第四話:理想と現実の狭間は、なかなかに埋められない5
(結局、咲玖の言う通り私は恋愛の『れ』の字も知らないのかしらね……)
放課後を知らせるチャイムを耳に、紫乃は机に広げていた教科書とノートを閉じた。
本日最後の授業ともあって、お昼休みよりもどこか気の抜けた空気感が漂う。
そんな中、いつもの調子で声をかけてくる一人の女生徒。
「お~す、お疲れさん」
「……咲玖?」
声がした方へと視線を向けると、片手をあげて近づいてくる親友の姿。
紫乃の前に座る生徒に断りを入れて椅子を譲ってもらい、背凭れを抱くように腰かける。
「何、今日の授業はそんなに難しかった?」
「……特にそうは感じなかったわ」
特進コースとは言え、授業は普通科コースと大差ない。ただ進む速度が違うだけで、授業の大半は応用を利かせた問題を解くことを主軸に置いている。それで解らなければ教師に訪ね、再び説いていくというシステム。
ただ、紫乃からすれば前日には済ませた予習範囲。
だからその復習も兼ねた、自由時間に等しかった。
「じゃあ、何で終始難しい顔してたんだ」
「そんな顔してたかしら」
あまりにも無自覚で、指摘されても気づかない。
その様子に、咲玖は肩を竦めた。
「たまにはピリついた空気もありだけど、珍しいこともあるじゃん。会長殿が授業に集中しきれてないなんて」
「……少しね。今朝、貴女に言われたことについて考えていたの。やっぱり私――」
「あ、あ~ストップ! それ以上は言わなくていいからッ!」
「けど」
「(頼むから、公を前にそのことを口にしないでくれ。いろんな方面から私が叩かれる)」
急に顔を近づけてくるものだから、紫乃は反射的に咲玖を遠ざける。
「そうは言うけど、私だって――」
「オケー私が悪かった! そのことはいつでも話聞くから、今だけは止めてくれ」
食い下がらない紫乃に、咲玖は挙動不審といった様子で周囲を見渡す。
「……なら、放課後にでも――」
『あ~二年の五百瀬。五百瀬紫乃さん、職員室まで来てください』
すると、授業の終了を知らせる予鈴に続いて、校内スピーカーから聞こえてくる紫乃からすれば聞き慣れた声。
「おや、何だろう」
「……ええ、そうね。今日は生徒会がない筈だけれど」
生徒会に所属していない咲玖からの視線に、紫乃はただ首を左右に振った。
月ごとの大まかなスケジュールを把握している紫乃だったが、これといった学院の用事は控えていない。
(何か緊急事かしら……?)
だから疑問でしかない。
「メンバー全員じゃないのって珍しいな」
「そうね。……ただ、行かないわけにはいかないわ」
「おう、頑張れ会長殿」
笑顔で手を振る咲玖に見送られながら、紫乃はおもむろに席を立った。
「失礼します」
放課後の喧騒を肌で感じられる中、紫乃は職員室の扉をノックする。
授業が終わって間もないというのもあって、空席が目立つ職員室内。そのお陰もあってすぐに紫乃を呼び出した教師を見つけることができた。
「お疲れ様、五百瀬さん。わざわざ呼び出してごめんなさい」
「構いませんよ、綯護先生」
年季の入った椅子を軋ませて振り返る、パンツスーツ姿の女性教師――綯護和歌。陰鬱な雰囲気とは裏腹に、吊り上がった目じりは神経質で高圧的な印象を初対面には与えてしまう。
ただ生徒会に所属し、会長という立場にいる紫乃からすれば関わりの深い顧問である。
伸ばした黒髪とは対照的に羽織る白衣姿だが、これといって担当する教科はない。
強いてあげるのであれば、生徒のメンタルケアを行うカウンセラーを務めている。
それに兼任するように生徒会の顧問をしているが、ほとんどの業務は紫乃が行っていた。
だから和歌の役割としては、学院側に今後の生徒会方針を伝えるというだけ。一応は紫乃から上がってくる資料に目を通し、学院側としての意見を交えながら生徒達がより良い生活を送れる案を一緒に練ってくれている。
