十二月 酒 ①
あれは確か、五年前の夏だった。小春がまだ高校生だった頃だ。
食事に行った帰り、賑やかな夜の木屋町通を、小春は兄と連れ立って歩いていた。
いや、賑やかなどという可愛いものではない。
歩道の真ん中で狂ったように騒ぐ若者の集団。
酔っ払ってくだを巻く中年の男性。
ミニスカートで膝を立てて座り込む若い女性。
道端に吐瀉物を撒き散らす、小春と同じ年くらいの男性。
思わず目を背けたくなるような光景が広がっていた。
品のある京の都が台無しだ。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
顔を顰めて兄に話しかけると、兄はもう慣れっこのようで、平然とした顔をしていた。
スーツを着たキャッチの男性から逃れるように、小春は兄の側へ寄る。
「どうして人はあんなになるまでお酒を飲むの?」
その時の小春には、酔い潰れて醜態をさらす彼らが、まるでおぞましい化け物のように見えていた。
見苦しい。
下品で、知性の欠片も感じない。
絶対にあんな大人にはなりたくない、と思った。
「どうしてだろうね。俺はあんなになるまで飲んだことがないからわからないなぁ」
雨など降っていないにも関わらず、小さな水溜りが出来ている。
それを避けて、兄は苦笑した。
「そうそう、アルコール依存の人って結構多いんだよ。本人は病気だとは思ってないから、病院にかかることも少ないんだよね。俺の知り合いにもいたな。まあ、彼らがそうとは限らないけど」
「ふぅん」
溜息に不快感が滲む。酒に溺れる人間のことなんてどうでも良かった。早く落ち着ける場所へ行きたくて、早足に人の波を潜り抜ける。
「でも」と兄が小さな声で呟いた。
「話を聞いていると、酒にハマる人っていうのは、なんだかすごく寂しがっているような気がするんだよね」
「寂しい?」
「そう」
――酒は心の隙間を手っ取り早く満たしてくれるから。
そう言う兄の横顔が、一瞬別人のように見えた。
「ふんふふんふーん……」
屯所内の井戸のすぐ側で、小春は火鉢を持ち出して焼酎を温めていた。
と言っても、飲むためではない。
消毒用アルコールを作るためだ。
この時代では焼酎を消毒用に使っているが、実際に医療現場で消毒として使うにはアルコールの濃度が低すぎる。そこで、水とアルコールの沸点の違いを利用し、蒸留することで焼酎からアルコールだけを得られないか、と考えた。
同様の発想をした人は既にこの時代にもいたらしく、蘭引という蒸留用の道具があると隊士の一人が教えてくれた。
近藤に頼んだら二つ返事で買ってくれたので、早速使ってみている。
「おー、出てきた出てきた……!」
小春は一人でひっそりと感動していた。受け皿として用意した徳利に、アルコールがぽたぽたと垂れ落ちていく。
一滴小指にとって舐めてみると、パンチの利いた”エタノール”の味がした。エタノールとは、酒の酒たる成分のことである。
(これで消毒ができる!)
