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「早く」
ギャビーはまず、ロバートを螺旋階段に押し出した。不安げに振り返るロバートの背を押す。
「早く行って。階段は狭いわ。あなたが上がらないとリンダも上がれない」
ギャビーは背負っていたリンダを下した。その手をイライザに握らせる。
「イライザ、リンダを連れて、早く」
「ギャビーは?」
「ここで防ぐわ」
「一人で!?」
「他にいないでしょう。ほら早く入って。そうしたら木の扉を閉めるから」
「でも」
「急いで!」
苛立ったギャビーの怒りの声にイライザは唇を引き結ぶと覚悟を決めたように螺旋階段に足を踏み出した。リンダを先にして進む。一度だけ彼女は振り返ったがギャビーは特に言葉はかけず、そのまま扉を閉めた。
それから塔への扉があるフロアからも出る。フロアの開きっぱなしだった重い木でできている扉を閉める。これがどれくらい効き目があるかわからないが、塔への扉一枚よりはましだろう。
なぜイライザを守っているのかはわからない。
子供を守ることが人の良心だから?イライザを守ることはロバートとリンダを守ることだから?
……否。それほど自分は子供にもイライザにも興味や義理がない。
子供ため、と思ってしまえば楽な自分をギャビーは否定した。
多分自分は知りたいだけなのだ。ミアに何があったのかを。あんな異質な存在は見たことがない。もしかしたらミアの失踪に関係しているかもしれないのだ。
ただ……向こうはギャビーを見もしなかった。まるで存在していないかのような扱い。それが貴族が平民を見る目のなのか、シナバーへの態度なのかはわからないが。
そこまで考えて、ギャビーは一つの仮説を唐突に思い浮かべた。
アデラインは……シナバーだ。
唐突だがその啓示は真実としか思えなかった。
彼女は病気で死んだのではない。メリベル公が毛嫌いするシナバーになったから幽閉されたのではないだろうか。人々の口に上るローレンス公の性格に、すでに人間とは思えないアデラインの異形。そこからふと導かれる正解だった。
でもあの姿はシナバーにしても異形すぎる上、シナバーが人としての姿を失うなどとは聞いたことがない。
……この屋敷の図書室!
城に来て見つけた不気味な物語ばかり集めた本を思い出した。
シナバーは悪魔であり、自由に姿を変えられる。
あまりにも子供だましの迷信とその時は鼻で笑えたが今となってはそこに含まれる一つの真実を理解せずにはいられない。
彼女は……変容したシナバーなのだ。
それこそシナバーですら対決することが難しいほどの強大な怪物に。それには名もなく、ただ怪物としか言いようがない。
ギャビーは奥歯を噛み締める。気を抜いたら恐怖で歯が鳴ってしまいそうだった。
ああ、こんな状況なのに、オスカーもランディもモルもどうしているのだろう。先ほどから物が壊れる音も続き、アルマの死体も転がっているのに。ギャビーは窓から中庭を超えて見える建物の明かりを一つずつ数える。どこかにいるのにあまりにもこことは違うような気がした。
その時、ふといつの間にか足音が聞こえなくなっていることに気が付いた。
ギャビーは曲線を描き見通せない闇の先を伺った。先ほどは庭越しにアデラインが廊下を歩いているのが見えたが、今はその姿を見失っている。ここからから見通せない場所にいるのか、こちらの興味を失ったのか。
ギャビーは少しだけ息がつけた。
だがら次の瞬間横から張り倒されてそのまま壁に叩きつけられた時は庇う間もなかった。胸の中で聞いたことのない奇妙な音がした。口の中に嫌な味が広がって息を吸ったとたん、激痛が走った。
「ひ……は」
床に落ちたギャビーは、目の前にあるドレスの裾に気が付いた。あたりにはガラスの破片が散らばり埃が舞っており、その優美さは異質だった。
ゆっくりを見上げたギャビーは、こちらを覗き込んでいるのがアデラインだと気が付いた。いつの間にか彼女は、二階に移り、階段の上からギャビーを襲ったのだ。ドレスの裾は風もないのに、小刻みに震えていた。その内側に彼女が一体何をうごめかせているのかを想うと生理的な嫌悪に近い恐怖がギャビーの心に這い上がる。痛みで浅い呼吸しかできず思考力も落ちていくようだった。
