306.苦渋
それはこの日の午前、急ぎ近道をしようと屋敷裏の中庭を通るジャニスティが目撃した、あの出来事のことだ。
スピナとカオメドの密会現場に遭遇した際、突如感じた――“気”。あの時ジャニスティはどんなに腹立たしくともスピナたちに存在を悟られぬよう息を潜める。しかしその自制心を見失いそうになる程に感じた謎の“気”は、桁違いの強さだった。
事態が飲み込めない彼はさらに自分の心情に、戸惑う。それは無意識に溢れ出た温かく切ない涙と、雫のイメージ。気付くと自身の力が表に出そうになり危うくいることを勘付かれるところであった。
――その“桁違いの強さ”の正体こそがノワだ。
密会現場でまさか彼女がすぐ後ろに立っていたのかと、全く気付かなかった彼を一驚させた。
しかし、なぜか?
懐かしくもその気配には覚えがあったのだ。
――恐らくあの瞬間、私の頬を流れた一粒の涙は、何らかの理由で彼女の心と同期したものであろう。あれこそが彼女の淋しい心の表れだったのかもしれない。
(この街では珍しいとされる“種族”、ノワの場合は主に成長についてだが。そういえばこの子は現在、何歳なのか……)
訳もなくそんな考えが彼の頭を、過ぎる。
(彼女が幼い頃、周囲の反応も含め、何が起こるか分からない時代だったのではないだろうか?)
ふと、エデとマリーの気持ちを推察し始めるジャニスティ。
他種族間で生まれた、子供。
もし、それが原因で何かしらの問題が生じたら?
または想像もつかぬその特殊さゆえにもしもこの先、愛娘が自身の持つ力に悩み苦しみ、さらに周囲との距離が生まれたとしたら。
(様々な予測できない事態が起きることを懸念し、ノワの存在は隠して過ごさせる。エデやマリーなら娘を守るためにと……あり得る話だ)
苦渋の決断か、とそんな考えをジャニスティは導き出した。
――だがエデとマリー、二人に直接聞いたわけではないため当然、憶測の域を出ない。
それでも情報を頭の中で整理し状況を鑑みるに、これが一番の手段であり大切な娘を守るための適切な方法として、苦肉の策だったのかもしれないと納得した。
(この街の者たちが敵などとは微塵も思っていないが。きっとそれでも二人は、愛娘が今私に見せたようなあどけない笑顔を誰よりも愛し、我が子を何者からも傷つかぬよう護りたかったのだろう)
彼が黙りこくり多くの事を考え込んでいた時間はなんと意外に短く二、三分程。ここでその沈黙を破ったのはノワである。




