十二月 酒 ⑤
あたまがいたい。
きもちわるい。
つらい。
目覚めた小春を待っていたのは、二日酔いという名の地獄だった。
「うぇえ……」
布団に横たわったまま、情けない呻き声をあげる。気分も体調も最悪だ。
二日酔いになるのは初めてだったが、こんなに辛いものだとは思っていなかった。
吐息が酒臭い。胃に何も入っていないのに、吐き気が止まらない。
今の小春の体は、エタノールの分解産物であるアセトアルデヒドにボコボコにされていた。
(何もしたくない……)
願わくば、このまま布団と一体化して泥のように眠り続けたい。
だが、それをすると干からびて死んでしまいそうだった。
口の中がからからで、頭が割れそうに痛い。試しに手の甲の皮膚を摘んでみると、摘んだ場所が皺になったままなかなか戻らなかった。
ツルゴールの低下、つまり脱水だ。
(何か飲まないと……)
小春は日なたに出てしまったミミズのように、のろのろと台所へ向かった。
台所では賄方の隊士が大量の朝食を作っていた。二日酔いで瀕死に陥っている今の小春には、朝から元気な彼らのことがやたら眩しく感じられる。
隊士の一人が、小春に気付いて声をかけた。
「おはようございます、氷上先生。お疲れのようですね」
「おはようございます……二日酔いが酷くて。お味噌汁もらえますか?」
「どうぞ。他の朝食もお部屋へ運びましょうか?」
「いえ、味噌汁だけで結構です」
それ以上の固形物を食べたら胃がひっくり返ってしまいそうだ。
器に味噌汁を注いで貰い、小春はその辺の板敷に腰掛けると、箸も持たずに汁を飲んだ。
「っはぁあ〜……」
沁みる。
味噌の優しい塩分と、ちょうど良い暖かさの水分が、乾き切った体を包み込むように癒していく。
ごくんと飲み込んだ鼻の奥からほのかに出汁の香りが抜けて、ほぅ、と恍惚の溜息が漏れた。
(生き返る〜)
全身の細胞が歓喜のガッツポーズを挙げているのがわかる。
全て飲み終えた頃には、小春の頭痛もだいぶましになっていた。
「はぁ……」
ひとまず、脱水という差し迫った生命の危機が去り、小春はほっと息をついた。
そうなると、色々と考える余裕も生まれてくるというものである。
(昨日どうしてあんなに飲んじゃったんだろう)
こんなに酷い二日酔いを起こすのは人生で初めてだった。
それに、あれだけ楽しかった宴のはずなのに、その後半以降の記憶が全くない。どうやって帰ってきたのかも覚えていない。
記憶にない、と言うよりは知らない、と言いたくなるくらいの忘れ方だ。
今まで酒に飲まれたことはないし、普段から自制のきく性格だと思っていた小春にとって、自分が記憶を無くすまで飲んだ、という事実はかなりの衝撃をもたらした。
どうしてそこまで飲んだのだろう。
ふと、兄の言葉を思い出した。
(寂しかったから?)
『酒は心の隙間を手っ取り早く満たしてくれる』。
その作用に惹かれて、昨日の小春は人が変わったように飲み続けたのだろうか。
飲むことで、この果てしない孤独から気を紛らわせたかったのだろうか。
自分のことながら、他人の心理を考察しているような気分になる。
小春は吐き出すような溜息をついた。
(やめよう、考えても仕方ない)
寂しさや孤独はそう簡単に癒えてくれるものではない。
となれば、当面は酒を極力控えるようにするしかないだろう。
これ以上醜態を晒すような羽目にならないためにも。
だんだんと押し寄せてきた自己嫌悪の波に、小春の顔がどんよりと曇る。
その時、賄方の隊士が一斉に畏まる気配がした。
顔を上げると、背後に土方が立っていた。
「こんなところにいたのか、氷上君。探したぞ」
「あっ……土方さん」
彼は昨日の宴会には出席していなかった。屯所の留守番をしてくれていたのだ。
土気色の顔をした小春の様子を見て、土方が喉の奥で笑った。
「その様子だと、だいぶ羽目を外したんじゃないか?」
「仰る通りで……」
返す言葉もない。
小春が項垂れていると、土方がちょいちょいと手招きをしてみせた。
なんだろうと思って近寄ると、土方は他の隊士に聞こえないくらいの声で、衝撃の言葉を発した。
「お前、今日一日休んでいいぞ。人払いしといてやるから、ひとっ風呂浴びてこい」
「え!?」
小春は己の耳を疑った。
二日酔いだろうがなんだろうが働け、医者とあろう者が情けない、の聞き間違いではないのか。
でも、小春を見下ろす土方の目は、なんだかいつもより優しい気がする。
(ほんとに休んでいいの?)
