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目が覚めたのはちらちらと眩しく瞬く何かがあったからだった。そして異臭に気が付く。
瞬きをして目を開けてみれば、穏やかな光が木の葉の隙間を通して風に揺れるがままにこぼれてきていた。
「……生きてる?」
ふいと口をついてでる。光は天国のようだったが、あたりの喧騒は修羅の地だった。
異臭も、爆ぜる木の音も、どこから聞こえる人々の声も、すべて天国とはとても言えない。
「起きたかね」
声をかけてきたのはエイダン・クインだった。そしてギャビーは自分が野原の草の上に寝かされていることに気が付いた。
「先生」
「起き上がらなくていいよ」
それでもギャビーは身を起こした。日はもうすっかり高くなっていた。そして唐突に目に入ったのは炎上する首飾り城だった。
「燃えて……!」
ギャビーは息を飲む。
「深夜に火事が起きたんだ。ローレンス様についていた私が気が付いた時にはもう火の手は一階の図書館から玄関側にひどく広がっていてね。私も這う這うの体で逃げ出してきたんだ。そうしたら玄関先で倒れている君を見つけた」
どくんと心臓が跳ね上がる。どうして自分が生きているのだろう。
「ローレンス様のご遺体は運び出せなかったし、逃げおくれた使用人も多そうだ。ケネスとも行き会えていないよ。それにオスカー様とモルも見つかっていない」
ギャビーはその言葉に指先を震わせた。けれど不用意な一言を発する気はない。
アデラインに殺された者たちもその原因となったオスカーとアデラインも、すべては炎の中だというのか。
「イライザ達は!」
ただそれだけは口をついて出てしまった。
「無事だよ。ロバートとリンダはイライザがちゃんと救い出したようだ。気が付いたら炎に巻かれていたと言っている。ロバートが『怪物を見た』と騒いでいて、よほど火事が怖かったんだろう。今イライザは警察と話している」
イライザは本当のことを話していないのだと気が付く。
あたりを見回してみれば町の住人や警察、消防団などが集まっている。しかし火の勢いが強く火事に対してできることはない様だ。
「ギャビー!」
呼びかけてやってくる人影が見えた。ギャビーは膝を抱えて彼を見上げた。
「ギャビー、モルを見なかったかい!?」
すごい剣幕で問い詰めてきたのはランディだった。まだ昨日の不調もあってか顔色は悪いが起きることができるようにはなっているようだ。
「ランディ、無事だったのね」
「気が付いたら部屋が煙に巻かれてきて。なんとか二階から壁伝いに飛び降りたんだ。部屋にはモルがいなかった。見なかったかい?」
ギャビーは彼を見上げる。
……モルは去ったのだ、と確信した。
それからゆっくりを首を横に振った。
「ごめんなさい。わたしも部屋に居て、気が付いたら煙に巻き込まれていたの。よくわからないわ」
ランディが落胆もあらわに座り込んだ。エイダンが慰めの言葉をかけ、ランディの肩に手を添える。
「……どうして僕が好きになる相手は皆……」
モルは気が付いたのかもしれない。
ランディはミアを愛していたかもしれないが、それでも彼もまた家に勝てない人間だったのだ。シナバーを厭う父とルヴァリスを説き伏せることはしなかった。
モルは彼の妻になれるかもしれないが、オスカーがいない今ランディの妻への判定の視線は厳しいものになる。
もしモルの正体がばれたとき、彼は確実にモルを見捨てるだろう。彼女は聡い女だったから、自分の都合の悪い世界に執着などなかったのだ。いっそ潔い。
……ミアはランディの肩書に恋をしたわけではなかった。本当に彼女はあなたを愛していたのに。
ぞわぞわと押し込みきれない感情が沸き上がる。
今まで見極めることが出来なかったが、ギャビーはついにその自身の感情を捉えた。
