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「モル!」
「試しに撃ってみようかと思いまして」
「試しに……!?」
モルの時々の突拍子のない行動に危うさを覚える。
「でもあまり効かないと言うことがわかりました」
アデラインは胸を押さえてかすかな悲鳴を上げた。苦痛は感じているらしく、よろめきピアノに縋りつく。
「酷い義妹だ」
オスカーは眉をひそめた。ゆらりと身を起こしたアデラインは白い手を胸から外す。傷は血の一筋も流さず、ただひしゃげた弾丸を吐き出すとそのまま何もなかったかのように閉じた。
「母がシナバーになったのは私が十歳の時だ。ランディはまだほとんど生まれたばかりだった」
オスカーが語り始めた瞬間、ピアノの音が響き渡った。巧みな一音は図書室に響き渡った。続く曲は美しく静かに流れ始める。図書室のピアノを自分のものとして引いているのはアデラインだった。
ここに入る者すべての視線が集まってもアデラインはピアノに没頭しまったく省みることがなかった。そんな中でオスカーの言葉は続く。
「父は当然、離縁しようとした。けれどそれには理由がいる。自分の妻がシナバーであるということは彼にとっては大きな衝撃だったようだ。それを人々に知られる可能性については脅迫じみた勢いで恐れていた」
「妻なのに」
「妻だからこそ。ルヴァリスはまだシナバーに対する偏見と迷信が強い。私たちに受け継がれるものでもないのに、それを恐れた。それにシナバーを妻にしてしまったという自分の不名誉も」
呆れます、とモルが小さな声で呟く。
「だから、父は母を死んだことにして幽閉したんだ。あの塔だけは昔の名残で地下牢と繋がっていてね。一人くらい幽閉できる大きさもあった」
「……なんてひどいことを!」
「バカみたいですね」
ギャビーの同情を蹴散らかす勢いで今度こそ、モルははっきりとオスカーに非難した。
「殺す勇気も無いんですね。メリベルの男は。弱いだけじゃなくてなんて卑怯者」
「おっしゃる通りだ」
「他人事じゃない。あなたにも申し上げているのです。オスカー・メリベル。アデラインは今も生きているということは、あなたは大人になっても父を恐れて解放してあげなかったということよ」
まるでそれは不当な非難であるかのようにオスカーは目を見開いた。
「君には、君にはわからないだろ……この家庭で起きていることについて、どんな経緯があったなど」
「わからなくても自分の母を監禁することがおかしいことはわかります」
モルは鼻で笑った。
ギャビーは優雅な手つきでピアノを弾く彼女に空恐ろしさを感じながら見た。彼女がオスカーの母親だとはとても思えない。妻と言っていいほどの容姿だ。それは彼女がシナバーを発症したころに重なるのかもしれないが、シナバーは不老ではない。普通の人間と同様に老いて死んでいく。
「それにアデラインがなぜ老いていないのか、の答えをあなたはお持ちでしょう?」
「……アデラインはシナバーを食べたの?」
シナバーはシナバーの血を摂取することはできない。その理由は体調不良になるくらい不味いからだ。
でもそれを乗り越えて己の血肉としたのなら。
そんなことがあるわけないと思う自分と、ならば誰のものをと詳細を追及する自分がいる。
……あの監禁されていた部屋にあった、子供用の小さな服は。
「それは、もしかして、自分の子どもを」
同じものを見てきたモルがギャビーの考えていることを先に口にした。さすがに声が固い。
オスカーはゆっくりと二人を、そして最後にこちらの諍いなど気に留めることもなく微笑んだまま鍵盤に指を走らせているアデラインを見た。
「長い監禁生活で、母は少し正気を失っていたのかもしれない」
それは肯定だった。
ギャビーはエイダンが口を滑らせてしまった「五人目の子供」のことを思い出す。そうか、彼が秘密裏に取り上げたのは。
「母の三人目の子供は監禁されている中で生まれた。その子を育てている間は幸福そうだったけど、その子もまた一歳をまたずしてシナバーになってしまったんだ。自分と同じことがこの子に起きると思ったら、正気を保てなかったんだろう。自分の手で殺して」
オスカーにとってもあまりにも語ることがつらい話だったのか、彼は途中で口をつぐんだ。
死体を食べたのか。
「……私も新大陸で生きてきて惨いものはたくさん見てきました。でもそこまで悪趣味なのは初めてです」
モルの声に同情はなかった。
