Act .1 神は愚者しか愛さない05
IQ160の超がつく天才アビエル・キール。
彼がルザライトに来た時の騒ぎを今でも男は覚えている。
一介の研究者には絶対に与えられない特権を一挙に手にし、悠々と研究所を歩く彼は、その事態には何の感慨も浮かばないのか、説明を受けても眉一つ動かさなかった。ゆるくウエーブのかかった黒髪を束ね、真新しい軍服に身を包み現れた物静かな男。青い瞳には理知的な光をたたえ、ただ興味もなさそうに時折他の研究者を見ていた。
糞野郎。
『神は人に二物を与えん』とはよく言ったもんだ。十分すぎる地位に財、現実離れした頭脳な上に見た目も上々じゃ、女にも困ることないだろう。
悪態をつくも、余りにも相手が恵まれている為に自分がむなしくなるのを感じるだけだ。
だがそれは昔の話、今は違う。
流桜は研究室にあったパイプ椅子に座り、机に足を乗っけながら暢気に研究資料を眺めていた。それは読むのではく、ただ見るだけだ。歴史的にも貴重な研究結果と考察が書かれたレポートだったが、流桜にとってそれは廊下に飾られた絵画を眺めると同等の意味合いだった。
別に研究の理論がわからないのではない。理由は至極単純。
字が汚ねぇ。
本当に汚ねぇ。
今時珍しい手書きのレポートに書かれているのは、どう見てもミミズがのたくった形跡。部屋に入り、無造作に置かれたレポートを見つけた時、研究を盗んでやろうかと思い付いたが、それは見た瞬間失敗に終わったとわかった。自分も褒められた字じゃないが、これは酷いとしか言いようがなかった。
ポンとレポートを机に投げ出した。この字を故意にやったかどうか知らないが、放置してあったのを思えば他人には読めないと分かっていたのだろう。
研究室の扉が開く音が聞こえて流桜は振り返る。姿を現した憔悴し切った天才を見て、思わず口の片端を上げた。
「今日は何処で転んだんだ?天才様よ」
相手は声に反応してゆっくりと頤を上げた。纏められていた髪は解け、無惨に汗の浮かんだ青白い顔に張り付いていた。流桜の黒い瞳と海を思わす青い瞳が出会うと、天才は心底嫌なものを見たかのように眉間にしわを寄せ、苦々しく口元を歪めた。
「ここで何してんだ?」
警戒心ではなく嫌悪感を表にして、わざわざ離れた扉のすぐ横の壁に寄り掛かった天才に優越感にも似た昏い感情が浮上する。
向きを変え。実験台に座り、片足をぶら下げた姿勢で流桜はおどけるように腕を広げた。
まるで友人に向けるような馴れ馴れしい態度だが、唇に漂うは酷く軽薄な笑み。
「何してんだはないだろ。同じチームだ。ココの研究室に俺がいても別になあーんにもおかしくない。だろ?」
「名前だけで何もしてねぇヤツが良く言う」
ここはアビエル・キールの研究用に特別用意された研究室だ。研究者は大抵レベル1にある五つの研究所のどれかに所属し、その内に研究室を持ったりするが、天才はそれとは別に参軍本部に研究室を一つ持つ。
同じ研究チームの者が足を運ぶことは可能性としてはあり得るが、この天才様は人との協力というものを知らないので滅多に人は来ないだろう。
「珍しく正装してるじゃないか。何処いってたんだ?」
アビエルは青い軍服を来ていた。研究者は式典以外では軍服の着用義務はないので、普段ズボンは軍服を着ているが、上はシャツとネクタイの上に腕章のついた白衣を着て済ます。あとはそれなりに身分のある人間と会う時ぐらいしか上着は着ない。これは医療に係わる部署の者も同じだ。
流桜の質問に天才は僅かに顔をしかめる。何処に行っていたかは大概予想がついたが、わざと皮肉を込めて聞いたのだ。相手もそれをわかってる。
「テメェに言う必要があんのか?」
「ごもっとも」
「…取ってくれ」
顎で示された所にあるのはタバこの箱だ。流桜はそれを掴み投げてやる。計算された綺麗な放物線を描いて箱は壁に寄りかかったアビエルの目の前へ落ちて行く。
しかし、タバコの箱はそのまま床に落ちた。