口をあんぐりと開けていると、土方が決まり悪そうに目を逸らした。
「もちろん重傷者が出れば対応してもらうが、たまにはそういう日があってもいいだろ」
「あ……ありがとうございます!」
こういうのは土方の気が変わらないうちにさっさと行かなくてはならない。
準備のために部屋に戻ろうとした小春に、土方が小声で続けた。
「それと、昨日潰れたお前を屯所まで運んでやったのは総司だ。後で礼言っとけ」
「え……!」
小春の顔がさっと青ざめた。
(やっぱり自力で帰ってきたんじゃなかったのか……!)
記憶を失くすくらいまで泥酔していたのなら、その時の小春が真っすぐ歩けていた可能性は低いだろう。だがそれにしても、歩けないどころか潰れて運んでもらったとは思ってもみなかった。
なにかと沖田には迷惑をかけっぱなしだが、昨夜もまた彼の世話になってしまったのか。しかも人を運ぶなんて最大級の迷惑だ。
そろそろ菓子折りでも持って詫びに行った方がいいのかもしれない。菓子折りはなくても、とりあえず早急に謝罪するべき案件だ。
「す、すぐ謝ってきます!」
小春は慌てて台所を後にした。
その後ろ姿を見つめて、土方がぼそりと呟いた。
「別にいつもと変わらねぇけどなぁ」
昨晩、土方が遅くまで起きていると、みしっと廊下の床板を踏む重い足音がした。聞き覚えのないその音に、土方はぴくりと眉をしかめる。
(誰だ? 幹部の奴らじゃねぇのか?)
飲みに行った幹部の面々が戻ってきたのかと思ったが、幹部の中にこれほど体重が重い奴はいない。
別の隊士か、はたまた忍び込んできた刺客か……
障子をほんの僅かに開けて覗き見る。そして、土方は目を見開いた。
(総司……と、氷上?)
酔い潰れた小春を、沖田が抱きかかえて運んでいる。
彼女の体をどこかにぶつけてしまわないよう慎重に、そして大事そうに運んでいるその光景に、土方はにやりと口角を釣り上げた。
(へぇ、そういうことか)
以前から仲が良いとは思っていたが、そこに特別な感情が絡んでいるとは思っていなかった。沖田と小春が一緒に何かしているのを見かけても、二人の性格からして仔犬がじゃれあっているようにしか見えなかったからだ。
だが、眠っている小春を見つめる沖田の眼差しを見て、土方は直感的に理解した。
(総司の奴も、もう餓鬼じゃねぇってことだな)
背ばっかりでかくなりやがってと思っていたが、ちゃんと女を愛する心も育っていたらしい。
花街の遊女ではなく、小春という変わった女を選ぶ辺りが沖田らしいと思った。
隊内の風紀が乱れるとか、身分のはっきりしない女との恋愛はどうなんだとか、そういう俗世間的な心配は不思議と湧かなかった。土方には珍しく、ただただ彼らの幸せを祈る爽やかな感情で満たされている。
(ちゃんと寝といてやるから、安心して楽しんでこい)
沖田相手なら小春もきっと受け入れてくれるだろう。案外、酔い潰れたふりをして、手を出してくるのを待っているのかもしれない。
土方が布団に潜り込んだ、その時だった。
障子の向こうから、囁くような声がした。
「土方さん、起きていらっしゃいますか」
「は?」
思わず声が出た。
そこにいたのは、送り狼になっているはずの沖田だったからだ。
小春を部屋まで送り届けて、すぐ戻ってきたらしい。何をやっているのか。据え膳食わぬは男の恥という言葉を知らないのか。
「お前、なんでここにいる」
「なんでって……ご相談したいことがあるからですよ」
「相談?」
土方は噴き出した。
「馬鹿かてめぇは。男と女が交わるのに理論も相談もクソもあるか。さっさとあいつの部屋へ戻れ」
「一体何の話です? 私がお話したいのはもっと真面目な件ですよ」
