463.燃え上がる噂は匙加減ひとつ
シャイターンを抱いて、執務室で処理を始める。赤子を抱いての執務は久しぶりで、侍従達が通りがかるたびに「懐かしい」と目を細めた。
「ふぇっ」
泣くために息を大きく吸ったところへ、おしゃぶりを咥えさせる。モゴモゴする息子はオムツではなく空腹だろう。空中へ手を突っ込み、収納からミルクを取り出した。適温の上、リリスの母乳が混ぜてある。
イヴ以上に成長がゆっくりのシャイターンが乳離れするのは、まだ数年先かも知れない。途中でイヴのように急成長する可能性もあるが。頬に押し当て、ミルクの温度を再度確かめた。シャイターンの口からおしゃぶりを取る。
「ふぎゃあああぁ!」
全力で泣き始めた口元へ、ミルクの哺乳瓶を当てた。少し鼻を引くつかせ、すぐに噛みついた。最近歯が生えてきたらしい。痒いのも手伝い、授乳中に噛み付いたとか。
今日は恒例の奥様会があるので、シャイターンには哺乳瓶で我慢してもらう。必死で吸う息子は頬を赤く染めて、哺乳瓶を持つように小さな手を添えた。
「可愛いなぁ」
思わず漏れた声に、アスタロトは溜め息をついた。説教が始まるかに思われたが、ペンを置いて同意する。
「分かります、私も娘のモルガーナが可愛くて仕方ありません」
「離れているのがつらければ、連れてきてもいいんだぞ?」
「ダメです。まだアデーレと離せません」
アデーレも来ればいいのに。そう言いかけて、慌てて口を噤んだ。真面目な侍女長のこと、出勤という形でなくても魔王城に来れば、あれこれ気になって指図するだろう。それでも足りなくて働き出したりしたら……出産直後の体に悪い。何より、アスタロトも怖い。
「早めに切り上げていいぞ」
「ええ、そうですね。最近はルシファー様もきちんと仕上げてくださるので、助かります」
文官に書類処理権限を分散したことで、かなりの署名削減に役立っていた。目を通す報告書の量は増えているが、逆に処理すべき署名押印の必要な書類は半減した。そこに加え、ルシファーが真面目に執務をこなすので、机に高い書類の山ができる回数も減る。
「そろそろ視察の時期ですね」
「ああ、もうそんな時期か」
季節の風物詩に似た行事だ。各地へ顔を出し、さまざまな種族の問題点やトラブルを聞き出して解決する。いわゆるお助け役としての視察だった。
人気の高い純白の魔王が視察に来るとなれば、立ち寄る街に人が溢れる。地方に住む者にとって、近くで魔王に接するチャンスなのだ。泊まりがけで顔を見に来る魔族も少なくなかった。
魔王城への転移魔法陣があちこちに設置されても、この風習は変わりそうにない。気軽に声をかけ、民の生活を大事にする魔王ルシファーを見る機会なのだから。楽しそうに民の話を聞き、解決するたびに話は背鰭尾鰭をつけて広まった。
時々、全く見当違いな噂が広まることもあるが、魔族はそれすら楽しんでいる。
「そうそう、先日面白い噂を耳にしました」
「ん? またオレ絡みか」
アスタロトがこの場面で持ち出すなら、自分に関する話だろう。ミルクを飲み終えたシャイターンを縦に抱っこし、背中を叩いてゲップを促す。けふぅと小さなゲップが聞こえ、用意した柵付きのベビーベッドへ我が子を下ろした。
護衛として控えるヤンが近づき、シャイターンをあやし始める。
「何でも、三人目のお子が出来たとか」
「誰に?」
「さて、どなたでしょうね」
「……心当たりがないぞ」
うーんと唸るルシファーだが、一つだけ思い当たる事件があった。もしかしなくても、数日前のアレか。
「これ、か?」
「ええ」
お腹を撫でる仕草をしたルシファーへ、アスタロトが苦笑いで頷いた。食べ過ぎたリリスがお腹を撫でながら、魔王城内を歩いていた日がある。目撃した誰かが勘違いしたのが始まりのようだ。どうせ数週間すれば、一周して何もなかったように消える。
「噂が消えるのに何日かかるか、賭けますか?」
「いつも通り二週間だ!」
「では三週間にしましょう」
にやりと笑ったアスタロトの策略で、新たな火種が投下された噂は、三週間後に鎮火した。