「?おい」
折角上手く投げてやったのに何してるんだ。
不振そうに見ていると、アビエルはようやくそれに気づいたのかゆっくりとタバコを拾い上げて火をつけた。
一筋の紫煙が空調が完備された天井へ上っていった。
震える指先。荒い吐息。
隠すように俯いていたがアビエルの顔色は死者と並んで寝ても、疑われずに埋葬される程悪い。
「特権階級の天才がいい様だな。手酷くやられたもんだ。そこまでやられて黙ってるなんて感心するね」
感心ついでに嘲笑を贈る。
それを肯定するようにアビエルも自嘲的に笑った。
「物は?それの話に来たんだろ、流桜」
「まあ、慌てんな。せっかちな男は嫌われるぜ」
「テメェと友人ごっこする暇はねぇんだよ」
直ぐにでも気絶しそうな顔をしてるにも関わらず、天才は相変わらず不機嫌で強気な姿勢は崩さない。それを支えるのは残った一握のプライドだろう。
それが踏みにじられた時、この頭でっかちはどんな顔をするだろうか。
渇いた欲望。どす黒い好奇心。渦巻く毒のような感情に喉から歪んだ笑い声が漏れた。
「こんなもん欲しがるようになるとは終わったな、天才様」
流王は足元に転がる黒い鞄を軽く開けて、行儀悪く足でアビエルのほうに押しやった。何のようも無いのに会いに来るほど、流桜とアビエルは親しくない。今回は流桜の副業の依頼主がこの天才様だからわざわざ足を運んだのだ。
鞄の中身をよく見ようと相手は身を乗り出した。
細く開いた鞄の隙間から中身が見える。殺傷能力を重視した無骨なフォルムの黒い銃。光を飲み込む闇色をアビエルは満足そうに眺めた。
「悪くねぇな。中身はいくつある?」
「三箱。もし良かったらこっちもつけるぜ?
「何だ?」
「45の銀色の女」
揶揄するように下品な笑いを浮かべる。
片手を机の下にやり流桜はズボンの裾から銀色の銃を取り出した。シャープに研ぎ澄まされたデザイン。45口径の威力は申し分ないだろう。
「“Princess De Rien”正直じゃじゃ馬だがな。どうだ?」
アビエルは“虚無の女王”と洒落た名のついた銃を見つめ、流桜を見つめる。
「対価は?」
「アンタみたいなひょろいの頭でっかちが、コイツに振り回されておっ死ねば笑いの種になって面白いと思ってね。ついでに、あんたが御執心のドS大佐のイチモツ吹っ飛ばしてくれりゃあ万々歳だ」
軍服の首元を緩めていたアビエルが手を下ろし、この上なく嫌そうな顔をする。
「誰が誰をご執心だっ。てめぇのケツの穴溶接して、口から糞垂れ流すかどーか実験してやろうか」
「…相変わらず下品なスラングだな。初めて聞いたときはビビッたぜ」
「人のこと言えねぇだろ。…まったく、化けの皮の十枚や二十枚被らずに天才が出来ると思ってるのか?全部の天才が英才教育受けてきたエリートだと思ってるクズは死にさらせばいいんだよ」
アビエルの涼しい顔で煙草を指に預け、長く煙を吐く。ゆらゆらと上っていく煙を途中まで目で追い、それに飽きたのか視線がすっと下り流桜を捉えた。
顔はまだ青白かったが、一服して瞳には活力が戻ったようで挑発的に輝く。降参だとばかりに流桜は肩を竦めた。足で先ほどの鞄を引き寄せ、流桜は机の下で乱暴に銃を中に突っ込む。
「ホント長生きしねぇぜ」
――ま、その方が楽しいが。
それは流桜の正直な感想だった。
そんなこと分かりきってるとため息混じりに言って、天才様はお行儀悪く床に煙草を捨てた。床にいくつもある黒い焦げ後はこいつのせいかと、今更ながらに思った。
「ってか、何勝手にテメェの足臭いモン突っ込んでんだ」
「サービスっつうことで。対価は60な」
「どう見ても40がいいとこだろ?」
「金持ちがけち臭い事言うんじゃねーよ。55」
「OK」
アビエルはくしゃりと空の煙草の箱を握り潰すと、ゆっくりと棚に歩み寄り紙袋を持ち出した。反対の手には煙草1カートンをぶら下げてニヒルに笑う。
「コミで100だ」
