第三話:好きと嫌いの裏返し~ほんの些細なすれ違いでも一大事~7
朝の早い時間に登校というのもあって、逢籃学院の敷地内は静けさを保っていた。遠くからは朝練に精を出すかけ声が聞こえてくるも、紫乃と咲玖の周りには人の気配がない。
「それで、他にも何かあったんでしょ?」
「……貴女には隠し事が出来なさそうね」
「どれだけの付き合いだと思ってんの?」
誇るように胸を張る咲玖に、紫乃は観念したように肩を竦めた。
◆ ◆ ◆
「……ん?」
微かな話声を耳に、紫乃は薄っすらと瞼を開いた。
最初は気のせいかと閉じかけた瞼だったが、近所迷惑もお構いなしの大きな声。聞き慣れたどころか、それが誰なのかはすぐに分かった。
(お母さんってば、また飲んで帰ってきたのね……)
微睡む意識の中、そんな五十鈴に紫乃は寝返りを打つ。
起床するにはまだ時間もあって、多少の事なら目を瞑ろうと掛布団をかぶり直す。
ただそれも束の間で、莉乃の叫ぶような大きな声も聞こえてくる。
「……もぉ、莉乃まで」
それに呆れて紫乃は起き上がり、ベッドからゆっくりと這い出た。
そのまま扉を開けると、莉乃と五十鈴の元気な会話がハッキリと聞こえてくる。
「まぁ、親子といえばそうなんだけど……」
その長女ではあるも、さすがにTPOは弁えている。
起き抜けだった紫乃の意識は徐々にハッキリとしていき、リビングに着く頃にはいつも通り。
「……お母さん?」
玄関先に転がる母親の鞄を横目に、リビングの扉に手をかける。
「あ、しーちゃんが起きてきた」
朝から元気過ぎるというか、お酒が抜け切れていない陽気な五十鈴の姿。テーブルには朝食が用意されていて、それを食べようとしていたようだ。
だが、五十鈴が準備をしたわけではないのだろう。
(……莉乃は?)
視線だけを左右に動かしつつ、五十鈴と朝の挨拶を交わす。
「おはよう、お母さん」
「はぁ~い、おはようしーちゃん」
「……一人?」
「りーちゃんも……あれぇ~?」
そう尋ねると、五十鈴も不思議そうに首を傾げた。
その角度があまりにも大げさすぎて、五十鈴の酔い具合が目に見える。
「もぉ、お母さんってばまた飲んで帰ってきたの?」
「いいじゃぁ~ん、たまの休みなんだよ」
「確かにそうだろうけど、少し声を抑えてね。二階まで聞こえてるから」
「はぁ~い、しーちゃんにも怒られたぁ~」
どうやら莉乃には既に怒られた様子だが、今の五十鈴に何を言っても無駄でしかない。
ただそれも、家族ならではのコミュニケーション。
「とりあえず私も顔を洗ってくるから、お母さんも食べたらそのまま寝ないでよ」
「合点承知の助!」
迷惑だと指摘してすぐ、大きな声を発しながら敬礼する五十鈴。
そんな姿に呆れを通り越して清々しくもあり、親ながら反面教師として見習いたいものだと考えさせられる。
(お水くらいは注いでおこうかしらね)
テーブルにはお粥と、昨晩も食べたお浸しがある。
胃には優しくも、必要なのは水だと感じられた。
気を遣ってキッチンに足を運ぶと、隅っこで膝を抱えている莉乃の後ろ姿。身を包むモコモコの白い寝間着のせいもあってか、肉食獣に怯える草食動物かと錯覚してしまう。
例えそうだったとしても五百瀬家では、そんな大きなペットを飼っていない。
リビングには母親である五十鈴、そして紫乃自身。他にいるとした妹の莉乃しかいない。
「……莉乃、そんなところで何してるの」
あまりにも不自然極まりなく、お腹でも痛いのかと心配してしまう。
「な、何も? 朝ご飯作ってたんだけど、床に何か落としちゃって」
「……その体勢で探せるの?」
「うっ、うん!」
誰だって物を落とすことは有れ、莉乃の体勢からして可笑しい。
第一に五百瀬家のキッチンは床と台の隙間はあまりなく、箸が一本転がって入る程度。サイズが大きい物であれば落としたとて、足もとに転がっているだけに留まる。
(もしかして、指でも切ったのかしら?)
