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 ギャビーは本棚から飛び出した。モルもタイミングを見計らって動く。効かないとわかって撃つのはアデラインへの囮行為だ。


 二人の姿を見出すことになって迷ったらしいアデラインの攻撃が弱まった。ギャビーは本棚に足をかけ、その最上段に駆け上がる。書架の上を駆け抜けると棚はぐらつき、本が通路の落ちる音が聞こえたが、すべて背後での事だった。オスカーの目の前でギャビーはさらに飛び上がった。

 手にした斧を叩きつけたのは、天井からぶら下がるシャンデリアを留めている、重々しい金属の鎖だった。


 斧がガキンと音を立てて鎖の半分を切り裂き、そして食い込んだまま離れなくなった。そのままギャビーは手を放して床に転がる。

 体勢が悪く力を打ち込み切れなかった。シャンデリアを落としてアデラインをつぶしたかったが及ばなかった。

 一瞬集中力が途絶えた瞬間、ギャビーは触手に払われて本棚に叩きつけられた。木材が砕け本が飛び散る。床に叩きつけられ痛みで息が止まった。


 目の前で揺らめく炎に気が付く。今の衝撃で壁の燭台が落ち、本に燃え移ったのだ。

「ああギャビー!気つけてくれたまえ」

 オスカーが嘆いた。

「この城は思い出がたくさんあるんだ」

「私は嫌いだわ」

 アデラインの含み笑いが聞こえた。


「ずっと海ばかり見ていた。海なんて嫌い」

「では別の場所に城を立てましょう」

 まるで恋人たちの囁きだった。


 ぞっとするギャビーの前に、ゆらゆらと陽炎のように粘液が近づいてくる。揺らめいているのは本を燃やす炎のためだ。

 ここでシナバーである自分が食べられたら、アデラインはよりいっそう力を増すのではと思った。痛みをこらえて立ち上がろうとしたが、自分の動きが緩慢になっていることがわかる。逃げきれないと思ったが。

 触手も今が好機のはずなのに、襲ってこないことに気が付いた。炎の向こうで戸惑うように蠢いている。


 ……炎だ。

 すべてを焼き尽くすことができるなら。


「モル!ランプを!」

 叫んでギャビーは立ち上がった。肋骨が折れていることを痛感する激痛が走ったが、ためらう余裕はなかった。

「ギャビー!?」

 モルの声に疑問はあったが、彼女は本棚の陰から走り出てきた。銃を撃ち、アデラインを牽制しながら床に落ちたランプ拾い上げ、放り投げるようにしてギャビーに渡す。


「援護して!」

 ギャビーは本を蹴り飛ばした。炎上する本が床をすべってピアノの足にぶつかって止まる。右手にランプ、左手に銀の柄をもってギャビーは跳躍した。

 アデラインの額に銀の柄を刺そうとした瞬間、アデラインがわずかに避け、刺さったのは肩口だった。ぎょろりと白目をむいた彼女の口からはげらげらと笑い声が響いた。骨で銀の柄が歪みながら突き抜けたことがわかったが、アデラインの笑い声からは致死の傷ではないと知る。


「……ああっ」

 ギャビーは脇腹を貫く痛みに濁った叫び声をあげた。アデラインのドレスをめくって飛び出してきた触手はギャビーの脇腹を貫通していた。そのまま足が浮き持ち上げられる。肉と臓器を別っていく激痛に息が止まり、力が抜けかけるが。

 ギャビーはランプのガラスシェードを握りつぶした。ガラスが手に刺さり、オイルがこぼれてくる。滑って落とす前に、アデラインの大きく開けた口にランプを突っ込みオイルを流し込んだ。


 だがそこで身動きが取れなくなる。空中に吊り上げられたまま意識が遠のくギャビーを掲げるアデラインの足元に滑り込んできたのはモルだった。ギャビーのしたかったことを的確に想定してそして。

 モルは立ち上がるとアデラインの顔に燃える本を叩きつけた。溢れた油を一瞬で伝って炎が燃え上がる。注いだ口に、そしてアデラインの内部まで。


 アデラインが絶叫してギャビーを放り投げた。

「母上!」

 オスカーが叫んで駆け寄ろうとしてくるのを止めたのはモルの弾丸だった。だがそれは一発で終わり、モルは今度は本を投げつける。

 銃弾が切れたのだということは分かった。


「……モル」

 かすれた声で読んで、ギャビーは半身を起こした。

 アデラインは人の形をした松明のようになってのたうち回っていた。あちこちにぶつかるたびに本が焼け、火事が広がっていく。

「毒婦が!」

 ローレンスが言った言葉をオスカーもギャビーとモルに向かって吐き捨てた。


 今ならばローレンスがあの時サロンで指示した女が誰だったのかわかる。

 あれば絵だ。

 生きている女たちではなく絵画となって微笑んでいた元妻のアデラインを示して言ったのだ。彼女がキンケイドを殺したことを知ったからだ。そして今オスカーが、ギャビーとモルという二人を呪っている。