何をと聞かずとも理解し、了解として右手を上げた。飛んで来た紙袋を難無く受け取り流桜は立ち上がった。
新しく火を付けた煙草を燻らしながら床に直接座る天才は流桜から興味を失せたのか床を眺めている。出ていこうと扉に近寄るとアビエルの肩がピクリと動いた。
「不様だねぇ、天才」
アビエル・キールが話し合いという名の拷問にかけられているのは第二研究所で衆知の事だった。呼び出される度に心身ともに擦り減っていく様子を見ていれば一目瞭然。
大方、嫌な研究をするように強要されているのだろう。軍のやり方は汚い。捕虜に対する拷問のように相手の望む事を言うまでこれは終わらない。
普通の人間なら、徐々に状況が飲み込め、妥当な条件で降参するものだ。
だが、この様子を見るかぎり拷問は続いている。
「ちょっとは頭使ったらどうだ?今も、近付く気配に反射的に怯んだんだろ。…それともなんだ?だんだん拷問がクセになったのか?」
「っせぇな…。テメェの悪臭が鼻についただけだ。コレやるから、部屋に異臭が篭る前にさっさと出てけ」
立ち上がったアビエルは、先程開けて一つ減った1カートンの煙草を押し付けて作業台の方へ歩いていった。足取りは今にもぶっ倒れそうな程危うい。
「一ついいか?」
「?」
呼び止められたアビエルは怪訝そうに流桜を振り返った。
引っ掛かったのは純粋な疑問だ。
「アンタ、ちゃんと使えるんか?ってか、勝算はあんのか?」
銃の事だ。
依頼を受けた時は、怨み辛みでドS大佐に一発ぶち込むのかと思ったが、アビエルはちゃんと中身の弾丸の手配まで流桜に要求した。撃ったら終わりではない。撃ち合いをする気でいる。相手は勿論軍部の日頃訓練をしている奴らだろう。まるで正気とは思えなかった。
「別に軍に喧嘩を売るつもりはねぇよ。どうにかなる」
「ソレはな、引きがね引きゃいいってもんじゃないぜ?」
その台詞にアビエルは笑った。タバコを口に挟んだまま、背を折り曲げて喉の奥で小さく不気味に声をだす。本当に愉快なのだろう。その笑みは本物の様だったが、何故だかその姿にはぞっとした。
何が面白いんだかわからない。次第に腹が立ってきて、いつまで笑ってんだと文句を言おうとした時、おもむろにあいつは手を挙げて自分の眉間を指した。
「一応、20メートル離れても外さない自信はある」
「冗談だろ?」
「みんな信じてねぇな。だから、当たるんだよ。ガンマニア」
信じてねぇからって当たるわけがない。どうせいつもの軽口。
そう思っていたが、天才様の表情は真剣だった。間違いなく本当のことを言っている。
確信した時、流桜の口から吐かれたのは白け切った溜息だった。
神は人に二物を与えんとは誰が言ったんだか…
二物どころか三も四も与えられているこいつは人じゃないのかもしれない。それなら、俺は素直に納得する。
「お前、本当は喧嘩慣れしてるんじゃねえの?まさか、実は大佐に殴られてるのもワザトとか言うんじゃないだろうな」
「ふざけんな、そんな自虐的趣味はねえよ」
「どーだか。どうも信用出来ねぇ」
流桜は諦めたように言った。
「ガンマニア」
「んあ?」
帰ろうかとしたところ呼びかけられ振り返る。
「第二研究所の方に行くのか?」
「そうだよ。なんか文句あんのか」
「今は行かねえ事をお勧めするぜ。折角の金を治療費にするのはごめんだろ?」
「治療費だ?」
睨み付けると、何かしでかした犯人は涼しい表情をして笑った。
「俺だけ酷い目にあってると思うと腹が立って、ちょいとカワイイ悪戯してきた」
それが本当に“カワイイ”ものか想像したが、そんな筈がないと思い、正直犠牲者に同情した。まったく、武器を今日受け渡して正解だった。でなければ巻き込まれていただろう。
「で、何したんだ?結局」
「行ってみればわかるぜ?」
「絶対行かねえ。ってか、そんな事言われてから行けるか!」
流桜は憤慨する。
それを見てからアビエルは呟いた。
「楽しめ。これはまだ、ただの余興さ」