「何か書類に不備でもありましたか?」
「ああ、それは特に問題ありませんでした。学院としてもすぐに対応してくれると思います」
直近で紫乃が報告した、多数の生徒から上げられたとあるご意見。
「本当に良いんですか? 内容としては購買部の廃止、それに伴った自動販売機の設置。せっかく出来立てのパンを提供してくれているOBやOGに申し訳ないと思うんです」
「それに関しても先方には理解していただき、より万全な安全性を確保できます」
ご意見としての、購買部の商品購入時の競争。
それによって大なり小なりと怪我人が続出、それは学院側としも看過できずにいた。何よりも購買部という立場から人気商品の不正入手、活動を理由として授業を抜ける生徒も多くいる状況。
これに関しては悪い風潮として今までも引き継がれており、暗黙の了解と化していた。
それを紫乃が正そうと動いた結果、購買部の廃止にまで至る。それに生じる生徒がお昼ご飯を混入する手段が減ってしまうことを懸念、焼きたてのパンを卸してくれている先方にも申し訳なく思っていた。
そんな問題を一挙に解決するため、和歌が何気なく口にした自動販売機を導入する案。
どういった繋がりが和歌にあり、業者と知り合えたのが不思議なくらい手続きはスムーズ。紫乃が生徒会長としての任期中には不可能と思っていた事を、半年もかからず実現させてみせた。
あくまで生徒主導での学院生活ではあるものの、しっかりと大人としてのバックアップ。
(……ホント、謎の多い先生よね)
学院側からの設置予定などを含めた詳細を手渡され、その資料に目を通す紫乃。
「要件とはこれだけでしょうか?」
「いや、これはついでだ」
「……ついで、ですか?」
一切表情筋の動かない和歌だが、声音から伝わってくる困っている状況という旨。
さすがに紫乃としても、見て見ぬふりはできなかった。
「私でよければ手伝いますよ」
「すまない。こうでもないと上手く周りに頼れないんだ」
「綯護先生って、不器用ですよね」
「……五百瀬さんには言われたくないかな」
同族嫌悪なのか、もしくは揶揄われる事を良しとしないのか。
席を立った和歌と向かい合うも、紫乃は臆するどころか肩を落とす。
「ですから、そういった態度だから怖がられるんですよ」
「……すまない。さっそく仕事をしてもらおうと思ったんだ」
「ええ、存じてます」
付き合いとしては一年と短いが、何かと言動がちぐはぐな和歌。
ついさっきも紫乃との雑談は勝手に自分の中で終わらせ、席を立とうとした時点で話題は別へと切り替わっている。
それに紫乃も最初は困惑したが、言葉通り意思疎通が不器用な教師。
「とりあえず資料室までついて来てくれるかな」
「……何か授業で使う資料でもあるんですか」
「……まぁ、似たようなものだ」
何やら後ろめたさを匂わせる和歌に、紫乃は小首を傾げた。
だからといって、ここで立ち話をするのも時間を無駄にしてしまう。何よりも、紫乃の方から手伝いを申し出ている。
これ以上の追及を紫乃はせず、和歌の後をついて歩いた。
「……で、これですか」
ついてきた先の資料室に広がる、机に紙の山が積まれている光景。
「先の案件で動き回っていたというのもあるが、資料だけはまとめていたんだ」
後ろ手で内側からの鍵を閉める和歌を、紫乃は露骨に肩を落として見せた。
「そんなに警戒しなくても逃げませんし、ちょうど良かったです」
「……例の妹さんとの件かい?」
紫乃が全てを語らずとも、口ぶりから察してみせた和歌。
さすがに何度も似たようなことで相談してきたというのもあるのだろう。紫乃も隠すことはせず首を縦に振った。
「まぁ、手を動かしながらでも」
「プリントは両面印刷で、左上の角をホチキスで留めてほしい」
手渡されたホチキスを受け取り、紫乃は机に置かれた紙の山と向かい合う。