どこか上擦った莉乃の声音は、明らかに何かを隠している様子。
それを紫乃にバレたら心配、もしくは不安にさせてしまうような事が起きている。
だから顔をみせるどころかキッチンの隅っこで膝を抱え、ピクリとも動かないのかもしれない。
様々な可能性が紫乃の脳内を駆け巡り、一つの行動へと踏み出させる。
「やっぱり変よ。莉乃、何かあったんでしょ」
姉として、妹への純粋な想い。
いつからか避けられるようになりながらも気にかけ、常に頭の片隅にいる大事な存在。時おり姿をみかければ目で追い、元気そうに過ごす姿に安堵する。
例え遠くに離れていったとしても、目には見えない繋がりがある。
そう、紫乃は信じ続けている。
「そ、そんなことないよ。か、顔、洗ってきたら?」
「ええ、莉乃に何もないことがわかったらね」
普段からすれ違ってばかりどころか、露骨すぎるほどに生活サイクルがズレている。
こうして会話を交わすことすら珍しく、紫乃としても少しでも長く過ごしたいと思ってしまう。
「ほら、こっち向きなさい」
紫乃が一歩近づくと、その後ろ姿はさらに小さくなろうとする。
(こんな莉乃、初めてみるわね)
戸惑いながらも紫乃は莉乃の後ろにしゃがみ込み、粘れば振り返ってくれるのではという淡い期待を抱く。
「む、むり」
左右に揺れる頭部。
まるで駄々っ子のようで愛らしい。
「どうしてよ」
それに対して優しい声音で問いかける。
たったそれだけ、短い言葉のやり取りに気持ちが満たされていく。
「ど、どうしてもだよ」
それもやり過ぎれば嫌われる原因になり、決意染みた覚悟を曲げようとは思わない。
(……今日のところはここまでにしておこうかしらね。嫌われたくないし……)
リビングにいる五十鈴のことも気になり、紫乃は静かに立ち上がる。
「……そう、そんなに私と顔を合わせたくないのね」
「ち、違うよ!」
莉乃の必死に何かを訴える叫ぶ声。
ついさっきまで五十鈴との会話で何度か似た声音は耳にしたが、それとはまた異なる莉乃の感情。
咄嗟のことに驚きつつも、紫乃は微かに口角をあげる。
(もう、今日も変わらず可愛いわね)
いつもはメイクが施された莉乃の顔ばかり目にしている。
だから素顔、本当の意味での莉乃を前に頬が緩んでしまう。
「おはよう、莉乃」
「お、おはよう。しー姉さん……」
ほんの一瞬、紫乃は莉乃と目が合った。
だがそれもすぐに逸らされ、バツが悪そうに顔を俯かせてしまう。
(……特に、何かがあったわけじゃなさそうね)
それだけ確認できた紫乃は、内心で胸を撫で下ろすほど安堵した。
「顔、洗いに行くんじゃないの」
莉乃の体勢からして見上げるような、リビングでの五十鈴との会話を耳にしていたからの抗議的な視線と口調。
朝から不機嫌さを露わにする莉乃に、紫乃は顎に手を当てる。
「ええ、そうね。……ただ、少しね」
滅多にない、莉乃との時間。
昨日の放課後に考え、一向にでなかった莉乃との今後について。
(もう少しくらい、良いわよね……)
スッと目もとを細めて、改めて莉乃を見据える。
寝起きの紫乃と違って色身の薄い地肌。これからメイクを程ことすら勿体なくもあり、作り込まれていくことを考えるとケアに余念がなく感じられる。
メイクに関して疎い紫乃でも、莉乃の目に見えない努力を目の当たりにさせられた。
ただ単に、何をしなくても可愛いというのを前提に。
それをさらに強調させる白の寝間着姿というのも、紫乃は目を見張る。
まるで汚れることすら厭わない、むしろそんな事態を想定していない恰好。エプロンでもしていれば汚れることを気にするのだと認識できたが、そんなことお構いないどころか常に立ち続けた自信に溢れている。
キッチンに立つ機会が少ない紫乃からすれば、尊敬できる一面。
「特に変わりがないようで良かったわ」
「ッ!?」
何気なく発した紫乃の言葉に、莉乃は少しだけ驚いたように瞳を丸くさせる。
「特に変わりがない?」
「……莉乃?」
ゆっくりと立ち上がった莉乃に、紫乃は不思議そうに小首を傾げる。
(雰囲気が変わった?)
