一月 腕神経叢損傷 ⑤
この世界には、無いものばかりだ。
手術用キャップもガウンもマスクもゴム手袋も、麻酔も抗生物質も輸血用血液もない。
それでも、泣き言は言っていられない。
目の前に救える患者がいるのなら、医師はただ最善を尽くすだけなのだから。
戸板の上に何枚にも重ねた布を敷き、その上に山南が上体を起こして座っている。
彼を囲むのは、四人の忍達。
いや、忍のような格好をした、医師とその助手達だった。
「これより山南敬助さんの右上肢縫合術を始めます。縫合担当の氷上小春です」
「じゅっ……術中管理担当の、山崎烝です」
「助手の藤堂平助です」
「お、同じく助手の伊藤与八郎です」
「患者の山南敬助だ」
メインの縫合、つまり執刀医を務めるのは、もちろん小春だ。山崎は術中管理、つまり手術中に山南の容態を逐一確認し、血圧が低下しないか、呼吸回数が増えないかなどをチェックする役割をしてもらう。現代の麻酔科医のような役割だ。
藤堂には、小春の使う道具についてそこそこ知っていることから、助手その一として器械出しを任せている。伊藤は助手その二、手術中に山南の頭部や首が動いたりしないよう固定する役割だ。
そして、患者の山南敬助もれっきとした手術チームの一員だった。何もそれは「患者もチーム医療の一員です」などという綺麗事だけの話ではない。彼にも重大な役割があるのだ。「痛みに耐える」という役割が。
この時代に縫合用の局所麻酔はない。つまり、患者は必然的に痛みに耐えてもらうことになる。しかも、今回の手術は普通に生きていて味わえるような痛みではない。切れた皮膚、筋肉、動脈、そして神経をつなぎ合わせるのだ。切断されているだけでも痛いのに、そこに針をかけたらどうなるか。
普通なら、痛みに暴れ出さないよう体を抑えるのにもっと多くの人手を要するだろう。だが、それを小春が言った時、山南は静かに首を振った。
――私も武士だ。それくらいの痛みなど耐えられる。
その肝の据わった瞳を見て、小春もいよいよ執刀医としての覚悟が決まったのだった。
「手術時間は約一刻を予定しています。器械類、手指の消毒は確認済みです」
小春の声に、藤堂が黙ったまま頷いた。
器械類の消毒はともかく、手指消毒は超重要項目だった。
現代ならば、手術室には必ず滅菌されたゴム手袋がある。だがこの時代にそんなものがあるわけがない。そのため、小春は手術の直前、ムクロジの果皮で出来た石鹸を使ってしつこいくらいに手洗いを繰り返し、指紋が擦り切れるまでアルコールを手に揉み込んだのだった。
器械出しの藤堂も同じことをやらされ、辟易としていた。
針や糸の個数、晒布の枚数も数えたし、手術前の点呼はこれで十分だ。小春は他の四人の顔を順番に見て、言った。
「では……始めます。まず創部の洗浄から」
圧迫止血に用いていた晒布を外すと、そこにはまだ真っ赤な血がべっとりと付着していた。
これでは血が多すぎて傷の様子がよくわからないので、生理食塩水を用いて傷を洗浄する。生理食塩水とはヒトの体液に最も近い0.9%の食塩水のことで、真水を使った時に比べて刺激が若干少なくて済む。それでも痛いものは痛いが。
生理食塩水を惜しげもなく肩にかけると、シーツ代わりの布に血の混じった桃色の染みが広がっていった。動かない右肩の代わりに、山南の左肩がびくりと震えた。
「ぐっ……」
「染みますよね、すみません」
「いや、なんのこれしき」
真っ赤に染まって見えなかった傷口が、洗浄されて段々と見えるようになっていく。皮膚、脂肪、筋肉の断面が露わになっていき、その中で一箇所、現在進行形で鮮血が噴き出している所があった。
(ここだ)
「藤堂さん、止血鉗子を」
「おう」
鋏によく似た形の止血用鉗子で、出血している動脈をぱちりと挟むと、それ以上血は広がらなくなった。どうやら、出血点はこの一箇所だけのようだ。
もう一度生理食塩水で残った血を流し、傷の評価を再開した。
(皮膚、脂肪は良いとして……僧帽筋、肩甲舌骨筋も切れてるな。今摘んでるのが肩甲背動脈、それと最大の問題は……)
小春は摘んだ動脈の下にある、千切れた乳白色の太い繊維を見つめた。