一度深呼吸をして、そしておくびにも出さす、ただ地に膝をついて突っ伏すランディを尻目に立ち上がった。
騒がしい屋敷の方向に背を向けて、ギャビーは崖に向かって歩き出した。喧騒が遠ざかり波の音が近くなる。
眼下の海は夜明けだ。淡い朱色と蒼が混ざり合い、夜の濃紺が遠くに消えていく。ギャビーは隣に立ったのがエイダンだと気が付いた。
「……先生」
ギャビーは問う。アデラインに立ち向かう中で見つけた今の自分の瞳の色を。
「わたしとミアに、先生は何をなさったのですか」
ぴくりとエイダンは身をこわばらせた。
「……君の瞳の色は?」
「左は青。右も青」
そして付け加えた。
「でも右には一か所、朱色が滲んでいます」
「見えたのか……」
エイダンの声は吐息だった。
そうだ。
目だ。
誰もかれもが「ミアにそっくりね」と言う。それは顔ではなくてこの右目を見ていたのではないか。
親が言わなかったのはシナバーである以上ミアではなくギャビーだと理解せざるをえず……そして目を見ることもなかったからだ。
エイダンは上着のポケットを漁った。ギャビーの右手を取り、そして取り出した小さなものを掌に載せる。
それは大きなサファイアが付いた指輪だった。
「……ミアが受け取ったものですね」
あの事故の日も、彼女はつけていた。ランディからの婚約指輪だったのだ。事故の後見つからず、そしてランディがモルに与えようとしてわざわざギャビーを屋敷に呼んでまで探したものだった。
……これをエイダンが持っているということは、彼は事故の後でミアと接触している。
「……ミアは死んだのね」
ギャビーの口からこぼれたのは紛れもない真実だった。自分でも真実だと確信して言えた。
「君の心は壊れているのかもしれないと。だからミアの死を言えなかった」
エイダンはためらいながら言った。
「……見えるべきものが見えなくなっていたから?」
自分自身の姿すら正確に見ることができなかったのだ。
ミアが嬉しげに見せてくれた、そしてランディがひそかに探していた指輪が今ここにある。ならば、それをつけていたミアは。
「あの日」
重い口調でエイダンは言った。
「私が海から拾い上げたのは君だけではない。ミアもだった」
その言葉にはどうにもならない重みがあった。エイダンがずっと言えずに心の深い場所に埋めようとしていた分だけ引きずり出すのに時間がかかった。
「でもミアは酷い怪我だった。左の頭部がめちゃくちゃで脳が見えていたんだ。息をしているのが不思議なくらいだった。君も酷い怪我をしていて、右半身はつぶれていたし、腹に馬車の木片が刺さっていて、内臓もはみ出していた」
あまりにもむごい言葉にギャビーは一瞬だけ瞳を閉じる。
「……でもミアが生きていたのなら」
「今の医学ではとてもミアは助けられない。君もだ!でも君にはシナバーという神秘の力がある。君がシナバーであることで、私はどちらかを選ぶことができたんだ。……違うな、君以外の選択肢はなかった」
エイダンもうなだれる。
白髪の老人はつい先ほど前よりずっと老け込んだように見えた。言えなかったことを告白したのに?とギャビーは今考えるべきでない心配をしてしまうほどだった。彼の自己嫌悪はなんだろうと思う。それでも彼は一人を助けたのに。
「……どうやってわたしを」
思い立った恐ろしい考えにギャビーはかすれる声で彼に問う。そんなことがあってはいけないと思いつつ、それしか考えられなかった。
「ミアは頭部の損壊以外はとても奇麗だった」
そこまででギャビーには何が起きたのかわかってしまった。だから彼は恥じている。
ミアの臓器をギャビーに移したのだ。
「胃と肝臓と膵臓だった。あとは右手と右足。ミアはシナバーでないから君に馴染まないかと思ったが、臓器をある程度縫い合わせて、君に人血を与えたら、あっという間に君の体はミアの臓器や器官を受け入れてシナバーとしてのものに変容させたんだ」
嫌悪するべきなのだろうか?
