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「は?」
「別に私がここにいるのはフィリップのためではありません。あいつが腕一本残して死んでしまったからその敵を打ちたい、なんかじゃないんです。むしろどうしてここに今祝杯用ワインがないのか悔しく思うほどにあいつが死んで嬉しいんですよ」
ギャビーの思考を読み取ったようにモルは冷ややかに言った。子は親を、育てられた恩を感じ取るべきだ、そんなギャビーの思い込みを吹っ飛ばすようなモルの計算が語られた。
「ただ、ここまで来たのですから、計画は終了しなければ」
「計画?」
モルは一瞬だけ浮かべたつかみどころのない表情ではない、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
「私はシナバーでもないただの女だから社会の中では弱い。権力や腕力のない美しい女はただ不幸になるだけです。フィリップがいたから守られていたってこともあるのでしょう、残念ながら。彼がいなくなった以上私は別の生き方を探す必要があります。それにはお金が必要ですから」
あなたにはわからないだろうという響きを感じ取る。
わからない、彼女の迷いのなさも、憎しみを憎しみとして抱え、その相手の死を祝うことも自分には理解できない無慈悲さだ。彼女は狂っているのかもしれない。
けれどモルは本当に強いのだ。こんな状況でも、明日の朝自分がどう生きるかを考えている。自分は逆だとギャビーは思った。
モルがうらやむ力があるのにそれを生かせもせず、ただすべての拠り所としていたミアの本心を知って生きる希望を失っている。
明日どうすればいいかなんてわからない。
イライザを助けようとするのも、もしかしたらその中で自分が死んでしまえればいいのにという遠回しな自殺なのかもしれない。
「行きましょう」
銃の準備を終えたモルはギャビーを誘った。ギャビーも手斧と銀の柄を握り締めてサロンを出る。
「ところで私、あなたと同じ年ですよ」
「え」
自分よりずいぶん若く見えるモルに仰天したがそれより先に考えるべきことはたくさんある。
北側に行くか南側に行くか、二人が悩んだ時だった。
遠くからかすかなピアノの音が聞こえてきた。モルと顔を見合わせて何も言葉を交わすことなく図書室に足を進める。
ほぼ半円分を進んだ二人は玄関ホールも横切ることになった。ここから出ていけるという思いも一瞬よぎったがそのまま長い廊下を進んでいく。時折使用人の服が落ちていた。何があったか想像の付くギャビーは嘔吐感をこらえた。
おそらくフィリップの体の残りも溶かされたのだろう。屋敷内を探っていて彼はうっかりあの塔にでも入ってしまったのかもしれない。
サロンに腕が放り出してあったのは深い理由もないのだ。ただアデラインがなんとなく置きっぱなしただけように思えた。彼女は危うく、気まぐれで、そして残酷だ。フィリップは楽には死ねなかったのではとうっすら気が付く。
図書室の扉は閉まっていた。しかし中の光が扉の隙間からこぼれ、そしてピアノの音は続いている。
ギャビーは右足を上げ、そのまま図書室の扉を蹴り開けた。うまいこと力が伝わったようで扉そのものの蝶番が外れて耳障りな破壊音と共に吹き飛んだ。
軽やかにモルが一歩を踏み出した。ギャビーの背後で両手に持った拳銃を前に向けて油断することがない。銃口はいつでも火を噴ける。
化け物が飛び出てくるかもしれない、という緊張感は室内からのたった一言で吹き飛んだ。
「こんばんは」
図書室の長椅子に優雅に座っているのはオスカーだった。
そしてピアノの音がやんだ。ピアノの前に居るのはアデラインだ。
ギャビーが少し前に喉を突き刺し、モルが今、撃ったはずなのにアデラインには傷一つなかった。さきほどと同じ白いドレスには血痕がない。彼女は血すら流さないのだと知ってギャビーは背筋を寒くした。
「アデライン」
モルの口が小さく呟きをこぼした。
髪だけは白髪だったが、その麗しさも上品さも何一つ失われていない姿で彼女はそこにいる。
もはや驚きはアデラインに向けてのものはない。
……オスカーは母の存在を知って理解している、ということだ。
「どうしたの、大慌てね。扉が壊れてしまっては困るわ。使用人に言って直してもらわないと」
愉快なものを見るように、鈴を振るような笑い声をあげてから彼女は言った。
「急いでどうしたの。本をご覧に?それともどなたかを探しに?なんだかとても疲れているように見えるわ、お嬢さん方。お茶でもお出ししましょうか?」
親切な貴婦人だった。まるで今が昼下がりで、自分は楽しい遠乗りから帰ってきたばかりのような気持ちになる。
ギャビーは混乱しながら目をしばたかせた。
「もう六十歳近くのはずなのに」
モルの言葉にギャビーは頷く。明るいところで見ればなおさらそれが鮮明だ。
そうだ、彼女は白髪以外、あの肖像画とかわらない。……彼女が亡くなってから二十年以上がたつ、変わらないはずがないのに。それに斧や銀の柄をもっているギャビーと銃口を向けているモル。それをみてこの落ち着きというのは異常だ。
「……やあ、ギャビー、モル」
本を手にオスカーは優雅に声をかけてくる。
オスカーを見ても驚かない自分にギャビーは驚いていた。これほどの騒ぎになってもまるで気配のないことで心の底ではオスカーを疑っていたのかもしれない。
「あなたも化け物の仲間?」
何一つ迷うことなくモルはオスカーを疑っていた。モルを見て、自分の向いている銃口を眺め、それからオスカーは穏やかに微笑んだ。
「モル、ランディはどうしたかな」
「あなたとアデラインが何もしていなければ自室で眠っていると思いますよ」
「何より」
「ローレンス公は?」
「君の知る通り、長い人生を終えてようやく眠ってくれたよ。母は父だけはどうしても怖がっていてね。もう母の方が十分強いのに、父が死ぬまで幽閉されていた牢から出てくることもできなかったんだ」
かつて王国を収めていたメリベル家。
それをなぜか痛烈に思い至った。オスカーのその何事にも動じない態度はあまりにも王者然としている。今、駆け回ってきて息を切らし身なりも乱れている自分を唐突に恥ずかしいと思うような威圧感があった。
それを鼻で笑うように言葉をぶつけたのはモルだ。
「あなたは本当にお母様を大好きだったのですね」
正しい発音、言葉遣い。そして含まれる軽蔑。
「ずいぶんな言われようだ」
モルの言葉を正確に読み取りオスカーは困惑交じりに苦笑した。
「君も私から見たらずいぶん奇妙なことになっているのだけどね。良家の子女のはずだろう。それが二丁拳銃とはいったいどうなっているんだい?」
「私も意外と秘密の多い女性だったということです。でもそういう女性が好きな男性も多いでしょう?」
「ランディは単純だから、難しいことは苦手だよ」
モルの言葉にオスカーは短く笑った。その笑い方があまりにもアデラインに似ていてギャビーは居心地の悪さを覚える。
オスカーは立ち上がった。ゆっくりと落ち着いた動作でピアノのアデラインに紙の束を渡した。
「母上、こちらを」
彼女は嬉しそうに微笑んで受け取る。それは楽譜だった。
「これを弾きたかったの、探させてごめんなさい」
「すぐにわかりましたから大丈夫ですよ」
この穏やかな母子の会話にギャビーは混乱する。自分はいったい何を見ているのだろう。自分の背後には幾多の死体があったというのに。
引き金を引いたのはモルだった。
唐突な銃声一発。
それは違うことなくアデラインの胸を貫いた。