「ちなみにこれ、いつ使うんですか?」
「明日の朝ある職員会議だ」
「綯護先生。長期休暇の課題とかって直前になって慌てて終わらせるタイプですか?」
「……それで、五百瀬さんの話って」
あまりにも強引な話題変更にも、紫乃は気にしない。
「今朝、ちょっと色々ありまして」
「公開告白の事だね。さすが生徒会長だ、相変わらずの人気じゃないか」
まさかの教師までにも知られている事実。
開いた口が塞がらない紫乃だったが、すぐに本題へと切り込んでいく。
「……人気かどうかは周りの印象です。私としてはその場に妹がいたということなんです」
「ふむ、何が問題なんだい」
一枚ずつ丁寧に紙を手に取り重ねていく和歌を、紫乃は穴が開く程に凝視する。
「いや、妹の前ですよ? フツー誰だって嫌じゃないですか?」
「すまないが私はそういった事とは無縁でね、よく分からないんだ」
そう口では言うが、紫乃は知っている。
恋多き女生徒とどころか、多感な男子生徒の数少ない相談相手を担う。その大半は恋愛絡みで、和歌なりに助言を与えて背中を押してあげているという事。
実際にその立場で相談をしたわけではないが、そういった和歌の噂を耳にしていた。
それもあって生徒の中では人気で、見た目とは反して慕われている。
「五百瀬さんの場合は家庭の問題だが、聞いてきたかぎりではそうとも言い切れないと思うんだ」
「……どういうことですか?」
カチンとホチキスで左上を留め、さっそく一部の資料を完成させる。
「相手は妹さん。相談内容としては、その妹さんに告白現場を見られたという事だ」
「……ええ」
「そこに何の問題がある?」
「……え」
「だってそうだろ?」
重ねた資料を整えるために机を台にして、和歌はホチキスで左上を留める。
「姉の恋路を邪魔する妹さんなのかい? むしろその逆で見られたことへの羞恥、いいや、この場合は罪悪感を抱いているように思える」
次の資料を纏めようと、和歌は紙の山に手を伸ばす。
(私が莉乃に、罪悪感?)
そんな和歌の言葉に、思考を巡らせながら手を動かす。
「五百瀬さんの悪い癖だよ。頭で必死に考え続けるのもいいが、口に出すことで纏まることもある」
まるで紫乃の内側を見透かしたような、和歌の淡々とした口ぶり。
「ならこれは独り言になりますけど、綯護先生は聞いていないという事でいいんですか?」
「形としてはそれでいいだろう。もしそれで五百瀬さんの中で引っかかることがあれば訊く、それに私なりの意見を返していく」
「ええ、あくまで独り言ですけど……」
これまでは莉乃の名前をだし、率直な意見を求めてきた。
だから今回も、莉乃には見られたくない光景をみせてしまったという事実。それから生じる、莉乃がさらに自身を避けてしまうのではという不安があった。
いつからか莉乃が避けるような態度をとり始めたかと思うと、ガラリと校則を破るような容姿に変貌してみせている。
それが今でも続き、莉乃なりに無言の拒絶をしているのだと受け取ってきた。
それもここ最近、多少なりの変化があった手ごたえを感じている。
そこに横やりという公開告白。
今まではそれを親友が未然に対処し、その場に莉乃が鉢合わせないような対応をしてくれていたのだと知った。
(……物は試しよね)
和歌の方から作業を手伝ってほしいからと呼び出しておいて、まるで紫乃の存在を気にせず手を動かしている。
そんな和歌の姿に、紫乃はおもむろに口を開く。
「私にとって莉乃は大事な妹です。家族だからというのもありますけど、物心つく前から一緒にいて、こうして育ってきました」
手持ち無沙汰でホチキスをカチカチとさせながら、紫乃は続ける。
「姉だからという立場もあってしっかりしないととか、尊敬できる姉でいようと頑張ってます。ま、家の事は全部任せっきりですけどね」
「家庭的な妹さんだ」
