三月 鉄欠乏性貧血 ②
微妙にホラー注意
「おーい、氷上先生いるかぁ?」
玄関の方がなんだか騒がしい。と思ったら自分を呼ぶ声が聞こえて、小春は医務室から廊下に出た。
「はい、ここに」
「おう、先生。うちの馬越が倒れたんだよ。ちょっと見てくれや」
呼んでいたのは、負傷者の肩を抱きかかえた永倉だった。
急患だ。
小春は急いで医務室の障子を全開にし、布団を敷いた。幸い馬越は意識もあって動けるようで、自分で布団に横たわった。
真っ白な顔をして肩で息をする馬越の脈を取りながら、小春は永倉を見た。
「どうされたんですか?」
「よく分からねぇけど、巡察終わりに倒れたんだよ。今日は捕り物をしたわけじゃねぇし、斬られたってことはないだろうが」
「服脱がしてもいいですか?」
「触るな……!」
出血の確認をしようと馬越の服に手をかけたところ、その手を振り払われてしまった。小春は驚いて、まじまじと馬越を見つめる。
(錯乱でもしてるのかな)
意識障害まであるとなると、緊急度や鑑別疾患が違ってくる。
だが馬越は一瞬ばつの悪そうな顔を浮かべ、すぐにふいと顔を背けた。どうやら意識は正常らしい。
「ちょっと……疲れていた、だけです……これくらい、すぐ治る」
「うーん、でも本当に体調悪そうですよ。ちょっと見せてください、痛いことはしませんから」
「やめろ!」
とことん診察に非協力的な患者である。が、こういうのはたまにいるので、小春もそこまで傷つかなかった。困ったなあ、というだけだ。
だが、一連の応答を見ていた永倉が、「馬越!」と突然大声をあげた。自分の名前が呼ばれたわけでもないが、小春はびっくりして肩を跳ねさせた。
「氷上先生はお前を治そうとしてるだけだろうが。それとも、見られちゃ困る傷でもあんのか。あぁ!?」
「見られちゃ困る傷」というのは、主に背中や足など体の背面に負った傷のことだ。これがあると、戦闘から逃げる時に負った傷とみなされて粛清されてしまう。
小春はたとえ患者の背中に傷があっても他人に告げ口するような真似はしないが、この場には永倉もいる。もし彼のせいで馬越が服を脱げないのだとしたら、彼に一時退室してもらおうか——と小春が考えていた時だった。
「そのような傷はありません! 武士の名誉にかけて、今ここで証明してみせます」
威勢よくそう言うと、馬越が着物の帯を解いた。
男気に溢れてるなぁ、と呑気な感想を抱きながら、小春は馬越が服を脱ぐのを手伝った。
「うーん……特に傷や体表からの出血は……なさそうですね」
さっと全身を確認したが、目に見えてわかるような傷や出血はなかった。そもそも、これだけふらふらになるような出血であれば服の上からでもわかるはずだ。
小春はそのまま胸部・腹部の診察をしたが、特に異常らしい異常は見つからなかった。強いて言えば軽い心雑音が聞こえたくらいで、それも若い人だと正常範囲として片付けられるものだった。脈も約100回/分とちょっと早いが、今の状態だと興奮しているせいなのか判断がつかない。
(でも、明らかに調子悪そうだよな〜……本当に疲れてただけならいいけど)
やはり顔色は良くないし、少し動いただけで息が早くなっている。緊急で治療を必要とする状態ではなさそうだが、医務室から帰せるほど元気そうにも見えない。
悩んだ末、小春は馬越に言った。
「念の為、今日と明日はここの隣の部屋で休むようにしてください。明日また検査をしますから」
そう言った途端、部屋の空気が変わった。正確に言えば、馬越の表情が変わった。
親の敵でも睨むような顔だった。
(こわっ!? なんなのこの子!)
