第162話 渚さんと湖底農園
「ナギサ、涙が出ておりますわよ?」
「あれ、なんでだろ?」
リンダの指摘に渚が自分の頰を流れているものを拭うと確かにそれは涙であった。だから自分は今泣いているのだと気付けはしたのだが、ただ渚にその理由は分からない。
また渚が自分の状況を不可解に感じている横で、ウィンドはようやく主人の元へとやってきたユミカと戯れていた。
「ユミカー、ほーれチンチーン。チンチンだよー」
「ハッ、ハッ、ハッ」
「何をやってるんですの、ガヴァナーは?」
『チンチンというのは鎮座をするポーズから名付けられた犬の芸の一つだね。ああして前足を上げてお尻をつけるポーズを指しているんだ。できてないみたいだけど』
リンダの問いにミケが答え、それに渚が「子犬だしなぁ」と口にした。
それからユミカがウィンドから渚たちへと視線を向けると「ワンッ」と吠えた。
『おっと、僕を見て警戒してるのかな?』
「ああ、うちにはもう一匹猫もいるからね。ユミカはあの子に弱いから……って違うね。ミケ、君ではなく後ろのタツヨシくんに吠えたんだよ」
「タツヨシくん? この警備の人か?」
まったく無口の護衛の小太りを見た渚にウィンドが頷く。
「うん。彼はロボットなんだけど、とても優秀なんだよ。ただ、まったく抵抗しないからユミカには甘えられちゃってるんだろうね。ユミカは甘えん坊だねぇ」
その言葉にユミカが抗議するようにもう一度吠えたが、ウィンドはユミカの頭をグリグリしながらタツヨシを見た。
「タツヨシくん、もうここはアースシップの中だし私は心配いらないからさ。ユミカをお願い。ほらユミカももう逃げ出すんじゃないよ」
「うぅう、ワンッ」
(うわ、めっちゃ噛みついてるな)
ウィンドからユミカを受け取ったタツヨシがガジガジ噛まれているが、さすがロボットだけあって特に気にした風もなく、そのままユミカを掴んで去っていった。
それを見て、ああいう風に噛み癖をつけさせるのは良くないよなぁ……と渚は思ったのだが、すでにタツヨシとユミカの姿はそこにはなかった。
「じゃあ、こっちだよ」
「あいよウィンドさん」
そして、再びウィンドに案内されて渚たちは進んでいく。
そこから渚たちは船内のエレベータに乗るとそれは一気に降下し、アースシップを出て、そのまま湖底に建造されていたドーム状の建物まで降りていった。
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「おお、すげえ」
「こ、ここ……海の中ですの?」
渚たちがエレベーターを出るとそこは明るい光に満ちた世界だった。
太陽の光が当たる、土があって緑がある、それは渚にとっては懐かしい世界。そこは湖底であって青空の下ではないはずだが、そこには確かに空があって太陽があった。
「そっ。埼玉海の海底だね。アースシップは別惑星での簡易移住キットも積まれていてね。そのひとつがこのドーム。海底には全部で7つのドームがあってそれぞれで移住や研究、開発、生産が行われているんだ。そして瘴気を超えた先の上空までアポロンタワーを通しているのは外で見たでしょ? あれでこの海底にまで太陽光を届けることでかつての世界、あるいは瘴気の外の世界を再現しているわけ。まあフィールドホロの力も借りてるから青空は本物ではないけどね」
「海……」
「何か?」
「いや、何でもない」
笑顔のウィンドに渚が首を横に振る。湖ではなく海。そこは譲れない一線であるようだった。
「こんな場所……わたくしたちを入れていいんですの?」
リンダが困惑した顔でウィンドに尋ねる。現在の埼玉圏ではあり得ない、黒雨のないかつての世界の再現。それはリンダの常識的な基準からしても恐ろしく重要なものだと理解できていた。対してウィンドは「問題ないよ」と気軽に返す。
「ま、口外法度ではあるけど、公然の秘密というヤツでね。実際、アンダーシティも知っていることだし、うちで作った野菜はアンダーシティにも卸しているから」
「そうなんですの?」
リンダが驚きの顔で聞き返す。
それはアンダーシティ育ちのリンダも知らないことのようだった。
「地上に関しては藻粥やエーヨーチャージで最低限の栄養摂取はできているとアンダーシティは判断していてね。ウチで育てた野菜も嗜好品として扱われているんだ。だからここで作ったものが流通してるのはアンダーシティやこのコシガヤシーキャピタルの内街でも一部に限定されている。それは知ろうと思えば知れることだし、どこで作ってるのかと予想すればある程度の正解には行き着くからね。外街経由で外に密輸されて高額で取引もされているらしいけど、新鮮さは薄れるんだよね」
「野菜か。確かパトリオット教団も野菜売ってたよな」
渚の指摘にウィンドが頷く。
「彼らは私たちとは別のアプローチで動いている組織だね。黒雨の中で生きながら、それを克服しようと研究し続けている。今となってはあっちが正しかったのかなとも思うけど」
ウィンドがそう口にして渚が眉をひそめてたところで、通路の先から白服の男たちがやってくる。
「ウィンド様、いらしてたんですね」
「やあ、ノーミンのみんな、調子はどうだい?」
やってきた男たちにウィンドが手を挙げて言葉を返す。
「ノーミン。確かコシガタシーキャピタル内の農業の研究者でしたわね」
リンダの言葉に渚が頷いた。
『失われた技術である農業を研究している方々をノーミン様というのよ』
以前にウルミはそう言っていた。彼らがコシガヤシーキャピタル内で農業の研究をし、そして緑竜土も扱っているのだろうと渚は理解していた。
「そちらの方々は例の?」
「うん。緑竜土を受け取りに来た狩猟者だよ」
「なるほど。では見てください。これを」
白衣の男のひとりが持っていた大きな物体を渚たちに見せた。
「それはスイカ?」
「スイカですの? アレが?」
渚の呟きにリンダが訝しげな顔をし、その反応に渚が首を傾げる。
「リンダ、スイカを知っているのに見たことないのか?」
「いえ、その。VRシアターで出たものを食べたことはありますが、赤い果実であったと記憶していますわ。こんな緑と黒の縞模様では」
「はっはっは、そりゃあ切った後のものだね。切る前はこうなんだよ。で、これが今回君たちに渡す種子の候補のひとつでさ。見てなよ」
ウィンドがそう言ってパチンッと指を鳴らした。
「?」
「?」
『?』
「?」
ウィンドの指パッチンに全員が首を傾げ、ウィンドも首を傾げてからスイカを持っているノーミンを睨みつけた。
「切ってよ」
「あ、はい。じゃあこちらで」
「まったく、ごめんね。うちの研究員はちょっと察しが悪いところがあるから」
「いや、いいけどさ」
今のは絶対にノーミンの人悪くないよな……と思いつつ、渚はノーミンとウィンドの後を追って先へと進み始めた。スイカ実食。それはつまり、久々に新鮮な食べ物を口にできるということであった。
【解説】
ノーミン:
コシガヤシーキャピタル内に置ける農業を研究しているグループ。
藻粥の原料である食用藻を生み出した後、ドーム内で日夜埼玉圏内での食糧事情を改善するための研究を行っている。