久々の実験が大成功して、小春は上機嫌だった。
たいして設備もないこの時代でエタノールの蒸留実験ができるとは、思ってもみない収穫である。
とはいえ蘭引を使った蒸留も、原理はそう難しくない。
蘭引は背の高いやかんのような形をしていて、内部が上の部屋と下の部屋に分かれている。下の部屋に蒸留したい液体を、上の部屋には冷たい水を入れておくことで、気化した物質が冷やされ、注ぎ口から液体となって出てくる、というわけだ。
高濃度アルコールを扱っているので、引火には十分注意する必要がある。
万一火事になってもすぐに消火できるように、小春は井戸端で実験を始めていた。
焼酎からどんどんエタノールを取り出していると、玄関の方から声がした。
「おい、誰だ昼間っから酒盛りしてる奴は!」
永倉の声だ。そんな不埒な輩がいるのか、と小春は首をきょろきょろとさせたが、彼がどんどんこっちに向かってくるのに気付き、はてと手を止めた。
永倉は小春の実験装置まで来ると、手を腰に当てて立ち止まった。
「なるほど、まさか先生だとは思わなかったな」
「え?」
小春はぱちりと瞬きをした。
……確かに、傍から見れば昼間から熱燗を煽ろうとしているように見えるかもしれない。
小春の足元には数本の徳利と焼酎一升分が鎮座している。それに、酒の匂いもぷんぷんしている。
それでも、別に酒を飲みたくてこんなことをしているわけではない。
これは誤解です、と小春が言う前に、永倉が悪い笑みを浮かべた。
「俺にもくれ」
「……」
(土方さーん、永倉さんがこっそりお酒を飲もうとしていますよ)
とはいえ、土方にチクるという真似をするほど、小春も冷血な人間ではない。
小春はエタノールの詰まった徳利を見せびらかすように振った。
「これは消毒用のお酒を作っていたんです。飲むようなものではないですよ」
「消毒用? どうせ焼酎だろ」
「ふふん」
今度は小春が悪い笑みを浮かべる番だった。
「飲んでみますか?」
「おう」
一般的な焼酎の度数は約25度。小春が今作っているのはそのおよそ三倍、度数の高いラム酒くらいのアルコール濃度である。
小春は蘭引の蓋にエタノールをほんのちょっとだけ注ぐと、永倉に渡した。彼は「これだけか?」という顔をした後、ぐいっ、と一気に飲み干す。
途端に、むせた。
「ごほっ、げほっ! お前、なんてもん作ってんだ!」
「だから飲むものじゃないって言ったじゃないですかー」
笑いながら自分用に準備しておいたお茶を差し出すと、全部飲み干されてしまった。
ぷはっ、と永倉が口元を拭う。
「しかし、こんだけ酒精の匂いぷんぷんさせといて顔一つ赤くしないとは、先生はいける口だな?」
「え? どうなんでしょう……」
飲めない方ではない、と思う。大学入学前にやったアルコールパッチテストでも赤くならなかったし、飲み会で酔い潰れたこともない。
ただ、そもそもそこまで大量の飲酒をしたことがなかった。限界を知らない、というやつだ。危ないので別に知ろうとも思わないが。
そんな小春の心中は知らず、永倉はにこにこと笑っていた。
「次の宴会で先生と飲むのが楽しみだなぁ。次は来るだろ?」
「……」
小春は複雑な顔をした。
一応、小春は新選組に居候させてもらっている身である。しかも素性が怪しいので、取り扱いに土方や近藤が色々と苦労していることも知っている。
飲み会にも、小春の一存で参加すると言うわけにはいかない。
それに、色々な意味で「余所者」な自分が参加していいのだろうか、という引け目もあった。
「そうですね、近藤さんに聞いてみないとなんとも……」
小春が言葉を濁すと、永倉は珍しく「駄目だ、絶対に来い」と言い切った。
「みんな先生と飲むのを楽しみにしてるんだ。次は不参加とは言わせないさ」
「皆さんが?」
その言葉に、少なからず驚きが走った。
てっきり自分みたいな正体不明の新参者など、いない方が盛り上がると思っていた。
だが、そうではなかった。
彼らはちゃんと小春を新選組の一員として、幹部の一人として迎えてくれているのだ。
(新選組の人達は優しいなあ)
嬉しいはずなのに、胸がちくりと痛む。
黙っている小春を見て、永倉が首を傾げた。
「どうしたんだ?」
「あ、いえ、なんでもないです」
小春は慌てて顔を上げると、いつものような笑顔を浮かべた。
「では、近藤さんにお願いしてみますね」
「おう。断られたらすぐ呼んでくれ、近藤さんをぶん殴ってでも説得するさ」
「それは流石に」
井戸端に笑い声が響いた。




