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……遠くでアデラインの悲鳴が闇を貫いた。ギャビーの位置を探るように蠢いていた触手が急にするすると扉の隙間から下がっていく。
もしかすると。
ギャビーは息を詰める。
いいや、そんなはずはない。だって彼女と自分には何の縁もないのだ。彼女が身の危険を感じたのならばランディのそばにいるか、逃げ出してしまった方が絶対に。
「ギャビー!」
聞こえた声にギャビーは扉に飛びついて閂を開けた。
そこに立っていたのはモルだった。
相変わらずの愛くるしい表情に、不釣り合いな両手の銃。
「なんでここに?」
発言はお互いに同時だった。
「なんでって……」
「いったい何が起きているのですか?ランディに付き添っていたら突然悲鳴が聞こえて。室外に出てみれば使用人の死体だらけなんですよ。あの時あなたと見た変な触手を見かけました。今この廊下でも。あと見知らぬ女がいたので撃ちました」
「撃った?誰かもわからないのに?」
「いけなかったですか?」
モルの「なんだか敵っぽいから撃つ」という思考が手に取れるような気がしてギャビーはくらっとした。喧嘩慣れしていて相手の何手先も読めそうなのに、時々とんでもなく短絡的な彼女が心配になる。
「いけなくないけど!あれアデラインよ」
「アデラインって……イライザの前のローレンスの妻?そんな年には見えなかったですけど」
「彼女はシナバーで……そしてきっと怪物になってしまったのよ」
「なるほど。では倒しますか?逃げますか?」
「えっ、理由とか原因とかは気にならないの……?」
モルはギャビーを見つめた。黒い瞳に自分が写っている。すうっと吸い込まれそうな気持になってギャビーはふとモルの虚無に気が付いた。
「……我々を襲っていますよね」
モルは静かに言う。
「私にはあれが『忌避すべきもの』ということさえわかれば十分なんです」
彼女にはもしかすると敵か味方かという観点しかない場所で生きてきたのかもしれない。それは彼女が生きるに役立っている。ランディの性格を見抜きローレンスに取り入り、そして今アデラインを一度は退けるほどだ。
でも目的に対する対処を最優先にすることに長ける人生とは。
「どうします?逃げますか?」
「あなたはどう思う?」
「悩ましいところですね。ランディを見捨てて逃げるということが的確な判断かどうか」
「逃げた方がいいと思う。あなたが立っている場所」
モルは足元を見た。そこには先ほどの触手の粘液と混ざって、なじみ深いそれがあった。
「ケネスはそこで触手に溶かされて食べられたから」
そこできゃあとか悲鳴を上げてモルが飛び擦るわけもなく、あらまあと困惑した顔を少し傾げただけだ。
「そんな能力まであるとは、なかなか倒しづらい相手のようですね。逃げた方が得策かもしれません」
「じゃあ急いで。ここから海岸に下りることができるから」
「ギャビーは?」
「まだ北の尖塔にイライザとリンダとロバートがいるの。なんとかするわ」
「おひとりで?」
モルは本当に呆れたという顔をした。
「だってあなたには理由がないでしょう」
「あなたにも理由はないと思いますが?」
そうだ。特に理由はないのだ。別にイライザ達を見捨ててもなんの後悔もないはずだ。助ける義理もない。
「……よくわからないけどイライザは一生懸命血の繋がりのない二人のことを守っていたのよね」
「それはローレンス亡き今、子供を味方につけることで自分のメリベル家での地位を確立するためでは?」
「そうかも。でも自分の命も危うい時にそうできるのかしら」
ギャビーは自分の中の憧れを自覚した。
普通の家族だったはずなのに、多分誰も自分を守ってはくれないことを知ってしまったことで生まれた憧れだった。イライザは血縁でもない二人の事を守ろうとした。
ギャビーは多くを語ることができない。また知ってしまったことの衝撃が大きすぎる。だがモルは不思議そうな目でギャビーを見ていた。
「……助けるのなら逆にアデラインを探して追いつめなければ」
「……は?」
今度はギャビーが驚きの声を上げた。
「なんで逃げないの?」
それには答えず、ただモルは自分のドレスの腰のあたりを探っていた。取り出した小さな弾丸を慣れた手つきで銃に込め始める。
今ギャビーの問いに答えるつもりはないのだろうなとはっきりわかる拒絶だった。彼女も自分の中で答えが出ない『なぜ』があるのだろうか。
「弾丸も持ち歩いているの?」
「ええ」
そういってモルはそのたっぷりとダーツが入っているドレスをたくし上げた。両太腿があらわになる。そこには大腿に巻き付けるタイプのガンホルダーが両足にあった。たくさんの銃弾が入っている袋までぶら下がっている。