「あなた、シナバーなのね」
アデラインの声は奇妙に平坦であった。まるで感情が読み取れないのに、ちゃんと思考がある。人の考えは感情と密接に結びついているわけで、見せない、ではなく感情が存在しないということの異質さが怖い。
「どうしてシナバーがここにいるの?」
例えば……ローレンスへの怒りとか、幽閉の悲しみがあればそれはまだ怖いわけではない。けれど彼女の感情の無さは対話の不可能さを思い知らされるようだった。
ぞろり、とドレスの裾からそれは這い出てきた。あの日見た薄気味悪い触手はぬろぉとギャビーの頬を撫でた。それは確実に……味見であった。
ふふっとアデラインは笑う。
「シナバーに会ったのは自分以外ではようやく二人目よ」
……不可解な言葉だった。まるでその一人目のシナバーも味見をしたようではないか。
……もしも。
ギャビーは自分の恐怖心の正体を知った。
それは捕食されるという危機感だったのだ。
シナバーはシナバーを喰らうことで変質するのだろうか。
直感だったが正しい自信があった。そうだ、シナバーには人間の血が与えられる。だいたいシナバーの血はとても不味い。わざわざそんなものを口にする必要がない。
……だからこそ、それに挑戦したシナバーは?
ギャビーは目を見開いた。
息を止めて見ればその筋肉の収縮でなおさら胸が痛んだが、ギャビーは全身の力で飛び起きた。あらまあ、と感心したようなアデラインの胸に、隠し持った尖った銀の棒の先端を思い切り突き立てたのだった。
一瞬の静寂の後、アデラインの絶叫がフロアに響いた。
さきほどアルマが落とした銀の大匙をギャビーは拾ってここまで持っていたのだった。その時は深く考えずに「それでも何かの武器になるのでは」くらいの気持ちだったが。
征服王の仲間を葬った銀の剣。
図書室で読んだおとぎ話を思い出す。
ギャビーがアデラインに刺したのはメリベル家の銀食器に含まれる大匙の、匙部分を引きちぎって尖らせた物だった。
振り返りもせずにギャビーは銀の柄を引き抜くとアデラインを突き飛ばして駆け出した。
アデラインの怒りに満ちた声が背後から聞こえるが、意に留めなかった。
怪物だ、と内心で叫ぶ。
二十年、この城に幽閉されていた薄幸の奥方。それだけなら悲劇だが、そのなかで一体何があったのギャビーには想像もつかない。ただ、アデラインは怪物になってしまったのだ。
ミアが彼女に殺されてしまったのかもしれないという考えもよぎったが、アデラインの力にも速さにもギャビーにはとても対抗できる手段がなかった。とっさに刺した銀の柄に効果があればいいと願うばかりだ。
ひたすら走ったのはオスカーかランディを見つけるためだ。息子を見ればアデラインも少しは正気に戻るのではないだろうかと願った。
緩やかなカーブでふいに人影が出てきて、ギャビーは悲鳴を上げた。止まることができず、思い切り当たってしまう。ぶつかった衝撃に息ができないほどの激痛を覚えて、立っていられずギャビーはへなへなと座り込んだ。相手は弾き飛ばされて、壁に肩をぶつけたようだった。
「ケネス!」
座ったまま、ギャビーは彼の名を非難の響きで呼んだ。
そしてギャビーは背後を振り返る。アデラインが追ってきているかもしれないのだ。
「こっちよ!」
ギャビーは立ち上がってケネスの肩を掴んだ。
「鍵を!」
ケネスにせかしたのは彼が持っている鍵の束だ。そこはサロンの前だった。ケネスははっとしたように自分の鍵の束をポケットから出して、震える手でサロンの鍵を出す。
「急いで!アデラインが来る」
アデラインの強さをアルマの死を思い出すことで理解したケネスは鍵束をガチャガチャと音と立てながらその扉を開けた。ギャビーは彼の襟首を掴むようにしてサロンに共に入り込んだ。ケネスは浅い呼吸を繰り返しながらよろめいて倒れる。
ギャビーは閂をかけて、へなへなとその場に座り込んだ。




