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ローレンスの遺体を二階の彼の自室に戻したのはギャビーだった。
シナバーであるギャビーにとっては彼の体など細い枯れ木一本程度だが、普通の人間にとっては……男性のオスカーやケネスにしても重量のあるものだ。
よろしければ、お運びします、というギャビーの申し出にオスカーは頷いたのだった。
……不思議なものだった。
生前はあれほどにギャビーを拒絶し近づけなかったのに、死した今はギャビーの手で……シナバーの力によって彼は二階の自室のベッドに横たわることとなった。生きていれば絶対に受け入れなかっただろうに、と思うと、ほとんど滑稽に思えた。
この城の主の部屋は確かに最も立派であった。金糸銀糸で刺繍がされた壁のクロスは深い赤で連作の風景画が誂えてあった。大きな東洋風の花瓶が置いてあり、白磁に青の文様は清々しく、部屋の雰囲気とは対極であるの良く馴染み、芸術に親しんできた一族のセンスを知ることができる。
調度品も立派なものであったが壁の最も目立つところにはやけに仰々しい銀の短剣が額に入って飾られていた。それだけが少し異質だったがおそらくメリベル家に伝わる「征服王と戦った銀の短剣」あるいはそのレプリカであろうと思われる。
ローレンスの死を確認したのはエイダンだった。いつか来るとは思っていたが、まさか今日とは、と考えていることがありありとわかる表情だった。
「もともと心臓が随分弱っていましたので」
エイダンの言葉は冷静だった。
ローレンスの急死によって全員が今度はローレンスの部屋に集まることになった。ランディも息苦しそうにやってきていたが、父の死を確認すると、そのままモルと一緒にすぐに自室に戻ってしまった。体調の悪さもあったのだろうが、父親の死を受け入れがたいという顔をしていた。
……ローレンスは絶大な影響力でメリベル家を支配していたのだから、ランディの虚無ともいえる反応は当然とも思えた。唐突に失われた重しにどう対応したらいいのかわからないのだろう。
オスカーはやはりもともと次期の家長であるという自負があったためかまだ落ち着いていた。
「今日はもう遅いので、闇に紛れて町に向かうのはおすすめしません」
ケネスがオスカーにそう声をかける。
「そうだな、司祭や葬儀の手配などは明日でもいだろう。まだクイン先生がいてくれて良かったというべきか」
オスカーは父の遺体をちらりと見た。
「今日は私は寝ずの番をするよ」
「明日から葬儀の準備など始まれば忙しくなりますよ。交代にしましょう」
オスカーとイライザの会話をぼんやり聞きながら、ギャビーもなぜかその部屋にいた。イライザが手一杯なため、ロバートとリンダはギャビーの横にいた。
ああでもこれで家に帰れるのだと思える。不祥事を恐れて皆をここに足止めしていたローレンスがいなくなったのだ。明日には家に帰ろうと決意する。
時刻は夜の九時になろうとしていた。子供たちは最初は祖父の死に困惑していたものの、夜も更けたことで徐々に眠気に襲われていた。みればリンダはもうギャビーに寄りかかって眠り始めていた。このまま起こしていても明日が大変なだけだろうと思ってギャビーはイライザに声をかける。
「イライザ、子供たちを寝室に案内しては」
「そうね」
ギャビーはリンダを抱き上げた。今日は死した老人と穏やかに眠る子供を次々に運ぶことになって妙な気持ちになる。ローレンスよりもずっと軽いはずなのに、生きている重みと体温はその体を重たく感じさせた。
イライザに手を引かれるロバートと一緒に四人そろって部屋を出た。と、その後からケネスも出てくる。
「キッチンにいるアルマに軽い夜食と酒を出すように申し付かりました」
彼の持つ蝋燭の火がありがたく、五人となって薄暗い廊下を進んだ。円を描く廊下は先が見通せない。
こつんこつんという音が近づいてきたと思ったら、暗がりからボウと小さな炎が浮かび上がった。
「おやアルマ」
階下のキッチンから上がってきたのはアルマだった。手にはスープが入っているのであろう大きな銀の蓋つきボウルがあった。
「皆様、お食事が必要かと思いまして」