脊髄から腕に向かって伸びる神経、C5とC6の束が半分ほど切れている。上肢に繋がる神経の一群である腕神経叢の根本にあたる部分で、ここが切れているから右腕が動かなかったのだ。
(これを繋がない限り、山南さんの右腕は動かない、か……)
小春はごくりと唾を飲んだ。
普通の医学生なら、神経の縫合などまず絶対にできない。最も基礎的な皮膚の縫合でさえ、やった経験のある医学生は半分もいないだろう。
しかし、小春は実戦はさておき、知識だけはあった。実習中に縫合が好きだと外科の先生に溢したら、喜んで縫合テクニックの本とDVDを貸してくれたのだ。この世界に来てからも、余った食材などを使って地道に練習を重ねていたため、最低限度の技術ならある。
そんな最低レベルの技術なんて実行に移したくないというのが本音だが、この切迫した状況で背に腹は変えられなかった。
幸いにも、C5とC6は太い神経だ。拡大鏡がなくても肉眼で神経の細かい構造が見えるし、難易度的には易しい部類に入る。
まずはその神経から縫っていくことにした。
「剪刀お願いします」
「はい」
外科用の鋏を使って、神経を周りの組織から剥離していく。切るのではなく、刃の反対側で剥がすイメージだ。
それが出来たら、神経の切れ目同士がうまく引き寄せられるかを、鑷子(ピンセット)を使って確認する。
(うん……いけそうだな)
断面は鋭利だし、このまま縫合してもきちんとくっつくだろう。
縫合する間、止血鉗子は藤堂に持ってもらうことにした。
「山南さん、今から縫い始めるので、痛いと思いますが頑張ってください」
「ああ、頼む」
「伊藤君もしっかり押さえておいてくださいね」
「はい!」
無麻酔の手術に必要なのは、患者が痛みを訴えても絶対に耳を貸さないという冷酷な心だ。
小春は自分の心に暗示をかけた。
(これは人ではなく物、これは人ではなく物、これは人ではなく物)
自分が相手にしているのは、心を持たないただの物体である。
そう思い込まないと、手が動かなかった。これから始まるのは、現代ではとても許容されない苦痛を伴う手術だ。
(……やるぞ)
神経の表層を包む膜に、髪の毛よりも細い針と糸をかける。
その途端、山南の全身に緊張が走った。
「っぐぅう……!」
激痛から逃れようと、反射的に山南の首に力が入る。
それを、伊藤が両腕で抱えて抑え込んでいた。
「山南先生、堪えてください!」
「うぐっ、ぐぁあっ……!!」
針を膜に刺す度に、山南の喉から呻き声が上がる。空気に触れただけでも痛いのに、神経を直に操作しているのだから、痛いのも当然だった。
「山南先生……!」
藤堂の祈るような小声が聞こえる。
手術室には拷問でもしているかのような悲鳴が響き、暴れ出しそうな山南の体を伊藤と山崎が必死に抑え込んでいた。現代の手術とはまるで違う、地獄のような光景だ。
それでも、小春は手を止めなかった。
「氷上先生、脈が速くなっています!」
「大丈夫です、痛みへの自然な防御反応ですから」
(何が大丈夫なんだ)
自分で答えておきながら、小春は自問した。目の前で悶え苦しんでいる山南を見て「大丈夫だ」なんてよく言えるな、と、他の誰でもない小春が一番それを思っていた。
しかし、一度針を掛けた以上、もはや手を止めることは許されなかった。
この場においては、山南の苦しみも小春の人としての良心も、ちっぽけで取るに足らない問題に過ぎない。山南の腕を治すため、その医師としての正義だけが、この手術室の全てを支配していた。
手術の成功の前には、痛みなど些細な問題なのだ。
小春の心を置き去りにして、小春の体だけが”正義”を実行していた。
どれくらい時間が経っただろう。
途中から、もう山南の呻き声も伊藤の声掛けも耳に入らなくなっていた。ひたすら糸を運んで結んで切って、そればかりを無心で繰り返していた。
神経そして血管という二大難所の縫合を終え、今は筋肉の縫合に取り掛かっている。
前者二つに比べれば、筋肉は少々面倒くさいだけでそこまで集中力を要する部位ではなかった。神経や血管は、体の機能に直結する部位だから難しい、というのもあるが、基本レベルを超えた縫合テクニックが必要になる部位でもあるのだ。
