二月 ストレス ②
「中村さーん」
「ああ、先生。お戻りですか」
「これなんですけど」
厨房に戻ってきた小春は、人当たりの良さそうな笑顔で生ゴミの入っている壺を指差した。今日一日で生み出された大量の野菜クズや魚の骨達は、明日には肥料として近くの農家へ出荷される予定である。
「卵の殻だけ頂いてもいいですか? ちょっと使いたくて」
「殻ですか? いいですけど……」
「ありがとうございます。それと、小さいお鍋もお借りしますね。すぐ返しますから」
「はぁ、どうぞ……」
頭の上に疑問符を浮かべている中村を置き去りに、小春はさっさと自室に戻って薬を作り始めた。
〜簡単! 小春の3分調合〜
1.新鮮な卵の殻を用意します。殻に張り付いている卵膜は取り除いておきましょう。
2.細かく砕き、炒り鍋でよく熱します。加熱が不十分だと、サルモネラ菌による食中毒を起こすので気をつけましょう。
3.冷めたら適当な容器に移します。
「かんせーい」
小春は茶筒に入れた白い粉を軽く振った。
薬を作ると言ったが、何も特別なことはしていない。卵の殻を加熱して殺菌しただけだ。
卵の殻でできた胃薬なんてただの民間療法だと思われそうだが、卵の殻はそのほとんどが炭酸カルシウムという物質でできており、これが胃酸と反応して酸を弱める働きをしてくれるのだ。こめかみに梅干しを貼り付けるなどといった眉唾ものの民間療法とは違い、ちゃんと科学的な裏付けが存在している。
試しに薬匙一杯分を服用してみると、すっと胃痛が引いていく感覚がした。
(やっぱり薬はこれだよねぇ)
久々に西洋薬のような”化学物質”を服用した感覚に、小春はしみじみと頷いた。緩やかに効いてくる漢方と違い、薬が臓器にダイレクトに効いてくる実感がある。胃痛のような「今まさに困っている症状」に対しては、やはり構造がシンプルな西洋薬の方が強かった。
「さて、後は近藤さんの食事内容をメモして、っと……」
小春が紙と硯を探していると、廊下の方から聞き慣れた足音が聞こえてきた。
「氷上せーんせっ」
「沖田さん、こんばんは」
沖田は部屋に入ってきたかと思うと、子供のようなきらきらした目で小春の部屋を見渡した。
「賄方の隊士から、小春さんが卵の殻を食べようとしているって聞いて来たんですよ。あれって砂みたいな食感ですけど、どう調理したら美味しくなるんですか?」
「食べませんよ! いや、口に入れるって意味では間違ってないですけど……」
いったい何が悲しくて卵の殻など食べなくてはならないのか。
小春は卵の殻の粉末が入った茶筒を沖田に見せた。
「胃薬を作ってたんです。すぐ効くので便利なんですよ」
「胃薬? 誰か胃を悪くされてるんですか」
「えっと……」
ここで「近藤局長が」と正直に答えれば、医師としての守秘義務に違反していることになるし、何より沖田が血相を変えて心配するだろう。
少し迷って、小春は苦笑を浮かべた。
「私です」
てっきり笑いと共に「なーんだ、小春さんだったんですね」という答えが返ってくるものと思っていたが、沖田は思った以上に深刻そうな顔で小春の顔を覗き込んできた。
「えっ、大丈夫ですか? 医者に行ったほうが……って小春さんはお医者さんでしたね。でも確かに、顔色があまりよろしくないような」
「だ、大丈夫ですよ。ただのストレ……じゃなかった、心労ですから」
「心労……」
その言葉を聞いた途端、沖田の顔色がさっと青ざめた。もはや小春より体調が悪そうに見える。
確かに「ストレスで体調が」なんて言われたら、多少なりとも気を遣わざるを得ないだろう。
小春は慌てて補足した。
「全然、大したことじゃないんです。やらなきゃいけないことを後回しにしているっていうだけの話で、私の自業自得なんです」
「やらなきゃいけないこと?」
「はい」
あまり具体的に言うと山南のことだとわかってしまいそうなので、小春は慎重に言葉を選んで話した。
「いつかは絶対にやらなきゃいけないとはわかっているんですけど、どうしてもその踏ん切りがつかないんです。今日はできなかったから、明日やろうと思っているんですけど、でもきっと明日も私はそれをする勇気が出ないんです。そんなことで一人で勝手に疲れているなんて……馬鹿みたいですよね」
話しながら、あまりの情けなさに溜息が溢れてきた。
