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 ガラスの割れる音がギャビーを正気に戻した。彼女の目はそれをようやくそれが何かを理解した。ガラスを割った勢いで「それ」も軽くダメージを負っていた。身に刺さったガラスの破片を身震いするようにして落とす。ずるりと、戸惑うようにして足元を這っているそれに、イライザが必死で悲鳴を抑え、へたりこんだまま子供達に見せないように抱きかかえていた。


 それは、ギャビーには見覚えがあった。深夜、屋敷を徘徊していた時に、海岸へ降りる石階段と途中で襲われたものだ。長い、何か、としかその時は暗がりで見えなかったが、今屋敷の中の明かりで良く見える。


 あの蛸の足にも似た触手は明かりの光を受けてぬらぬらと光っていた。おぞましさはあの闇夜と変わらないが、今はそれがどこから来ているのか知ることができた。触手はアデラインのエレガントなドレスの裾から這い出しているのだ。大きく膨らんだドレスは現代の流行ではない。その中にどれほどの触手が入っているのかを想像してギャビーは嘔吐感に近い嫌悪を覚える。

 触手の先は、ヒトデのように五弁となっていて、クパクパと開閉している。垣間見える白いものは牙のように尖っていた。


「忌々しい」

 アデラインはふわりと笑った。それだけみれば夢でみるニンフのようだ。白い肌白い髪、整った容姿に豪奢なドレスに宝飾品。

「アルマは良く仕えてくれていると聞いていたのに」

 アデラインはふっとため息を漏らす。


「私がいるのに、ローレンス様はなぜ後妻など娶ったのかしら」

 その一言でギャビーは先ほどアルマを一撃で殺したそれが、イライザを狙ったものだと気が付く。

「お前が石女だということは知っていますよ。家にはもう戻れないということも。でも哀れと思うにはお前の図々しさが腹立たしい」

 イライザはその言葉を受けて、恐怖以外のものを瞳に滲ませた。

 アデラインはそれに構わずただ少し表情を和らげた。


「でもそれはそれでローレンス様の思慮深さなんでしょうね。ステファニーがいなくなってオスカーも子供達の扱いには苦労したようだし。お前が来たおかげで家が回るようになったということもある。本当に、男だけでは屋敷というものは回らないということに気が付くのがローレンス様もオスカーも疎くて。お前のことなど育ちの良い乳母だと思えばよかったのかしら」


 小首をかしげるアデラインを見た瞬間、ギャビーは飛び出していた。アルマの落とした銀の大匙を拾い、右腕でイライザを、左腕でオスカーとリンダを抱きかかえて、割れたガラス窓から外に、飛んだ。

 耳元で三人の悲鳴がやかましい。でも。


 背後で、柱が砕ける音がしたのは聞き間違いではないだろう。後頭部に当たってきた小さな破片は壁の一部のように思えた。アデラインがあの触手をまた一振りしたということは想像が容易い。

 ギャビーは中庭にうまく着地した。三人を抱えている割には、だろうが。

 なんとかリンダは抱きかかえていられたが、イライザは途中で放り出してしまったし、ロバートも地面についた瞬間転がってしまう。


「ロバート!」

 イライザが自分のことなど気が付かないようで、足を引きずりつつ懸命に子供に駆け寄る。幸いにもロバートはその白い頬にかすり傷を負っただけで済んだようだった。

「イライザ!」

 ほつれた髪の下から血を流しているのはイライザだった。多分ガラスの破片で額を切ったのだろう。


「あなた頭と足から血が」

「そんなのいいから!それよりあれはなに!アデラインと言えばローレンス様の死んだ妻よ!大体あれほどに若いはずがない。それに!!」

 ヒステリックに叫ぶイライザは突然言葉を止めた。ぎらりと目が光る。

「……そんなことはどうでもいいわ。とにかく逃げなければ」

 うぇっとリンダがしゃくりあげたのがきっかけだ。それが彼女にとって最大優先すべきことを思い出させる。


「あれは私を狙っている。ロバートとリンダをどう考えているのかわからないけど……でもあれにこの二人を大事に思う気持ちがあれば、あんな光景を見せて平気なはずがない」

 イライザは二人の子供の手を握った。

「ギャビー、手伝って」

「どうするつもりイライザ」

「子供を連れて町まで逃げて」

「待ってあなたは」

「私は足を今ので怪我して身動きが取れないから」


 ギャビーはイライザと子供二人を見た。すっかり目を覚ました二人だが、異常な事態に恐怖で目を見開き、お互いの手をぎゅっと掴んでいた。ギャビーは首を横に振ってイライザの言葉に答える。

「無理。この城から逃げるべきかもしれないけど、暗闇では身動きが取れない。馬車を動かす準備もできない」

 イライザはギャビーの返答に眉を寄せる。それから決心したように顔を上げた。


「あの一番高い尖塔に行きます。とりあえず夜明けまで閉じこもってみせる。自分でなんとかするしかなさそうだから」

 指さしたのは、今、割れた窓からほぼ対角線上にある高い塔だった。それから苦々しい顔でイライザは自嘲する。

「ケネスも当てにならないし」

「……行きましょう」


 どうせ自分とは分かり合うことができない高貴な出の女だと思っていたけれど。

 ギャビーは考えを改めながら彼女の両手にそれぞれしがみついている子供たちを見る。

 それでも彼女は己の大事なものも何をすべきかも、わかっている人だ。


 ギャビー自身も腹をくくった。ギャビー達は大急ぎで中庭を横切り、塔に一番近い場所に向かう。大きな窓はなく腰高窓しかないので、ギャビーはそこに落ちている大きな石を拾い上げ窓に叩きつけた。木枠もすべて破壊して人が入れるだけの隙間を作る。内側に落ちたガラスの破片に気を付けながらイライザを押し上げそこから侵入させる。内側に入ったイライザにロバートとリンダを託した。