小春は顔面がひきつるのを感じた。流石に年下かつ平隊士の馬越に、こうもありありと敵意を示されるとは思っていなかった。
馬越は吐き捨てるように言った。
「嫌です。絶対に休みません」
「そ、そんなこと言われても……顔色も悪いですし、今の状態で動いたら余計悪くなりそうですよ」
「嫌です」
「そんなぁ……」
小春が慌てふためくたびに、馬越の視線がどんどん冷たくなっているのがわかる。もはや液体窒素並み、この視線だけでイボが取れるのでは、と思い始めてきた頃だった。
またも永倉が一喝を入れた。
「馬越! お前、氷上先生の好意を無下にすんのか。先生が一晩つきっきりで面倒見てくれるって言ってんだぞ!」
「あの、つきっきりってわけではないですし、好意じゃなくて普通に心配だから言ってるんですけど……」
小春の小声のツッコミは二人には聞き入れられなかったようだ。永倉に二度も叱責された馬越は、まるで犬のようにしゅんと項垂れた。
「ですが、俺は……」
「言い訳すんな! それでも武士か!」
「はい! 申し訳ありません」
馬越は口を噤むと、渋々と言った面持ちで小春を見た。見た、というより、睨みつけた、の方が正しい。
目が合うのは初めてだった。
不信と軽蔑に満ちた目だ。「本当は入院など死んでもしたくないが、永倉に言われた手前するしかない」と顔にくっきり書かれている。
馬越は永倉への返事とは打って変わった、地獄の底から這い出るような低音で言った。
「世話になります」
「よ、よろしく……」
正直お世話したくない、とは口が裂けても言えなかった。
それからも医務室には数人の患者が来たが、小春には珍しくミスが多発した。流石に医療事故に繋がるような大きなミスはしていないが、軟膏の入った貝殻をひっくり返したり、カルテを書くための筆を取り落したり、あげく自分の袴を踏んで転ぶこともあった。
その日の外来患者を処理しきってから、小春は机に突っ伏した。
「あー、だめだ……」
隣の部屋に馬越がいると思うと、いまいち集中できない。それは恋心などという可愛らしいものではなく、「監視されている気がする」という負の感情によるものだった。
どうして彼がそこまで自分のことを嫌うのか、小春には身に覚えがない。幹部職への嫉妬ややっかみで片付けるには、少々棘がきつい気もする。
「うーん……」
しかし、たとえ蛇蝎のごとく嫌われていたとしても、患者は患者だ。そこは割り切って面倒を見なければならない。
様子を見に行くため、小春は隣の部屋の障子を開けた。
「馬越さん、失礼します」
「…………なんでしょう」
馬越は布団の上に座って瞑想していたようだった。ゆっくりと目が開かれ、厳しい眼差しが小春を刺す。小春は動揺を顔に出さないようにするのに苦労した。
「えっと……その後、お加減はいかがでしょうか。良くなりました?」
「良くなりました。だから帰っていいですか」
「だめです。倒れてからまだ数刻しか経ってないじゃないですか」
「ちっ……」
(し、舌打ちされた……)
萎縮しながらもどうにか脈を取り、呼吸数を数える。異常なしだ。顔色も先程運ばれてきた時よりはだいぶ良くなっている。
小春は小さく深呼吸をして、問診を取った。
「倒れたとのことですが、倒れる直前は何をされていたんですか?」
「別に倒れたわけじゃありません。ちょっと疲れただけです」
「目の前が暗くなったり、意識が遠くなる感じは?」
「ありませんでした」
「体の一部が動かなくなる感じも?」
「ないです」
「じゃあ倒れたというより、疲れて立っていられなくなったってことですか?」
「だからそう言ってるじゃないですか」
(辛辣……)
小春は引きつった笑みを返して、カルテに走り書きのメモを残した。息切れや倦怠感が主体、脳梗塞は否定的。
「では、今までに同じような症状はありましたか?」
