で、とんでもないことを言う男だ。

 もしかして、その声が聞こえたのか。

 老人が、目を開いた。

 そして、血走った目をぎょろりと動かしてリゼルを睨みつける。


「まだ死んどらん」はっきりとした口調で、言った。「死んでおっても、人知れず埋めるな、阿呆(あほう)めが」


 そしてむくりと起き上がると、傍らにある巨大なリュックを再び背負う。


「怪我してないのか」


 リロイが訊くと、老人は、中身をぶちまけて転がっている鞄を指さした。「あれがクッションになった。真っ直ぐ来られたら危なかったがな」


「どうして車の前に飛び出したりしたんですか」


 死んでいたら秘密裏に処理しようとしていた罪悪感はないのか、リゼルは普通に老人へ話しかける。たいした胆力だ。


「うむ、それは――」老人も、過ぎたことは忘れるたちなのか、何事もなく応答しようとして言葉を止めた。

「む?」


 そして、まじまじとリゼルの顔を凝視した。


「な、なんでしょう?」その眼力にたじろぐリゼルに、老人は枯れた指先を突きつけた。

「おまえまさか、リゼルか?」

 ずばり名前を言い当てられたリゼルは、「は」と肯定の途中で言葉を切り、今度は逆に老人の顔を注視した。しかし心当たりがないようで、眉根を寄せる。「そういうあなたはどちらさまで」

「ドクター・ヘパス」


 老人が答えるより先に、フリージアの声がその名を紡いだ。


「聞き慣れた声がした、と思ったがあなただったのか」

「おお、フリージア」


 老人──ヘパスは、破顔して手を振った。

 そういえばリロイが捕らえられているとき、ヘパス、という名前が会話の中に登場したことがあったのを思い出す。彼もまた、〝深紅の絶望〟の一員か。


「よく無事だったな」

「湖に落ちたときは正直、もう駄目だと思ったがな」


 その歳であの高さを落下し、着水の衝撃にも耐えたとはなかなか頑強な老人だ。

 なんとか湖岸に泳ぎ着いたヘパスは、そのまま気を失っていたらしい。彼の口ぶりからすると、リロイとカルテイル、そしてアシュガンとの戦いは目撃していないようだ。

 目覚めたあとは、湖に落ちた瓦礫の中から使えるものを数日かけてかき集め、それから地上を目指した──とヘパスは語ったが、なかなかのサバイバル能力である。

 車の前に飛び出したのは、そこに乗り込むフリージアとリリーを目にしたから、だそうだ。


「あの娘には、これが必要だろうからな」


 ヘパスが鞄の中から取り出したのは、瓶に詰められた錠剤だ。


「あーっ」


 車の中から様子をうかがっていたリリーが、目敏くその瓶に気がついた。松葉杖をつきながら、それでも精一杯の速さで駆け寄り、ヘパスの手から奪い取る。「助かったわ、ドクター!」

「うむ」

「ドクター・ヘパス――まさか、あの?」


 リゼルが、呟く。

 リリーに薬を渡せて満足したのか、散らばった荷物をかき集めようとしていたヘパスが、振り返った。


「おお、思い出したか」

「はい。お久しぶりです」

 リゼルは、一礼する。「お元気そうでなにより」

「知り合いか」

「彼は、ヴァルハラの研究室の一員ですよ」


 リゼルが説明すると、ヘパスは笑いながら手を振った。「元、な。随分と昔の話だ」

 鞄から飛び出した荷物を集めながら話を聞いたところによると、ヘパスは優秀な科学者で、ヴァルハラにある研究室の副室長を務めていたらしい。だがあるとき、室長の指示でとある新薬の動物実験をしていると、凶暴化した一匹が檻を破って脱走した。そして運悪く、社長が可愛がっていた猫を噛み殺してしまったのだという。


「社長は許してくださったのだが、どうにも居たたまれなくてな」


 またリゼル曰く、社長に心酔する一部の社員から、相当な嫌がらせもあったらしい。それもあってへパスは退社し、そのあとは世界各地を渡り歩いて見聞を広めていった――というが、その果てが犯罪組織お抱えの科学者とはどんな見聞を広めたのやら。


「しかし、まだ若造だったおまえがこうも立派になるとはなぁ……うん?」感慨に耽っていたヘパスが、少し怪訝な顔でリゼルを眺めた。「思ったよりも老けとらんな?」

「アンチエイジングには日々、気を遣っていますので」


 リゼルは冗談めかしたが、確かに年齢不詳ではある。


「それよりドクター、薬を届けるためだけに車の前に飛び出したんですか」

「他に理由があるかね」

 老科学者は、当たり前のように言った。「リリーは、あれがないと日常生活に支障を来すからな」

「ドクターは」それを聞いていたフリージアが、微笑する。「ごく稀に、常識人のようなことを言い出すから面白い」


 ということは、ほぼ非常識な人間、ということか。

 ヘパスは彼女の所見に対しては小さく肩を竦めるに止め、散乱した荷物、その最後のひとつを拾い上げた。


「それでおまえたちは」ヘパスは、眩しそうな顔で蒸気自動車を眺めてた。「こんなものに乗ってどこへ行くつもりだね」

「カルテイル様を、救出しに行く」


 フリージアは、傍らにリゼルがいるにも関わらず、堂々と言い放った。そしてリゼルも、それをいちいち訂正したりはしない。


「ほう」

 ヘパスは収まりの悪い髪を掻き毟り、目を見開いた。「あやつ、生きておるのか」

「生存が確認されたわけではありません」


 リゼルがそこは冷静に訂正すると、フリージアが彼を横目で睨みつける。横顔に痛いほどその視線を感じているだろうに、彼はいささかも動じずに続けた。「ですが、彼を連れ去ったものがいることは確認されていますので、その追跡です」