「毒婦で結構」

 呪いなど意にも介さないとばかりにモルが言った。

「あなた方が望む女になどなりたくもありません」

 あなた方。

 それはモルにとって誰なのだろう。きっとオスカーやフィリップだけではない。彼女が彼女らしくあろうとすることを拒絶したすべての何かだ。


 オスカーがモルの銃の弾丸が尽きたことを理解して、彼女に向かっていくのが見える。

 非力な彼女を絞め殺すくらいオスカーには容易いだろう。


 ギャビーの脇腹には穴が開いていた。息をした瞬間とても立っていられないほどの激痛に襲われる。それでも死んでない。シナバーにはこれだけ丈夫な体を与えてくれるのだから痛覚は削ってくれればもっと動けるのに、と何かを恨めしく思った。

 モルはピアノの向こうに回り込んだ。

 ここから逃げなさいと言いたかったが声が出ない。


 その時天井で、何かがひどく輝いたような気がした。

 そして、バリバリという音に続き、破壊音と悲鳴が響き渡った。悲鳴の声は男性のものだった。

 先ほど中途半端にしか切れなかった天井のシャンデリアが、ついに重さに耐えきれず、鎖を引きちぎって落下し、直下に居たオスカーを叩き潰したのだと気が付いたのは、ようやく身を起こすことができてからだった。


 痛みで息を荒げているギャビーのところまで流れてきたのは真紅の血液だった。シャンデリアの下からじわじわとしみだしていた。ギャビーの手では、途中までしか断ち切れなかったそれがまるでタイミングを見計らったように落ちてきて、オスカーをつぶした。


 ……ステファニーの選んだシャンデリア。

 まるで彼女の復讐に思えて、ギャビーは振り払った。非科学的だ。


 ギャビーはシャンデリアの破片に映った自分を見た。

 自分だ。

 左目の青。

 右目も青、そして一か所の朱色。

 ギャビーはようやくその容姿を受け入れることができた。たとえ己のものでは無いはずの色が自分の瞳にあろうとも、これは確かに自分なのだ。今までは受け入れることができずに、見覚えのない右目を受け入れることができなかったから。


 幽霊だなんて。

 そんなもの自分の心の中にしかいなかった。

 こつん、という音がして、顔を上げればモルがやってきていた。足音が奇妙に不均衡なのは、片足の靴の踵が折れたからだろう。

「大丈夫?」

「……痛い」

「痛いでは済まないのではないかしら」


 モルはしゃがみこんだ。モルが指示したのはギャビーの脇腹だった。見てみればそこはじっとりと血がしみだして服を真っ赤に染め上げていた。

「……っ」

 ギャビーは書架に寄りかかった。縋りつくが手が自分の体重を支えられない。シナバーだというのに死の間際になればかくも非力だ。

「……ランディのところに行きなさい」

 せめてと、モルに示す。


「あなたが拳銃を使いこなすようなとんでもない女だって語れる者はわたししかいないし、わたしももう死ぬ。イライザが何か言うかもしれないけど、彼女とケネスのことだってお互い様だし。ローレンス様がいない今、イライザの方が立場が弱い。イライザを追い出さないで上げる代わりに黙っていてもらうとか、きっとあなたなら交渉できるでしょう」


「……公爵家の嫁になれと?」

「それが望みじゃないの?」

 激しい怪我の痛みが遠くなっている。

 さすがのシナバーもこれだけの怪我をしたら死ぬ。モルの血を貰おうかという欲もあるが。


 ……なんかすごいもうどうでもいい。


 捨て鉢に見えて奇妙な解放感を伴っている言葉を思いついた。笑い出したくなるくらい。

「……あなたの望みは?」

 逆にモルに問われた。ギャビーは馬鹿々々しい質問だと呆れた。

 そんなの一つしかないのに。

「……ミアのところに行きたい」


 最後にはわたしを嫌っていたかもしれないけど、わたしは今でもあなたを好きよ。


 夜明けが近いのに、視界が暗い、と思った。

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