 最後にギャビーも室内に入り込んだ。振り返って先ほど逃げ出した場所を見るが、もうそこで動くものを見つけることはできなかった。

「イライザ、リンダを」

 一人で歩くにはまだ頼りない娘をギャビーは両手で抱きかかえた。それから二人は足早に室内を進む。


「多分、あなたにはわからないと思う」

 急ぎ足で場内を歩くイライザは唐突に言葉を漏らした。あまりにも不意打ちでなんのことだかわからないほどだ。

「私の事、バカだと思っているのでしょう」

 どちらかかというと、思われていると考えていたギャビーはあっけにとられた。


「どうしてそんなふうに?」

「あなた、その年まで家に置いてもらえて、いい相手を探してもらっているんでしょう。そういう人間には私の苦労なんてわからない」

 ギャビーはイライザの敵対的な言葉に傷つきはしたが、そのまま思いなおす。

「そうかも」

 ギャビーが素直に同意したのを聞いてイライザは何かを言いかけたが今度はギャビーがそれを遮った。


「でもあなたにだってわたしの気持ちはわからないわ。確かにわたしは恵まれた境遇にあったと思う。でもあなただって、シナバーというだけでそれさえ意味がなくなるほどの哀れみの視線でみられることなんてないだろうし。それに両親が私を家に置いているのは別に愛しているからじゃないわ。ただもう『美しい娘』という資産には代替えがないからより良い条件で手放そうとしているだけ」


 ギャビーはまさか自分がこんなことを話すなんてと衝撃でいっぱいだった。

 ほとんど会話もなく打ち解けることもできなかったイライザと話すことになろうとは。いったい何を求めているのか。

 イライザはちらりとギャビーを横目で見た。


「……子供ができなかったの」

 イライザの言葉が頼りなく、耳に届かないほどだった。それが彼女の苦しみをより一層強く感じさせるのだった。

「一度目の結婚は十六歳の時だった。相手も同じ伯爵家。うちより経済状況はすごくよかった。でも七年たって子供ができなかったから離縁されたの。それで家に戻ったけど、そこにはもうわたしの居場所がなかった」


 イライザの兄が結婚でもしたのだろう。実家とはいえ新しい世代になってしまえば昔のようにはいかないものだ。

「ローレンスは下々のことを気にかけたことはなかったし、私のこともせいぜい口を利く家具ぐらいにしか思ってなかった」

「……でも結婚生活を送っていたのね」

「他に行くとこともなかったから。少なくとも実家で役立たずっていう目で見られるよりはまし」

「そんなの」

 おかしい、と言いかけてギャビー自身がそのおかしくなさを思い知る。


 わたしの家族はわたしを愛していなかったのだ。

 それを痛感する。胸がずきずきと痛み、軋んだ。これを認めるということは本当に難しかった。

両親はわたしがシナバーでなければ愛してくれていた。

 両親は愛していなかったかもしれないけどミアは。

 でもミアも。


 思わず立ち止まってしまいそうだったが、ギャビーの背にはリンダがいて、イライザの手にはロバートがいる。二人を守るためには進むしかないという状況が、ギャビーの足を進めていた。

「私はね、本当はエリザベスなの。両親がつけて、ずっとその名前で生きてきた。でもこの城でローレンス様から『使うな』と言われたの」


「なんで?」

「ローレンス様のお母様と同じ名前なんですって。母と同じ名前の女は抱けないそうよ。だからよくある愛称の一つからローレンス様が勝手に選んで、嫁いだらイライザと名乗るようにって」

「……バカみたい」

 とっさに口走ってしまったギャビーの言葉にイライザは笑った。

「本当に」

 泣き声のようにそれはかすれていた。


「別に、ケネスを好きでもなかった」

 イライザは短く息を吐き出した。

「ケネスが私に取り入ってメリベル家で権力を持ちたいという野心をもっていることはわかっていた。でもケネスはこっそりと私をエリザベスと呼んでくれたの。寂しかったのね、私。多分、弱いから」

 最後の声は泣き出しそうなものだと気が付く。それを労わる言葉をギャビーは知らない。


「……わたしはあなたをよく知らないけれど」

 まだ会って数日しかたっていない。

「でもあなたは弱いわけでもないと思う。弱い人は今きっと、子供と手をつないでいない」

精いっぱいの言葉を紡いだギャビーはふと物音を聞いた。振り返ってひっと息を止める。


 円形の建物は庭越しに建物の様子が見て取れた。およそ四分の一ほど離れた廊下に歩くというよりは滑っているような人影を見つけたのだ。あれは人の動きではない。

 アデラインが追ってきている。

 イライザはまだ気が付いていないようだった。追われていることに気が付いても、不安が募るばかりだろうとギャビーは指摘することをやめた。ただ足の進みを早くして、そして別のことを口にする。


「あんな不気味な化け物に襲われて、ケネスだって逃げ出したのに、あなたはロバートとリンダをかばったでしょう。それは弱い人にはできないことだと思う」

「……必死だったから」

 イライザは困惑した様子だったが、それでもギャビーに与えられた言葉を考えているようだった。

 そして四人はついに、塔の入り口まで来た。閉まっていた木の扉を開ける。

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