165.海の一部が蒸発するより大問題
「きゃぁああ!」
リリスの悲鳴に、怒ったようなイヴの「がうっ!」が重なる。触手に絡まれ、砂浜に倒れ込んだリリスは腕の中に抱いたイヴを放り投げた。娘だけでも遠くへ、そんな母親の願いも空しく触手がイヴへ伸びる。
「リリスッ、イヴッ!」
円筒状の結界をそのままに転移したルシファーの前で、イヴはぷくりと頬を膨らませた。近づいて来る触手へ向かって「めっ!」と叱る声を放つ。両手をぶんぶん振り回すイヴの動作で、触手が縦に割れた。
「ん?」
近づいたルシファーが、まず近い距離のイヴを抱き上げる。怒って両手を振り回す娘の視線の先で、触手がすぱすぱと切断された。
「無効化って、こういう使い方もあるのか?」
首を傾げながら、リリスへ駆け寄る。すでにイヴが放った攻撃で切断された触手を引き剥がすところで、大きなケガは見当たらなかった。リリスにイヴを抱いてもらい、二人纏めてお姫様抱っこにする。
「もう、失礼なんだから! 私の足に触っていいのはルシファーとイヴだけよ」
「まったくその通りだ。ケガはないか? リリス。無事でよかった。イヴを守ってくれてありがとう」
自分が捕まっても娘を逃がそうとした姿は、きちんと覚えている。照れたように頬を染めて「当たり前だもの」とリリスがデレた。分かりやすい妻のデレに、ルシファーの表情が綻ぶ。
イヴはまだ触手が気に入らないらしく、「めっ」を連発しながら触手の本体であるタコまで切り裂いていた。ズタボロのタコは、アベルへの土産にしよう。以前にタコ焼きの材料になると聞いた。戦いが終わったら、前庭でバーベキューもいい。
「魔王妃殿下を狙うとは、いい度胸です」
ぶわっと熱波が押し寄せ、ルシファーは結界を張った。突き抜けて攻撃するイヴも驚いたのか、手を止めて振り返る。集中した視線の先で、ベールを包む炎の鳥がさらに大きくなった。海の表面に何かが浮かびあがる。
「なんだ、あれ?」
「やばいよ、ルシファー。ベールがキレた」
部下を連れて転移したルキフェルが眉を寄せる。前面に炎の熱を相殺する結界を張り、不安そうな様子でベールを見つめた。慌てて精霊を連れて逃げ戻ったベルゼビュートが、ルキフェルの結界に便乗する。裏側に回り込み、ほっとした様子で息をついた。
「報告するわ。ベールの熱量が高すぎて、海水の温度が上昇中よ。今浮いてきてるのは魚じゃないかしら。このままだと海の一部が蒸発するけど……問題はそこじゃないわよね」
途中から懸念に変わった報告に、ルキフェルが大きく頷いた。
「うん。大量の蒸発で今度は雨が降る。洪水の心配や、海のバランスの問題もあるけど……ベールが眠りに就く可能性があるね」
言外に「それは嫌だ、困る」と匂わせたルキフェル。だが彼に止める術はなく、声が届くかどうかも分からなかった。大切な家族であるベールと長期間離れるのは辛い。表情を曇らせたルキフェルに、リリスがルシファーを振り返った。
「なんとかなる?」
「もちろん。何とかするのが魔王の仕事だ。ルキフェルとベルゼビュートに守ってもらってくれ」
リリスを砂の上に下ろし、ご機嫌の直ったイヴの額にキスをする。目を閉じたリリスの目蓋と頬にもキスをして、そっと唇をかすめた。外なのでこれでおしまい、そう笑うルシファーにリリスも微笑み返す。
「いってらっしゃい。気を付けてね」
「ああ、すぐ戻るよ」
一般家庭の朝の挨拶に似た会話の直後、ルシファーはベールのいる結界内へ飛んだ。灼熱の地獄と化した内部は海水が蒸発し、イカが干物を通り越して炭化している。その中で、純白の魔王は舞い上がる髪を押さえながら右手を差し伸べた。
「ベール、戻ってこい」