ギャビーは自分の身に起きたことを考える。これは生死をつかさどる神の意に反する外道な行いではないのかと。
「多分これは、君とミアが双子であったらからできた芸当だと思う。一般の人間がシナバーであったらどれほどに戦力になるだろうという考えから、人間のシナバー化はずっと考えられていたし、実験もされた。でも普通は馴染むことができないんだ」
エイダンは己の行為をおぞましく思って悔いている。でも
わたしは全然気持ち悪くない。
ギャビーは思ったよりも落ち着いている自分に気が付いた。ミアが死んだことは本当に口惜しい。今だって本当は生きているのではないかと思うのだ。残念ながら今、彼女の死を聞かされて目の前が真っ暗だが、そこにある一条の光は、ギャビーのうちにミアがいるということだった。
「ミアの息が止まってすぐに、臓器の移植を行った。時間がたてば人の臓器などすぐに腐ってしまうから必死だった。君に与えた血液は、たまたま診療所に合った保存血だけど、それでも足りずにミアの血と私の血も与えたよ」
エイダンの目は爛々と光っていた。それを見ていてギャビーは気が付く。
「先生はこの治療を悔いていらっしゃる」
ギャビーの指摘にエイダンは急に言葉を止めた。
「でも悔いている理由は、治療を行ったこと自体じゃなくて、治療を行った理由にあるんですね」
ギャビーの指摘にエイダンは泣きそうな顔をしていた。
「……君を助けたいという動機じゃなかったんだ。ただどうしても双子で片割れがシナバーという希少な存在に、科学的な好奇心が抑えられなかった」
変わった素材を実験台にしたら。
医者であり、学者らしい言葉にギャビーは笑い出したくなった。
馬鹿みたいだ、みんな。
「じゃあアデラインの出産を手伝ったのもそのため?」
ギャビーの言っているのはオスカーとランディの事ではない。アデラインが喰らうことになった三人目の子供だ。エイダンは、そんなことまで知っているのかと言わんばかりに真っ青になった。
「なぜそれを」
「オスカーと子供を儲けるなんて、すでにその時彼女は狂っていたでしょうに」
生じた命に罪はない。せめて囚われの場所から子供くらいは助けだしてあげればよかったのに。
「違う、あれは、オスカーからの依頼を断れなかった」
「みんなそう」
ギャビーは微笑んだ。エイダンの考えなどわかっていた。彼は善良で、科学的好奇心があって、有能な、そして臆病な人間だ。
だから己の行為を後悔なんてする。
今頃どこかを軽やかな足取りで歩いているモルの姿が思い浮かんだ。きっと彼女はここで悔いたり嘆いたりしている人間のことなど思い出しもしないだろう。
「好奇心ならそれはそれでいいじゃないですか。後悔も自己嫌悪もするもんじゃないですよ、先生」
その言葉にエイダンは顔をあげてまじまじとギャビーの顔を見た。
「……いいや……私は今ではとても後悔している」
まるで怪物を見るような目だと思う。
そうかもしれな、つぎはぎの自分は、アデラインとはまた違う怪物なのかもしれない。
「ミアの遺骸の残りは?」
そのままであれば、遺体に何かしたものがいることがわかってしまうだろう。
「船を借りて、海の深い場所に」
聞き取れぬほどの小声だった。ギャビーの腹に怒りの炎が渦巻く。わたしのミアを海に捨てた。手の届かぬ場所に。だがその回答で、もう一つ疑問がわく。
「どうして目にミアのものを使ったんですか」
シナバーの治癒力は想像以上だ。たとえ外傷でボロボロであったとしてもいずれは治る。ミアの右目を移してきた理由がわからない。
エイダンはその問いにギャビーをじっと見た。
その瞳には確かに意味があるのだが読み取ることができないのだ。エイダンが一体何を思ってこんなことをしたのか。
「……君はずっと昔からミアの右目が好きだと言っていた」
エイダンの言葉は電撃のようだった。
「ミアの、夜明けと海辺の境なような瞳を好きだと言っていただろう。せめてそれくらいは君に返すべきだろうと思って……」
エイダンの言葉にギャビーは微笑んだ。
「先生は意外とロマンチックなんですね」




