268.昨年から保育園に通ってるの
思わぬ事態に頭を抱える。昨夜は一睡もできなかったルシファーは、目に沁みる朝日を前に肩を落とした。
オレが異世界に飛ばされ不在の3年間、妻リリスは愛娘イヴの躾を担当してくれた。必ず帰ってくると信じ、子どもの世話をした彼女に文句を言う気はない。その資格もなかった。不可抗力だが、3年いなかったのは事実なのだから。
「オレの育児が間違ってたんだろうか」
悩みはそこに尽きた。というのも、イヴが悪いことをすると、なぜダメなのか説明する。ここまでは問題ないが、イヴが素直に納得しない場合や同じことを繰り返した時は、ダメだと叱った方法で痛い目を見せたらしい。今回の火を吹いたから尻を炙る発言が、まさにそれだった。
自らの育児を反芻してみるが、リリスの尻を叩いた記憶もなく……何が間違いなのか分からない。親の真似をして我が子を育てる話は知っているが、オレはリリスに体罰を与えた記憶はなかった。
しょんぼり肩を落として、左手の先を見つめる。手を繋いで寝るリリスは、真ん中に転がるイヴをしっかり抱き締めていた。イヴも寝る際、嫌がる様子はない。つまり妻子の関係は拗れていないのだ。
オレが間違った? そうだとしても、イヴを脅すように「尻を炙るぞ」と発言する気はない。子育てする父親失格なのだろうか。ヤンは魔獣なので、悪戯をすると噛んで躾けると言った。イヴにも適用すべき? いや、それは違う……たぶん。
「おはよ……ルシファー」
「おはよう、リリス。イヴも」
抱き起こしたリリスは、手で目元を擦る。傷つくからと止めれば、イヴを抱き寄せた。はしゃいでしがみつくイヴに嫌がる素振りはない。厳しい躾をするリリスを嫌っていない証拠だ。
「ルシファーは寝られなかったのね」
くすくす笑うリリスは、魔法で取り出したイヴの着替えを差し出す。受け取ったルシファーは、慣れた様子で娘の着替えを始めた。その間にリリスは顔を洗い、ワンピースを纏った。
「まま、ごはーん」
「分かってるわ。アデーレにお願いしてくるわね」
魔道具のベルを鳴らして起床を伝え、テーブルの上に料理が並ぶのを待つ。その間に、黒衣の魔王となったオレも席についた。食事を食べさせ、時折果物を握って潰すイヴを叱る。どこにでもある普通の家庭の光景だった。
潰した果物を責任もって食べさせ、リリスはイヴの顔や手を丁寧に拭いた。
「じゃあ行ってくるわ」
「どこへ?」
しばらく無言が落ちて、リリスははっとした顔で頷く。
「ごめんなさい、説明を忘れてた。イヴは昨年から保育園に通ってるの」
驚いて固まる魔王を置いて、リリスは慌てて立ち上がる。遅刻してしまう。魔王城の敷地内に増設された保育園なので、そのまま駆け出した。階段をふわりとひとっ飛びし、保育園の前に到着する頃……ようやくルシファーの強張りが解けた。
「保育園?」
ぎぎぎと音がしそうなぎこちなさで首を傾け、ルシファーは窓から飛び降りた。リリスの魔力を追って走り出す。風のような魔王を見送り、庭で作業していたエルフ達が噂話に興じる。
「魔王陛下は、リリス様に叱られたのかしら」
「違うわよ、イヴ様のことで喧嘩したの」
「どんな内容?」
きゃあきゃあ騒ぎながらも、手の動きは止めない。庭先で声を張り上げて噂をすれば、侍従や外回りの仕事をこなす魔族にも広まった。デュラハンやコボルトは、仲間とすれ違うたびに噂を膨らませた。
「……この世界は、ある意味平和なのですね」
しみじみと呟き、噂を放置した太公アスタロトは執務室への階段を登る。部屋の主が戻るまで、手元の書類を重要度別に振り分け始めた。