「ふむ」

 ヘパスは思案顔で、長く伸びた顎髭を扱いた。「危険なのかね」

「すでに数名の連絡員が、消息を絶っています」


 その話は、初耳だ。


「まず間違いなく、待ち伏せがあるでしょう」

「それは重畳」


 ヘパスはにやりと笑うと、破けた鞄をリゼルに押しつけ、軽快な足取りで車へ向かう。そのあとを、リゼルが慌てて追った。


「ドクター?」

「儂も一緒に行く」

 追いすがるリゼルに、ヘパスは意地の悪い含み笑いを向けた。「まさか拒否せんだろうな? 人を轢いた上に証拠隠滅で埋めようとしたなどと、あの社長が知ったらどうなるかわからんおまえでもあるまい」

「いや、それはまあ……」リゼルは口ごもったが、すぐに我に返る。「ですが、本当に危険ですよ?」

「だからこそ、だ」

 ヘパスは、背中の荷物を軽く叩いてから、リゼルの胸元を指で突いた。「いろいろ試したいことがある。協力せい」

「――仕方ありませんね」


 リゼルは溜息をつき、蒸気自動車の乗り込み口へ手を振った。老科学者はその肩を軽く叩き、意気揚々と乗り込んでいく。


「旅は大勢のほうが楽しいんだろ?」


リロイは、少し前屈みになっているリゼルの背中を叩いた。その勢いでつんのめったリゼルは、苦笑いしながらずれたサングラスの位置を整える。「ええ、まあ」相変わらず曖昧な返事をしてから、手渡された鞄を抱え直した。

 荷物がひとつ、転げ落ちる。


「しかし、なにをこんなにたくさん拾ってきたんだ」


 呆れながら、リロイは足下に転がる瓶を拾う。

 そしてなにげなく中身を見て、頬を歪めた。


「どうした」その表情に興味をそそられたのか、フリージアが覗き込んでくる。そして瓶の中、液体に漬けられている物体を目にして小さく悲鳴を上げた。

 それは贓物――見た限りでは、人間の脾臓ではなかろうか。


「こら、扱いに気をつけろ」

 車に乗り込んでいたヘパスが、開いているドアから顔を出して怒鳴る。「それは貴重な材料だから、瓶を割ったりすればおまえの腹から抉り取るぞ」

「なんの材料だよ」


 リロイは手にした瓶を、無造作にリゼルが抱える鞄へ放り込む。


「いろいろだな」ヘパスは、にたりと笑う。「新鮮なのがたくさん手に入ったからな。リクエストがあれば聞いてやらんこともない」

「新鮮?」

 そう呟いてから、なにかに気づいて顔を強張らせたのはリリーだ。「ドクター、またやったの!?」

「墓を荒らしたわけじゃない」


 ヘパスは堂々たる態度で、リリーの非難を否定した。「あそこには、どうせそのまま放置される死体がたくさんあった。ならば有効活用すべきではないか? きっと死人もそう願っておる」


 つまるところ彼は、地底湖にあった屍から臓器を抜き取った、というわけだ。

「まさか」フリージアが、少し青ざめた顔でヘパスを上目遣いに睨みつけた。「まだ命のある人から、奪ったりはしてないだろうな」

「おまえは、儂をなんだと思っとる」


 心外だ、とばかりにヘパスは声を荒らげた。


「もう助からぬ者の苦しみを取り除いてやるのは、生き残った者の責務であろうが」

「──今更よね」

 諦めきったリリーの声に、リゼルが小さく頷いていた。「変わってませんね……」口の中だけで、彼は呟く。


「ヴァルハラにしろ〝深紅の絶望〟にせよ、あれだな」


 リロイは、しかつめらしい顔で言った。


「まともなやつのほうが少ないんだが、そんなんで組織としてやっていけるのか」


 見事なほどの、暴言だ。


「多分全員、あなたよりずーっとまともよ」


 すかさずリリーが、憎まれ口を叩いた。

 その意見に対して、私は相棒として異を唱えるべきなのだが、思わず賛意を表しそうになるので困る。


「いや、それはないだろ」半笑いで否定するリロイだったが、「あるな」とフリージアに真顔で返され、少し鼻白む。

「俺は墓を暴いたりしないぞ」

「ぶち込むほう専門だものね」


 リリーの指摘に、リロイは押し黙る。「あなたあの街で、一体何人殺したのよ」責めるのではなく淡々と問いかけられ、リロイは首を捻った。

「さあ」

「ほら、ね」年齢に相応しくないシニカルな笑みで口の端を歪め、リリーは両手を広げた。「人の命をなんとも思ってないのは、あなただって同じよ」


「おい、おまえたち」


 車の運転席のドアが開いたのは、そのときだった。


「置いていくぞ」


 テュールの口調には、苛ついたところがない。それだけに、あっさり見捨てて行ってしまいそうな危うさがあった。

 リゼルたちは、そそくさと車へと戻っていく。

遅れて歩き出したリロイは、少ししょんぼりとした様子でぼそりと呟く。


「人数、数えておくべきだったのか?」

「そこじゃない」


 私に言えるのは、それだけだった。




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