そう言うと、沖田は許可も得ないままさっさと部屋へ入り、土方の布団の側へ跪いた。
妙に浮かない顔をしている。
「何の件だ」
「彼女、泣いてたんですよ」
「へぇ」
小春は酔うと泣き上戸になる人間だったのか。知らなかった。
しかし、沖田の深刻な表情は、話がそんな単純なものではないことを物語っていた。
「もしかすると、彼女は我々の想像も及ばないような遠く離れた地からやってきたのかもしれません」
「どういう意味だ」
「泣きながら、彼女は孤独だと言っていました。正体を明かしたくても明かせない、本当の自分を知っている人はこの世界に誰もいない、と」
「本当の自分を知っている人?」
その部分だけ取れば、そんなものは誰にだっていないと言えるだろう。土方だって、血より濃い絆で結ばれている近藤にさえ言っていないことが山ほどある。土方の全てを知っている人など誰もいない。沖田だって同じだろう。
だが、小春のその発言は、果たして土方が思っているような意味なのだろうか。
正体を明かしたくても明かせない。
本当の自分を知っている人はこの世界に誰もいない。
それはつまり、自分の正体を知る人間が、この国どころかこの世界にさえ誰もいない、という意味なのではないか。
やんごとなき身分の方の落とし子、ということもあるかもしれない。
だが、初めて会った時の彼女の身なりや持ち物を考えると、もっと違う考察の仕方があるように思われる。
そう、例えば……
(くだらねぇ)
あまりに突飛な発想に、土方は自分でも思わず眉をしかめた。だが、どうしてもその考えから頭が離れない。
そんな土方を見て、沖田がふっと笑った。
「まあ、彼女もだいぶ参っているようですから、もうちょっと優しくしてあげてもいいんじゃないですかね。自由に使える給料をやるとか、非番の日を設けるとか」
「……ん、ああ、そうだな」
考え事をしていた土方は、ぺらぺらと喋る沖田に生返事を返した。
それを聞いて、沖田が満足そうににこにこと頷く。
「良かった。では、私の要件は以上です。夜分に失礼致しました」
「おう、そうか、下がれ」
彼が辞去した後に、土方ははっと気が付いた。
(あいつ、さりげなく氷上の待遇改善を俺に呑ませたな)
相談があると言っていたが、彼の要件とは小春の発言について報告することではなく、彼女の待遇を改善させることの方だったのではないか。
武士に二言は無い以上、それを聞いていたのが身内に等しい沖田だけであっても、土方は小春に給料を与えなくてはならないし、たまには非番の日を設けなくてはならなくなる。
(これは一本取られたな)
いつの間にそんな頭が回るようになっていたのか。
本人が言ってこないうちはこのままで働かせよう、という土方の魂胆が沖田にはわかっていたらしい。
土方は苦笑した。
(ま、当面は優しくしてやるか)
そんなわけで、土方は早速二日酔いを起こした小春に非番を与えたのである。
尤も、あの様子だと非番を貰ったのはただの土方の気まぐれだと思っていそうだし、まして沖田の助言によるものだとは夢にも思わないだろうが。
沖田に運んでもらったと知った小春は青ざめて彼を探しに行き、巡察でいないと知るや、くたびれた顔をして風呂に入りに行った。
別に儚げな様子で物思いに耽ることも、人目を忍んで涙を流すこともない。
いつもの氷上小春に見える。
だがその“いつもの氷上小春”とは、一体何者なのか。土方は再びわからなくなってきた。
「……せめて、あいつの手が届く存在であってくれ」
土方の呟きは、醤油の匂いと温かな水蒸気に紛れて溶けていった。
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