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「あれは……あれは……」

 ケネスは声をかすれさせながら恐怖の色に染まった呟きを漏らしている。

「……死んだと!先妻様は亡くなられたと聞いていた」

「生きてるのよ!」

「屋敷から出られないんだ。屋敷のあちこちにあの妙な蛇みたいなやつがいる!」

「あなた!」


 ギャビーは振り返った。そのまま膝でにじり寄り、彼の肩を掴んだ。

「イライザを突き飛ばしたわね!」

 先ほどの光景を思い出すとギャビーは血が沸騰しそうな怒りに襲われた。

「どうしてそんなことができるの。仮にもお付き合いしていた相手でしょう!」


 モルがイライザに詰め寄った時のことをギャビーは振り返っていた。たしかそれは不倫であっただろうが、今となってはイライザに同情的だった。あんな若くして、随分と年の離れた気難しく尊大で頑固な男に嫁がされたのだ。

 一度目の結婚では離縁され、二度目の結婚では利用されていた彼女がこっそりと抱えていた恋くらい、かばってあげたいような気がした。

 けれど相手はこの男では。


「はっ」

 ケネスは哂った。そしてギャビーの手を振りはらって身を起こす。その目にはぎらりと輝く激情がある。

「お互いに割り切った関係だ。俺もイライザもあのじーさんには腹が据えかねていたから意趣返しだったんだ、ただのな」

 ケネスももはや執事としての体裁を取り繕うつもりもないようだった。


「それでも、人として」

 ギャビーは彼を見据える。

 誰かを突き飛ばして囮にして逃げおおせるなんて。

 ギャビーは自分の怪我を思い出す。この馬鹿男の血でも吸ってやろうか怪我も治るし、と、とっさに物騒な考えまでよぎるくらいには怒っていた。


「人?」

 ケネスは心底呆れたような顔をした。

「あんたが……シナバーのあんたが人を語るのか!」

 それからふっと我に返ったように……しかし逆に怯えたような顔をして言った。

「……いや……もしかして、あんたは、人なのか?」

 それがどういう意味か分からずギャビーは戸惑っていた。シナバーへの偏見かと思ったそれが予想もしない発言に変ったのは次だった。


「あんたはミアか?」

「え?」

「本当は死んだのはギャビーで、あんたはギャビーと偽って生きていたのか?」

「……何を言っているの?」

「ああそうか、それならその顔が、その目が……似すぎている顔も理由が付く」

「ケネス!あなたおかしいわよ?」


 ギャビーは大声をあげてしまった。何か次の瞬間にとても怖いことが起きるような気がしたのだ。止めたかったのにケネスは何かの取りつかれたように話し続ける。彼はついにへらへらと笑い出していた。

 確かに女中があれほど無残に死んでいく様を見てしまったらとても正気ではいられないかもしれない。

 そして彼は口走った。


「あんたはミアなのか。俺に、ギャビーを殺してほしいと頼んだ」

 ギャビーは足元が凍り付くような思いに駆られた。

「……どういう……」

 ケネスはギャビーの手首をつかんだ。


「そうだ、あんたはシナバーでも何でもない、ただの人間のミアなんだな。だからあの化け物にも逃げ出すしかなかったんだ。あんたはいつだって一人では何もできない。だからギャビーを殺したいって、誰かそういう犯罪者に心当たりはないかって頼んできたんだろう」


 ケネスの言っていることが本当だとはとても思えなかった。思いたくなかっただけなのだろうか。ためらいながらもギャビーは質問を続けていた。

「あなたは引き受けたの?」


「公爵家がただ礼儀正しく高貴な血だけでやっているわけないだろう。怪しい連中とだって当然つながっている。ここでミアの言うことを聞いておけば、彼女がランディの奥方になった時に便利かと思って引き受けたんだ。彼女がそいつらとどういう交渉をしたのかまでは知らないけどな」


 今、息をしていない自分に気がついてギャビーは必死で呼吸する。懸命に息をしているのにとんでもなく世界の空気が薄い。胸の激痛は怪我のせいだと思いたい。

「ミアは」

 彼女が私を殺すなんてするわけがない。

 今までそれを疑ったことはなかった。しかしこんな混乱のただなかでケネスがつまらない嘘をつくだろうか。

 ケネスは今、目の前にいる女を、ギャビーともミアとも判断付き兼ねるまま、知っていることを口から零れさせている。


「ミアはどうして」

「当たり前だろ。ルヴァリスでシナバーと縁続きになりたい人間なんているかよ。しかも公爵家だぞ。ギャビーがいる限り、ミアはランディと結婚できるわけがない」

 知っていた。それは一般常識だ。でも自分とミアの間には誰にも覆せない何かがあると。

 ……思っていたのは自分だけだったのだろうか。


 ミアがあの日、暴風雨だというのに、意固地になってこの城に向かった理由もそれならわかるのだ。彼女が契約した人殺しは、あの日城に向かう途中で待ち構えていてギャビーを襲う予定だったのだ。計画を変更すればまた考え直さなければならない。再び接触すればそんないかがわしい連中と繋がっていることも公になりやすい。