「いえ、特に。昨日稽古をやり過ぎたので、ただ疲れてただけだと思います」
「そうですか……」
そう言われてみれば、やはりただの過労なのかもしれない。聴診でも肺、心臓の病気を思わせるような所見はなかったし、今はどこからどう見ても健康な(そして不機嫌な)10代後半の青年にしか見えない。
「では、明日の朝にもう一度診察して、元気そうなら帰っていいことにしましょうか」
「はい」
馬越は「もう話は終わりだ」と言わんばかりに、小春から顔を背けてしまった。
相当嫌われている。こういう時に、スタッフがもう一人いればなあ、と思う。
小春は祈るような思いで口を開いた。
「あの……どうしてそんなに早く帰りたいんですか?」
もしなにか重要な用事があるのだとしたら、多少体調が悪くても馬越を早く退院させるつもりでいた。悪化すればまた入院させればいいだけの話だ。
だが、そういう事情がある方が稀だろう。
(シンプルに『お前が嫌いだから』とか言われたらどうしよう。3日くらい立ち直れないかも)
下を向いている小春を、馬越は静かに見つめた後、ぼそりと小さな声で言った。
「剣の稽古がしたいから」
「……稽古?」
予想していない言葉に、小春は顔を上げた。こくり、と頷く馬越は、確かに10代後半のあどけなさを残していた。
「俺は……もっと強くなりたいんだ。でも最近はなんか調子が悪くて……こんなんじゃ、いつまで経っても沖田先生みたいになれないのに……」
「……馬越くん」
小春が思わず名を呼ぶと、馬越ははっと我に返ったかのような顔つきになった。そのまま、小春に体ごと背を向ける。
「疲れたからもう寝ます。出ていってください」
「え、あ、はい……では失礼しますね。お大事に」
半ば追い出されるような形で、小春は部屋を出ていった。
その日の夜、小春はなかなか寝付けなかった。馬越のことを考えていた。
(うーん……なんか引っかかるなあ)
彼をただの疲労として帰していいのだろうか。多分、明日もう一度診察しても劇的な異常が見られることはないだろう。普通に考えれば、「良くなりましたね、では帰っていいですよ」の二言であの馬越とはさよならだ。
でも、なにか忘れている気がする。若年者、労作時、倦怠感、息切れ——
そこまで考えた時、小春の下腹部に絞られるような痛みが走った。
小春ははっと飛び起きた。
(やばい、これは……)
そして行李から紙と布を持ち出すと、厠に駆け込んだ。
「はぁ……」
しばらくして厠から出た小春は、重い溜息をついた。月のものが来ていたのだ。そのまま気付かずに寝ていれば、布団が血まみれになっていただろう。危ないところだった。
小春はそこまで生理が重い方ではないが、やはりこの時期は体が怠くなるし、貧血気味にもなる。さっさと布団に戻って寝よう、と小春が一歩踏み出そうとした、その時だった。
じゃり……
(……?)
庭の方から、砂が潰れるような微かな音が聞こえた。小春の足音ではない。
野生動物が入り込んできたのだろうか。それとも、侵入者?
小春は音のする方へ、足音を殺して近づいていった。
じゃり……
空は曇っており、月明かりのない夜は真っ暗だった。行灯も持ってきていないせいで、闇を手探りでかき分けるような状態になる。
そのうち、人の息遣いのようなものも聞こえてきた。途端に、ぶわっと鳥肌が立つ。
それでも、まるで見えない何かに背を押されているかのように、小春はなぜか足を止められなかった。
じゃり
じゃり
何かいる。
何の音だろう。
何が、何をしているんだろう。
小春は息を堪え、近くの茂にそっと隠れた。自分の心音が馬鹿みたいにうるさかった。
そのうち、雲が切れて、庭を月明かりが差した。
そこにいたのは、人だった。
人が、
土を、
食っていた。
「ぎゃああああああああああ!!!!!」
「うわぁああああっ!?」
夜空に二人分の悲鳴が木霊した。