神経を縫合する時のポイントは二つ。一つは、神経を摘む時は必ず外側の膜だけを掴むこと。そしてもう一つは、神経どうしをそっと寄せ合わせるようにして縫うことだ。
ぎゅっと力をかけて神経を繋ぎ合わせると、つなぎ目が山のように盛り上がってしまい、神経線維がぴったりくっつかなくなってしまう。その力加減の調節が難しかった。
そして血管は、そのままだと断面が円形で繋げにくいので、円周上の三点に糸を通し、断面が三角形になるように糸を引っ張って縫うようにする。血管はゴム管のように均一な層で出来ているのではなく、厚さの異なる3つの膜が重ね合わさって出来ている。中でも一番内側にある内膜は、特に綿密に縫い合わせる必要があった。
血流の遮断を解除した時も、一度目は縫い目の甘いところから再び出血してしまい、二度目でようやく成功したのだった。
「山崎さん、脈の方どうですか?」
ちまちまと僧帽筋を縫いながら、小春は山崎に尋ねた。多分何事もないと思うが、何事があってからでは困る。
小春が尋ねると、山崎はすぐに山南の両腕の脈を取った。
「先程は速くなっていましたが、今は落ち着いています。左右差もありません」
「ありがとうございます」
そうこうしているうちに、筋肉の縫合が終わった。
最後は皮膚の縫合だ。
よく皮膚は表面だけを縫うものと思われがちだが、それは違う。むしろ、真皮という皮膚の深いところをきちんと縫合できていれば、表面は縫わなくても傷を綺麗に閉じることができるのだ。
基本に忠実に、最後まで集中力を切らさないように針を運んでいく。疲れで霞んできた目をどうにか凝らして、小春は最後の糸を結び終えた。
「よし……確認お願いします」
その声に、藤堂が手元にある手術器具の数を数え始める。体内に針や晒布の置き忘れがないかどうかを確認するためだ。
「数は合っている」という藤堂からの報告を聞き、小春はほっと息をついた。
「はぁ、良かった……山南さん、縫合は以上で終わりです。本当にお疲れ様でした」
その声に、張り詰めていた手術室の緊張が一気に緩んだ。
「氷上先生、お疲れ様でした!」
「氷上君、本当にありがとう」
「いえ、山南さんこそ、動かずに我慢していただけて助かりました」
後は右腕が動かないように固定をして、自室で休んでもらえれば大丈夫だろう。
自分の隣の部屋に山南を運ぶよう指示をして、小春は汗を吸った手術着を脱いだ。アドレナリンが切れたのか、手術が終わった途端どっと疲れが押し寄せて、立っているのも精一杯なくらいだった。
(家族に説明しないと……ああでも、この場合は家族じゃないのか)
家族に対して手術の説明をするのも、執刀医の大事な仕事の一つだ。とはいえ、山南に家族はいないそうなので、誰に説明するのか、はたまた誰にも説明しないのか、判断に迷うところである。
いや、それにしても、いつもならもっと早く決断できるはずなのに、今はなぜか頭に靄がかかっているかのように思考が鈍かった。
障子を開けると、心地よい冷気と共に、大勢の隊士が小春へ群がってきた。
「氷上先生、山南先生はどうなったんですか!?」
「すごい悲鳴が聞こえましたけど」
「山南先生は助かったんですか!?」
「腕はどうなったんですか」
彼らの言葉が、まるで蜂の羽音のようにぶんぶんと小春の頭で鳴り響いている。
その先頭で、土方が驚愕を顔に貼り付けて立っていた。
「おい、氷上、お前」
「あ……土方さん」
小春は土方を安心させようと笑顔を浮かべたつもりだったが、なぜか目の筋肉が引きつっただけで、うまく笑えなかった。
「大丈夫です、手術は成功しましたから」
「そうじゃなくて」
何がそうじゃないんだろう。
やたら土方が焦った顔をしているので、小春は不思議に思った。それを聞く間もなく、土方がどんどん遠ざかっていく。服に血でも付いていたのだろうか。いくら手術をしたからって、そんなにドン引きしなくてもいいのに。
しかし、遠ざかっているのは小春の方だった。突然天井が目に入り、小春は困惑した。
(おかしいな、どうして)
どうして足に、体に、力が入らないのだろう。
その答えを知る前に、急激な眠気が襲ってきた。
「氷上!」
土方の叫び声が聞こえたのを最後に、小春の意識はブラックアウトした。