ギャビーはまだ少し、オスカーにも同情的だった。彼がギャビーに親切だったのは、母親を救えなかった後悔ではと思っている。確かにモルの言う通り、オスカーは父に対して対立することはできなかったが。
「……で、その子供は誰の子供?」
モルは挑戦的な瞳でオスカーに告げた。
オスカーの纏う空気が変わった。ぴしりと張り詰める。
それを感じ取ったのかアデラインの指先が止まる。断ち切られた曲の続きが一瞬ギャビーの脳裏に走ってすぐに消えた。
「モル・キンケイド。君は本当に聡明だ。私のぼんくらな弟にはもったいないくらいだよ」
「私もそう思います」
おそらくローレンスはシナバーとなった妻を抱かないだろう。
他にアデラインの存在を知っていたのはオスカーとおそらくエイダンだけだ。だが職位のないものを見下す彼女が治療行為以外でエイダンに己を許すとは思えない。
……ならは子供の父親は。
ギャビーはオスカーの言葉を思い出す。『自分にも忘れられない人がいる』と。その時はステファニーのことだと思ったが、それは。
彼の心はステファニーに、そして彼女が生んだ自分の子供二人にはなかったのだ。そう思えば、オスカーの子供への態度の、ぎこちなさの理由がわかる。彼は優しいが、子供への気遣いにいつだって欠けていた。それは不器用ではなく無関心だったのだ。
彼が愛したのはただ一人だ。
「あなた、自分の妻をどうしたんですか?」
空気がびりっと震えるような緊張感が走った。
ギャビーも息を詰めてモルの言葉を聞いていた。それは間違いなく殺人の糾弾だったからだ。
「……私ではない」
オスカーの言葉はステファニーの死を肯定するものだった。
「ステファニーは死んでいるの……!?」
ギャビーは両手で口元を抑えた。
モルは銃口を向け続ける。
「ステファニーは何を見てしまったのですか?」
モルのそれは糾弾ではなく好奇心に近かったがグロテスクなほどに真理をついていた。ステファニーは夫の裏切りとその相手である化け物を見たのだろう。
「……何度交わっても、それから母は子を身ごもらない。時折触手のような蛇のような奇怪なものが出てくるだけだ。でも」
オスカーはアデラインを見る。
「再びシナバーを食えば、また何かが変わるかもしれませんよ、母上」
ピアノの音がやんだ。
「モル!」
ギャビーはモルの腰を抱き、横にとんだ。
びしゃんという音がしてモルがいた場所に粘液がはねた。そろりそろりと一筋の液体のように近寄っていた触手がモルに襲い掛かる直前だったのだ。
着地してもあたりを見渡す余裕はなかった。足元にアルマを殺した鋭い触手が突き刺さってその攻撃性に総毛立つ。
モルがギャビーの手から抜け出て、ピアノの脇に立つアデラインを撃つ。モルの射撃は適格だが、一瞬ひるませるだけでダメージにならない。
モルが図書室の棚の陰に身をひそめるのが見えた。ギャビーは思い切ってアデラインに近づく。
おそらくアデラインは変異により強大な攻撃力は得たが、動く速さはさほどではないのだ。懐に飛び込めばダメージを与えられる可能性は高い。
だが問題は、あれが普通の武器では歯が立たないということだ。先ほど喉を貫いても修復してしまった。
ローレンスの部屋の剣をギャビーは思い出す。
実際に征服王が変異したシナバーであったかどうかはわからない。そして今のところそれはどうでもいい。だが部屋の剣がその伝説のためのレプリカだとしたら実際に銀で作られている可能性は高い。でもまさかあれを取りに行く余裕はないだろう。
アデラインは哀れだと思うが、彼女は正気ではない。自分ももし彼女のようにシナバーですらない、名もなき怪物になってしまったら、今抱えている苦しさから遠ざかるのだろうか。
一瞬それは魅力的な考えに見えた。
次々と鋭い触手が空を飛んでくる。足元では油断していればじわじわと粘液が足元を掬おうとしている。モルが移動しながら銃で彼女の気を反らしているが、いずれ弾丸は尽きるだろう。
何か、決定的なものが。
「ギャビー!」
息をひそめていたはずのモルの声が響き渡った。
「モル?」
彼女の唐突な言動にギャビーは慄く。
本棚間の通路に飛び出したモルはまっすぐに手を伸ばし、指をアデラインに向けて示していた。
違う!
ギャビーは気が付いた。示しているのはアデラインではなく。
光を受け止めさらに増幅してあたりにばらまいているのは、天井から下がるあの豪奢なシャンデリアだ。それは今までの大騒動で大きく揺れていた。まき散らされたハレーションはギャビーに、モルに、そして直下のアデラインにもっとも強く零れ落ちていた。