「足を見せるなんて破廉恥」
「好奇心があるかと思いました」
モルはニヤッと笑った。
「モル」
外の気配に気を配りながらギャビーは問いかけた。
「あなた本当に何者なの」
また何か、人をけむに巻くような返事が返ってくると思っていた。彼女が内心をあらわにするとは考えにくい。それでも問わずにいられなかったのは、彼女の何かを自分に取り込みたいと思ったからかもしれない。
自分には持っていないものを。
「ただの娼婦の娘」
モルの言葉にギャビーは目を見開いた。
「え?」
モルはちらりとギャビーに目を向けた。視線を銃に戻し手慣れた動作で弾丸を装填し終わると小さくため息をついてギャビーをまっすぐに見た。
「私の母親は、東洋人のとても奇麗な娼婦だったんですって。父親は客で誰ともわからないけど多分この国から渡った開拓民だろうって。私の容姿からするとまあまあハンサムだったのでしょう」
突然の告白にギャビーは声を上ずらせた。
「フィリップ・キンケイドは?」
「あれはただの強盗。新大陸では人殺しだってやっていた。母親が死んで孤児になった私を五歳の時に引き取ったの」
「……いい人?」
モルは明らかに「ばかみたい」という目でギャビーを見つめる。
「私は人並み外れて美しい子供だったらしいから、最初はどこかの娼館に転売する予定だったんだと思います」
「でも一緒にここまできたんだよね」
「私が想定以上に美しくなりすぎたから計画を変えてみたいですよ。私の容姿に東洋人らしい面影はないでしょう。でも瞳と髪はびっくりするほど黒い。よくわからないけどそれを神秘的だと尊ぶのですね、この大陸の人間は。適当に貴族の出だという証拠をでっちあげて、裕福な家族に近づいてそこで適当に親しくなったところで金や宝石を盗んで逃げることを繰り返してきました。新大陸でやりすぎてしまったから今度はこの国に来たの。でもさすがに公爵家は最後の勝負だったんでしょうが」
それが人殺しを伴うものなのか、単にモルを嫁がせて財産を搾り取るためだったのか、ギャビーにはわからない。
「でもあなた、本当に貴族の娘みたい」
ギャビーは疑いようのないモルの言葉の響きを噛み締める。
「そうですね」
その一言にも正しく美しい発音があった。
「フィリップが私に家庭教師をつけたから。何かを間違えれば傷にならないように殴られるし、食事も抜かれるから必死でした」
モルはふふと優しい笑い声をあげた。本当はもっと憤っていいはずなのに彼女の根底に染み付いた淑女らしさはそれを許さないのだ。
いつか言った、「こうとしか話せない」。それは育ちの良さではなく、暴力と虐待に裏付けられたものだとすると、ギャビーの胸につらさが走る。
「フィリップが死んでせいせいしました」
そんな凍り付くような言葉にも、美しい響きしかない。
「でもあなたはあの時この城からでられたのに」
フィリップが死んだとき、モルには駄々をこねる理由もあった。父の死でショックを受けた、ここから去ってゆっくり考えたいとでも言えばよかったのだ。
「なんで去らなかったの」
モルはつまらなさそうに平坦な声で言う。
「フィリップは多分深夜に盗めそうな金目のものを物色していたんだと思います。もしかしたら金目のものがどこかに集められているかもしれないでしょう?それは回収しなければ」
そして付け足した。
「それに、まだ、手より先が見つかっていません」
ぽつと呟かれた言葉にギャビーは彼女の真実の存在を感じ取る。ただ、そこには親愛はかけらもない。抑圧された憎悪だけだ。
「別に生きていて欲しいとは思いません。あいつ早く野垂れ死にでもすればいいとしか考えていませんでしたから。ただ、私の目の前で死んでほしかった。それが叶わないなら、死んだ姿を眺めたかったのです」
「……お母様は?」
「わかりません。どこの誰かも覚えていないから探すこともできないし、向こうも私に会ってもわからないかも」
モルは少しだけ小さな声だった。
「母がくれた名前も忘れたし、私がもともと使っていたはずの東洋訛りも捨てさせられた。五歳の時に、娼婦の娘は死んで、知らない誰かになりました」
フィリップ・キンケイドは殺人までする極悪人で、小さな娘をかどわかして己の望むように育てた。
それで葛藤が終わるのなら、モルは今ここにいないのではないかとギャビーはうっすら思う。多分ギャビーが考えるよりもずっとフィリップ・キンケイドは酷い人間で、モルが味わった辛酸は相当なものだろう。それでもモルに小さなかけら程度でも何か暖かいものを残したのだろうか。
ギャビーが何を考えたのか正確に感じ取ったようにモルがため息をついた。
「あなた、本当におめでたくて時々腹立たしく思います」




