第三話:好きと嫌いの裏返し~ほんの些細なすれ違いでも一大事~6
朝、莉乃はいつも通りの六時に起きた。
この時間に紫乃が起きてくることはなく、莉乃がスッピンでも自由に動ける。
ただそれでも、細心の注意を払って自室を後に洗面所へと向かう。
「……っ!?」
だが、その道のり。
階段を下りてすぐの玄関先、射しこむ朝日に照らされる謎の物体。何やら低く呻き声を発しながら、蠢き倒れている。
咄嗟に叫び声を発しそうになった莉乃だったが、五百瀬家ではよくある光景。
「お母さん……そんなところで寝ないでよ……」
「ん~」
呆れの混じった声音で近づき、莉乃は母親である五百瀬五十鈴の肩を揺らす。
何度揺すっても起きる気配はなく、だからといって莉乃は人ひとり運ぶ力はない。
(こんなになるまで飲まなくても……)
あまりにもみっともない母親の姿を前に、莉乃はその場にしゃがみ込む。
「ほ~ら、朝ごはん作ってあげるから起きてよ」
「りーちゃんの朝ご飯? 食べるぅ~」
呂律の回っていない五十鈴だったが、ゴロリと仰向けになって上機嫌にバンザイしてみせる。
ただ、起き上がる様子がない。
あともうひと踏ん張りか。
「そんな姿、しー姉さんに見られたら怒られるよぉ~」
「ん~しーちゃんの怒りんぼぉ~」
実際にはそんなことは一度もないのだが、紫乃も五十鈴のことは気にかけている。
酔っ払っているのもあって五十鈴の声は大きく、朝の玄関先によく響いた。
(もぉ~しー姉さんが起きちゃうじゃん!)
どうにか上体を起こした五十鈴の脇に両手を入れ、強引に立ち上がらせる。
「もぉ、お母さんってば騒がないで。近所迷惑になるでしょ」
「りーちゃんにも怒られたぁ~」
メソメソと泣き始める五十鈴に、莉乃は短く息を吐く。
「いつまでもこうだと私、朝ごはん作れないんだけど」
「それは困るぅ~」
ようやく自力で立ち上がる五十鈴に、莉乃は足早にキッチンへと向かう。
「はい、お水。あと上着、脱がないと皺になるから」
「はぁ~い」
どこか覚束ない足取りでリビングのソファへと歩く五十鈴を横目に、莉乃は急いで洗面所へと向かった。
これ以上構っていたら朝食を作る時間もなく、紫乃が起きてきてしまう。
未だ顔を洗うどころか、スッピンの状態。さすがに合わせる顔がない。
何やらリビングから呼ぶ五十鈴の声を無視しながら、莉乃は蛇口に手をかける。
(あとは部屋でやればいっか)
最低限の洗顔、スキンケアだけを済ませてリビングへ。
こんな姿を紫乃には見られたくないのだが、今は緊急を要する。
「だ・か・ら! そのまま寝ないでよ、お母さん」
莉乃の予感は辺り、リビングのソファでうつ伏せになって眠る五十鈴。今度こそ起きる様子もなく、身動ぎ一つなく規則的な寝息をたてている。
「はぁ……まあ、匂いにつられて起きてくるでしょう」
腰に手を当てる莉乃は、気持ちよさそうに眠る五十鈴を見やる。
母子家庭という環境化、一人で二人の娘を養い続けてくれている。あまり自由な自分の時間もなく日中夜と働いているのは知っていて、少しでも助けになればと始めた家事。
そのお陰もあってか夜勤明けともなると、駅前で朝までやっているバーで飲んで帰ってくるようになった。
だから懸念していた自由な時間ができたのは良いが、この体たらくだ。
良いのか悪いのか判断に困らされる。
今となっては日常と化し、莉乃がとやかく言うことはない。
第一目的は、朝食作りだ。
一日の始まりとしては大事で、紫乃のためを想うと手が抜けない。
「お母さんのはいつものでいいとして、今日は……」
冷蔵庫を開けて、莉乃は固まった。
(……あれ、昨日の夜に作り置きしておいたおかずがない?)