「……。ええ、そうですね。それもあって勉学に集中できましたし、少しは莉乃の自慢に慣れてるんじゃないかって思うんです。……そう、思いたいんです」
気づけば手にしていた資料の一部にシワが寄っていた。
「何が五百瀬さんを不安にさせている?」
どうにかシワを伸ばそうとする紫乃だったが、和歌は気にした素振りもない。
「……このまま、莉乃のしたいことを私が我慢させてるじゃないかって思うんです」
「我慢?」
紫乃はつい数日前に起こった一件を思い返してしまう。
「それも多少の勘違いだったんですけど、やっぱり恋愛ともなると別じゃないですか」
カチンとホチキスで留める音が返ってくる。
「莉乃は必死に家の事も含めて、私のためにも頑張ってくれている。それなのに私だけ勉強に恋愛って、学生としてはありふれた青春を過ごそうとしてるんです」
一度言葉を区切り、和歌へと視線を向ける。
「それって、ズルくないですか?」
それからしばらく無言の時間が流れるも、和歌は一向に顔をあげるどころか言葉を発しない。
ただ淡々と作業に徹し、手を動かし続けている。
(……まぁ、そういう約束だものね)
それでも多少なりと自身が抱えていた問題が浮き彫りとなり、気持ちが軽くなった。
「だから莉乃に恋人ができるまで、私も恋愛に現を抜かすことはしません」
気づけば積み重なってきた、ホチキスで留めた完成した資料の山。和歌と二人で作業しているのもあって進みが早いのか、終わりが見え始めた。
「それこそ、悪循環じゃないかな?」
和歌はホチキスどころか、途中まで纏めていた資料を手放した。
それはまるで仕事放棄のようだが、視線だけは紫乃を向いている。
「五百瀬さんは妹さんのことを想い過ぎている。それは逆も然りで、妹さんも五百瀬さんの事を想い過ぎてるかもしれないね」
「莉乃が……私を?」
あまりにも予想外の言葉に、紫乃も作業の手を止めてしまう。
「姉妹というだけで考えが似るのか、もしくはそういった環境で育ったのか。……ホント、聞いているだけで色々と勉強になる」
「……何が言いたいんですか?」
険のある紫乃に対して、和歌は態度を崩さない。
「一つの可能性として、妹さんも同じことを考えてるんじゃないかってことだよ」
「莉乃が私に恋人を作ってほしいってことですか?」
「いや……あ~と、それも含めてなのかもしれない」
言葉を探すように、和歌は目もとを細める。まるで紫乃を睨みつけているようだが、和歌なりに考えている証拠。
「私は五百瀬さんの妹ちゃんだから真相はわからないけど、本当に嫌なことがあれば人間は何でも投げ出してしまうんじゃないかな」
「それは、あまりにも無責任じゃ……」
「実際、私もこの作業を一人でというのは億劫でね。こうして五百瀬さんに手伝ってもらっている」
「はあ」
さっきの言い訳も含めて和歌の本音を垣間見た瞬間、紫乃は生返事しかでなかった。
「けど妹さんは投げ出すどころか、毎日欠かすことがない。……それは偏に、誰かのことを大事に想っていないとできない行為じゃないかな」
その問いにすぐ応えられなかったが、紫乃としても心あたる部分があった。
「何よりもさ、今すぐに答えをだす必要もないんじゃないのかな?」
休めていた作業の手を動かしだす和歌。
「綯護先生。後、任せてもいいですか」
「こっちこそ、手伝ってくれて助かったよ」
おもむろに席を立つ紫乃を、和歌は目線だけで見送る。
それに紫乃は一礼して、資料室を後に教室へと向かった。
(この時間、莉乃の事だからもう帰ってるわよね)
決して廊下を走ることはなくも早足で、階段は一段飛ばしでスカートの裾が翻ってしまうのもお構いなし。途中ですれ違う生徒とは挨拶を交わすも、一切目もくれることなく歩みを止めない。
どこから聞こえてくる会話を耳に、まだ校舎内に莉乃がいないかと周囲を見渡した。