山南のためにも、病状をきちんと説明しなければならないことはわかっている。ただ、医師としての小春の甘い自尊心が、それをどうしても忌避していた。
良い医者でいたい。厳しい事実は告げたくない。「治らない」ことを認めたくない。
逃げ続けても疲弊するだけだが、その辛さに立ち向かうための一歩が、小春にはなかなか踏み出せなかった。
「…………」
沖田は難しい顔をして黙り込んでいる。その顔を見て、小春の胸に申し訳無さが湧き上がってきた。
こんなに抽象的な愚痴を振られても、対処に困るだけだったかもしれない。
小春が話を切り替えようと口を開きかけたその時、沖田が顔を上げた。
「三日後」
「えっ?」
「三日後、私は非番なんです。そろそろ私のお気に入りの甘味処で桜餅が売り出される時期なので、小春さんも一緒に行きませんか」
「ええ、良いですけど……」
唐突に一体何の話だ。
小春が首を傾げていると、沖田は何か言い淀むようにして視線を彷徨わせた後、もう一度小春を見つめた。
「その時には……小春さんの笑った顔が見たいです」
「……!」
はっと、小春の息が止まった。
まるで口説き文句のようにも聞こえるその言葉に、一瞬顔が熱くなる。だが、その意味を理解した後にやってきたものは、また別の種類の感動だった。
(そういうことか……)
小春は噛み締めるような微笑を浮かべた。
沖田なりに、小春の背中を押してくれたのだろう。「三日後までに終わらせてこい」と直接言わないところに、彼のそっと寄り添うような優しさを感じる。
(敵わないな、この人には)
自業自得な愚痴を零しただけで、ここまで勇気づけられるとは思ってもみなかった。この前の雪うさぎの時と言い、どこまでも小春が必要とする言葉をくれる人だ。
前髪を払うふりをして、小春はこっそりと目尻を拭った。
「……わかりました。その時までに、仕事に目処をつけるようにします」
「無理はしないでくださいね」
「はい」
沖田が去ってから、小春は何もない空間をじっと睨みつけた。
(よし、やるぞ)
大丈夫、自分はまだ頑張れる。
燃え上がってきたやる気を胸に、小春は再び仕事に集中するのだった。
一方、小春の部屋から出て行った後、沖田は自室の布団に入って悶えていた。
「うあー……」
(俺は何を言ってるんだ……)
思い出されるのは先程の小春との会話、特に後半部分における自分の発言である。
疲れ切った様子の彼女をどうにか励ましたいという一心だったのだが、もしかして自分はかなり気障なことを言ってしまったんじゃないか。「その時には貴方の笑顔が見たい」なんて、戯曲くらいでしか許されない台詞だろう。それを素面で言うなんて、自分は正気なのか。気が違ってしまったんじゃないのか。思い出すと、顔が燃えそうなほどに熱くなる。
「なんでかな……」
沖田は敷布の皺を見つめた。
いつからか、小春を前にすると、沖田は自分が自分でなくなるかのような感覚を覚えるようになった。地面から足が離れて、頭が浮つくような感覚。普段の自分なら簡単に言えていたはずのことが言えなくなって、全く意図していなかった言葉が独りでに口をつく。
気持ちばかりが上滑りして、まるで調子が悪い時の剣術のようだった。
これが剣術の試合ならば、やることは単純だ。自分の状態を自覚して、気持ちを切り替える。余計な雑念を振り払い、ただ剣と己の身を一つにするしかない。
だが、この試合は困難を極めるものだった。そもそも、敵がなんなのかもわからない。正体のわからない敵に、どうやって打ち勝とうというのか。
(……いや)
剣術に喩えたことで、沖田の脳ははたと閃いた。
(敵の正体が分からなくても、自分の思った通りの剣が振るえれば勝てるはずだ)
沖田は上体を起こすと、胡座を組んでむっつりと考え始めた。
こうなると、もう誰も彼を止められない。今や沖田の瞳は、剣に対する情熱で燃え上がっていた。
(あの人と話している時の俺は、重心が高すぎるんだ。だから些末な一撃にも動揺して姿勢が崩れてしまう……どんな敵が相手でも、自分の剣を振るえるようにならなくては。その為にはやはり、鍛錬だ。鍛錬が足りない!)
もはや当初とは全く違う方向に帰着しつつも、沖田は気合を漲らせて道場へと向かっていった。