空っぽというほどでもないが、莉乃の予定にない現象が起きている。辛うじて今日のお弁当には手をつけられていないようで、作為的なものが感じられた。
「お母さん、出勤前に食べてったな……」
もちろん夕飯も作っておいたのだが、物足りなくなって冷蔵庫の中を漁ったのだろう。そこに莉乃が朝食用に作り置きおかずがあり、つまんだに違いない。
数日前に買い溜めしておいた鮭の切身を解凍し、それを味醂醤油に漬けて置いたのだ。ただ焼いて、その後にタレを絡めるのでもいいのだが、莉乃のこだわりが滲み出ていた。
それを朝食に焼いて、お浸しや卵焼き。ご飯に味噌汁というメニューにしようとしていた。
まさかここにきて、その計画が破綻させられるとは……。
「どうしよう、今日買い出しに行くつもりだったから何もないや……」
メインとなるおかずがなくなり、あまりにも寂しい朝食。何かないかと冷蔵庫、冷凍庫を漁るも、目ぼしいものが見当たらない。辛うじて味つけしたひき肉があり、解凍すれば二色丼は出来上がる。
ただ、朝から胃に負担をかけないだろうか。
「りーちゃぁ~ん、ご飯まだぁ~」
「……ホント、自由なんだから」
声がして振り向くと、未だに上着を脱いでいない五十鈴の姿が。まるで幼い子供のようにご飯を強請り、莉乃に催促してくる。
仕方ないと思考を切り替え、莉乃は一度冷蔵庫の前から離れた。
戸棚からパックのご飯を取りだし、電子レンジで温める。それに少しだけ水を咥えておかゆ状に、それをお茶碗に移して梅干を乗せるだけ。
「お浸し! あれも食べたい!」
「もぉ~少しだけだよ」
ここで全部食べられたら、紫乃の分がなくなってしまう。
ただ、出さないというのも五十鈴が騒ぎかねない。
(どっちが面倒見てあげてるのやら)
大人しく席に着いている五十鈴の姿に、莉乃は苦笑するのだった。
「いっただきまーす」
「はい、召しあがれ」
元気よく両手を合わせた五十鈴は未だお酒が抜け切れていないのか、声のボリュームが調整できていない。
そのせいもあってか、微かな物音に莉乃は気づかなかった。
「……お母さん?」
(ッ!? しー姉さん!!!?)
時計を見ると、既に紫乃が起きてきてもおかしくない時間になっていた。五十鈴の声で早く起きてしまった可能性もあったが、莉乃はそれどころじゃない。
寝起きの紫乃。
それは家族だからみられる一面でもあり、気を許せる間柄ともいえる。
莉乃としてはいつも完璧に着飾った自分を紫乃には見てほしくて、毎日念入りに時間をかけていた。
だが今は、ほぼ手抜き状態。
時どきお風呂上がりをみられることはあるのだが恥ずかしく、普段とのギャップに引かれていないかと心配にもなる。
素の自分では、勇気をもって向き合えない相手。
それくらい、莉乃にとって紫乃は特別な存在。
近づいてくる足音に辺りを見渡すも、リビングから出るには一か所しか扉がない。今出たところで紫乃と鉢合わせてしまい、隠れようにもそれほど広いリビングでもなかった。
「あ、しーちゃんが起きてきた」
片や五十鈴は、上機嫌といった様子で両脚をバタつかせていた。
「おはよう、お母さん」
「はぁ~い、おはようしーちゃん」
リビングの扉が開き、紫乃の声が聞こえてくる。
その間に莉乃はキッチンの方へと隠れ、息を殺すように膝を抱えていた。
「……一人?」
「りーちゃんも……あれぇ~?」
(お願いお母さん、私のことは今だけは忘れて……)
「もぉ、お母さんってばまた飲んで帰ってきたの?」
「いいじゃぁ~ん、たまの休みなんだよ」
「確かにそうだろうけど、少し声を抑えてね。二階まで聞こえてるから」
「はぁ~い、しーちゃんにも怒られたぁ~」
(やっぱりお母さんの声で起きてきちゃったかぁ~)
二人がどんな表情をしているかわからない莉乃だったが、何となく想像できてしまう。
「とりあえず私も顔を洗ってくるから、お母さんも食べたらそのまま寝ないでよ」
「合点承知の助!」
二人の娘から近所迷惑だと指摘されているにもかかわらず、未だ上機嫌な五十鈴の返事がリビングによく響いた。
そんな中でも聞き逃さなかった、紫乃の一言。
(よし、しー姉さんが顔を洗いに行っている隙に……)
朝食に関してはほったらかしになってしまったが、莉乃にも譲れないモノがあった。
「……莉乃、そんなところで何してるの」
だが、莉乃の目論見は呆気なく散っていく。
咄嗟のことに驚き、声をかけられたことに振り返りそうになった。だがそれをどうにか耐え、膝を抱えて背中を向けたまま対応する。
「な、何も? 朝ご飯作ってたんだけど、床に何か落としちゃって」
「……その体勢で探せるの?」
「うっ、うん!」
あまりにも正論を突きつけられ、莉乃の声は上擦ってしまう。
(お願い、お願いだから近づいてこないで!)