 だから彼女はここに向かったのか。

 でもミアにはそんな悪党どもを雇う資金なんてないはずで。


 そう考えたギャビーは今度は自分が笑い出しそうになってしまった。ミアはないかもしれないが、両親なら何の問題もなく出せるだろう。

 やっと正解にたどり着いた。ははっ、という短くて乾いた笑いだけが出た。


 そうか死んで欲しいと思っていたのか。

 そうとしか思えなかった。ならば両親がふさぎ込みギャビーに当たる理由もわかる。こんなはずではなかったから、それだけだ。


 次の言葉を無くしたギャビーに、ケネスは不思議そうに声をかけた。

「なあ、なんでそんなにショックを受けているんだ。あんたはミアなんだろ」

 違うというのも煩わしかった。ケネスなどもうどうでもいいとすら思う。

「ばかみたい」

 ギャビーは呟いた。


「なんだよ。怖さに頭でおかしくなったのか」

「それはあなたでしょ」

 ギャビーは吐き捨てる。するとケネスは驚いたように早口で答えた。

「俺だけじゃねえ」

「あなただけよ」

「あんただって人間だろ。化け物には勝てないぞ」

「わたしは」


 人間じゃないとかシナバーとか、今言いたくなかった。ただ彼がとても嫌いだし、考えることでパンクしているだけだ。

「そうだ、あんたみたいな目の持ち主は、あんたくらいしかいないんだ」

 ケネスはギャビーを……なぜかその右目を凝視していた。

「あんた、なんでここにまた戻ってきてしまったんだ」

 恐怖のあまり正気でなく、自分のことしか考えていないケネスだが、その一瞬の音場だけは正当な同情心といたわりがあった。


 ケネスがそう言ったときだった、ギャビーは重なって聞こえる奇妙な音に気がついた。

 何かが滴り散るような。

 突然、まるで足元に火が付いたような悲鳴を上げて、ケネスは身を捩り始めた。


「ケネス!」

「はっ、外してくれ!」

 暗がりで見づらかったが、ケネスのズボンの裾が奇妙によじれているのに気が付いてギャビーは目を見張った。

 それは無数の細い触手だった。先ほどのものと比べても随分細く半透明だ。ほとんど小指くらいの細さしかないようなものが無数にケネスの足をからめとっていた。


 これもまたアデラインの一部なのだろう。細くなって扉の隙間から入り込んできたのだ。

ギャビーはとっさに素手でその触手を引きちぎろうとした。かがんで手を伸ばし触れた瞬間小さく悲鳴を上げて手を引いてしまった。

 触手に触れたその手に走ったものは、電撃痛とも熱痛とも感じられる激しい痛みだった。

「痛い!」

 ギャビーは悲鳴を上げて手を引いた。そのまま後ろに尻餅をつく。


「熱い痛いいたい!」

 絶叫していたケネスが突然膝をついた。

 ……いや、膝をついたのではない、膝から下が……なくなったのだ。

 触手は繋がりあってまるで半透明の粘膜のように見えた、それがケネスの足を溶かして貪り食っていた。


 ギャビーは飛び散った血に悲鳴を上げた。尻で這うようにして後ろに下がった瞬間、その目の前にバランスを崩したケネスが倒れこんだ。

 隙を見せた瞬間に触手は一気にケネスに襲い掛かり、彼を覆い隠して食い尽くそうとした。

触手には生き物を溶かす作用のある何かが含まれているのだろう。だからギャビーもあんな激痛を感じ取ったのだ。しばらくケネスの叫び声は続いていたがやがて静かになり、床でのたうつ姿も見えなくなっていた。触手は相当に貪欲らしい。


 もしミアが、これに食べられていたら。

 真実を知っても心配なのはミアの事だけの自分を、少しだけ哀れに思った。


 ギャビーは必死に立ち上がって、まだギャビーの姿を把握していない触手からじりじりと距離を置く。そこにケネスが持っていたらしい手斧を発見した。触手の消化液は金属や木を溶かすことはできないらしい。本当に消化のためだけなのだと考えつつギャビーは拾う。これでその液状とも思える触手を叩き切ることはできそうな気もしたが、その行為でギャビーの存在もアデラインにばれることになるのでためらいがあった。


 銃声が響いたのはその時だ。

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