さっきまで何かに警戒し怯えていた素振りのない、好戦的な視線。
今まででみたことのない莉乃の変化に、紫乃は目を見張った。
「しー姉さん、さっきなんて言ったの?」
唐突な問いに、紫乃は眉間にシワを微かに寄せた。
「……『特に変わりがない』と言ったわ」
ただ時間にして数秒前の会話。
すぐに自身が発した言葉を繰り返し莉乃に伝える。
「どこからどうみても変わってるでしょ!!」
これまで誰かと接してきた中で、今までに聞いたことのないヒステリック。それがまさか妹、莉乃が発し聞かされるとは思ってもみなかった。
リビングにいた五十鈴の方も驚いたようで、何やら物音が聞こえてくる。
だが紫乃は、そんなことを気に留めるほど余裕がなくなっていた。
「しー姉さんからすれば変わりなくみえるかもしれないけど、私がどれだけ……どれだけっ……」
莉乃の泣く姿。
それだけで頭の中を真っ白にさせられる紫乃。どれだけ勉強が出来ようとも上手い言葉がでてこないどころか、ただただショックでしかなかった。
目じりに溜まる涙を拭う莉乃が脇を擦り抜け、キッチンを後にしていく。
それに数舜遅れて気づく紫乃だったが、伸ばした手は空を切る。
「莉乃!?」
「りーちゃん!?」
リビングの扉が勢いよく閉められ、二階へと遠ざかっていく駆けるような足音。
咄嗟に紫乃は後を追おうとしたが腰が抜け、その場に座り込んでしまう。
(……私が、莉乃を泣かせた?)
その事実に胸が締め付けられるような、空気が薄く呼吸のしづらさに頭も回らない。
「しーちゃん、大丈夫」
「……お母さん」
声がした方を見上げれば、心配そうに顔を覗き込んでくる五十鈴の姿があった。
急に飛びだしていった莉乃を追いかけず、紫乃へと近づいてくる。
……いや、本当は莉乃の方にだって向かいたいはずだ。
それでも五十鈴は一人しかいない。
大切な娘は二人。
どちらかを一方的に優先するでもなく、母親として平等に接する。
「わ、私……何か、何か莉乃を怒らせるような事……」
だからこんな時でも、頼りになる五十鈴。
「りーちゃんも難しい年ごろだから、お母さんにはわからないかな」
だが五十鈴からの、事情を知っていながらも諭すような口ぶり。
「……そう、なの?」
「……ごめんね」
それでも縋るように見据えるも、五十鈴は柔和に微笑みを浮かべる。
「けど、大丈夫! しーちゃんとりーちゃんは姉妹なんだもん」
「……何それ」
五十鈴に背中を支えられるように手を添えられ、紫乃はゆっくりと立ち上がって椅子に腰かける。
「さてと、朝ご飯の続き」
それから莉乃の部屋へと向かうと思いきや、五十鈴は朝食を食べ始めるではないか。
「莉乃は、いいの?」
そんな姿に、紫乃は怪訝してしまう。
「うん、これ食べたらね」
そんな紫乃の気持ちを知ってか、五十鈴は陽気に答えた。
(……莉乃)
胸の中にぽっかりと穴が開いた感覚に陥りながら、紫乃はいつものように登校準備をしていく。莉乃の部屋を前に脚が止まりそうになるも、どんな顔をして合えばいいのかわからない。もしかしたらまた泣かせてしまうのではという恐怖から、紫乃は足音を忍ばせるのだった。