今日に限って嬉しいこと尽くしの莉乃だったが、満喫するほど心に余裕がない。
背後には立ち去る様子のない紫乃の気配を感じつつ、膝を抱えたまま動けないでいた。
「やっぱり変よ。莉乃、何かあったんでしょ」
「そ、そんなことないよ。か、顔、洗ってきたら?」
「ええ、莉乃に何もないことがわかったらね」
すると、近づいてくる足音に背筋が震えた。
「ほら、こっち向きなさい」
「む、むり」
「どうしてよ」
「ど、どうしてもだよ」
すぐ後ろ、振り返ればそこに紫乃がいる。
だけど今の莉乃は、一番顔を合わせたくない存在。
(こんな姿、しー姉さんだけには見られたくないよ~)
つい数十分前、自分が下した判断の甘さを呪いたくなる。
「……そう、そんなに私と顔を合わせたくないのね」
「ち、違うよ!」
どこか寂し気に呟いた紫乃の声音に、莉乃は反射的に振り返ってしまう。
紫乃と目がバッチリと合ってしまい、今さら隠しようのない莉乃の素顔。
あまりに莉乃の声が大きかったからか、紫乃は驚いたように瞳を丸くさせる。だがそれも一瞬で、柔らかな笑みを莉乃へと向けた。
「おはよう、莉乃」
「お、おはよう。しー姉さん……」
ちょっと気まずい空気感の中、莉乃と紫乃は黙り込む。
「顔、洗いに行くんじゃないの」
先に口を開いたのは、莉乃だった。
「ええ、そうね。……ただ、少しね」
その場にしゃがみ込んだままの莉乃を見下ろし、紫乃は顎に手を当てる。
(ああ、寝起きのしー姉さん! なに? 何を食べたらそんなに凛とした雰囲気が保てるの!?)
大半の食事を作って振舞う莉乃だったが、今はただ紫乃の姿に魅入っていた。
学院での様子と一切変わりなく、誰からも憧れの念を抱かれる存在のまま。そんな姉を持つ莉乃としても鼻は高くもあったが、その人気ぶりに複雑な気持ちもあった。
「特に変わりがないようで良かったわ」
「ッ!?」
安堵したように発した紫乃の一言が、莉乃の琴線が触れた。
「特に変わりがない?」
「……莉乃?」
ゆっくりと立ち上がった莉乃に、紫乃は不思議そうに小首を傾げた。
(その仕草もちょ~おぉ可愛いけど、え……さっきなんて言った?)
莉乃は紫乃のことを見据える。
「しー姉さん、さっきなんて言ったの?」
そんな言葉の意図を理解するため黙る紫乃だったが、莉乃の心中までは察しられない。
「……『特に変わりがない』と言ったわ」
「どこからどうみても変わってるでしょ!!」
悲痛でヒステリックに近い莉乃の叫び声に、リビングの方から五十鈴の驚く声と食器を落としたような音が聞こえてきた。
その反面、紫乃はただ黙り込んでいる。
「しー姉さんからすれば変わりなくみえるかもしれないけど、私がどれだけ……どれだけっ……」
気づけば目じりに滲み始めた涙を拭い、莉乃はその場から逃げるように走っていた。
「莉乃!?」
「りーちゃん!?」
リビングから聞こえてくる二人の呼ぶ声を無視して、莉乃は自室へと逃げ込んだ。
後を追ってくるような気配がないことに嬉しい反面、こみ上げてくる仄暗い感情が胸の中を蟠る。
(しー姉さんのバカ……)
扉に背中を預けるように抱えた両膝に顔を埋め、しばらくその場から動けなかった。
◇ ◇ ◇
「とま、そんなことがあって」
あくまで紫乃とちょっとだけ口論になっただけと伝えたが、秘めている想いまでは知られたくない。
莉乃の話を半分おかずに、お弁当を平らげていた杏莉。未華に限ってはまるで興味がないのか、スマホを片手に菓子パンを小さな口で頬張っていた。
「何というか、難しいよな莉乃って」
「まぁ~しょうがないよねぇ~」
「何が!?」
まるで莉乃の心、紫乃への抱く感情を見透かしたような口ぶり。
気づけばお昼休みも半分が過ぎていて、一切お弁当に手をつけれていない状況。そのことに慌てて開き、莉乃は眉根を寄せた。
「お弁当、間違えた……」
そんな莉乃の一言に、杏莉と未華は呆れるのだった。