「ちょうど頼もうと思っていたところだよ」
漂うコンソメのいい香りにはその場の全員が心をなごませた。眠っているリンダですらもぞりと身じろぎする。
「アルマ、私と子供たちは部屋に戻ります。オスカー達にそれを給仕してからでいいけれど、あとで子供部屋にも持ってきて頂戴」
「かしこまりました」
イライザの頼みを引き受けて、アルマは今ギャビー達が立ち去った部屋に戻ろうとした。
「……えっ?」
アルマの声が小さく響き、彼女の足音が止まった。つられて四人も彼女を振り向く。
四人が今通り過ぎたのは、あの開かずの塔の扉の前だった。
その扉が今、開いている。軋みの音さえもなく、静かに。
すぅと冷たい空気が廊下を漂っていく。
……別になんということもない。今まであかなかったのは立て付けが悪かったからで、何かのはずみで開いただけだ。扉というものは開くものだから。
けれど、その暗がりの中から、ぼやっとした白い影が現れたときには、ギャビーもつい息を飲んでいた。
誰も声が出ない。
イライザもアルマもケネスも。
この城に長い彼らもこれは想像していなかったのだ。……その白いドレスの裾を。
塔の階段を降りてきて、素足を廊下に下ろしたのは、見たことのない女だった。白く長い髪、首元すら見えない高い襟を持ち、けれど寝巻らしく柔らかな布でできたドレスは足先まで長く覆い、豊かなドレープの襞を滑らかに作っていた。長袖の手首からも袖は長く伸びて床につきそうなほどだった。
暗がりに立つ彼女はどこの光を跳ね返しているのか驚くほど白く、輝いているようだった。
彼女は緩慢にこちらを向いた。六人もの人間がいたのに、気が付くにこれほどかかったことが不思議だった。彼女の彷徨う視線はやがてギャビーをとらえた。
淡い海の……いや霞がかる空のような明るさの瞳だった。ギャビーはそれに見覚えがあった。それが思い出せず、ただ居心地の悪さだけが強くなり、恐怖のようであった。張り詰めた空気の中で、一番に口を開いたのはアルマだった。
「……ああ、そんな、まさか……奥様」
奥様。
その言葉に思い浮かんだのはオスカーの駆け落ちをしてしまって消えたというステファニーの事だった。出奔した彼女が返ってきたのかと。でもあの時見かけたステファニーのの肖像画を思い出す。ロバートとリンダに引き継がれたあの美しい栗色の髪。彼女は金髪でもましてや白髪でもなかった。
だとすれば。
よぎった瞬間にはその顔立ちを明瞭に思い出していた。もう一枚の、それこそ大仰な額に入っていたあの一枚。
「アデライン!?」
ギャビーは叫んでいた。
若くして死んだというオスカーの母。そうだ、あの肖像画の輝かんばかりの美しさと寸分たがわず彼女はそこにいる。
そんな馬鹿な。だってあの肖像画はもう二十年以上も前に書かれたものだ。全く容姿も変わらずここにいるなんて。そもそも彼女は死んだはずで。
ギャビーは混乱していた。この城で仕入れた知識と今目の前にある光景は、一つの結果しか導かないのに、脳はそれを拒絶する。自分自身だって訳の分からない存在でありシナバーなのに、もっと訳の分からないことに対して対応できない。
怪物。
ふと、図書館で読んだあの奇談を集めた本を思い出す。とても信じられないようなことばかり書いてあったが、もしかしたらそんなことも起こりうるのだろうか。
「そんなバカな、旦那様が、奥様は亡くなられたって」
古株のアルマは彼女を実際に見たことがあるのだ。そのほかにはアデラインの顔を覚えている者はいない。
突然、金属が床に叩きつけられる派手な音がした。一瞬、スープのいい香りが強く漂った。はっとして横を見ればアルマがスープ壺の乗った盆を落としていた。スープ壺だけでなく幾種類かのカトラリーも床に激しい音を立てて転がる。
アルマは持っているものを落とすくらいショックだったのだろうかと、ふと彼女を見た瞬間には、膝から崩れ落ちるようにして彼女は柔らかい、けれど体重そのままの重みをもつ音を立てて床に転がっていた。
「アルマ?」
スープの香りをかき消すように別のもっと強い香りが立ち込め始める。ギャビーにとってはあまりの豊潤さにめまいがしてしまいそうな……でも普通の人間にとってはただの生臭い香りであるそれは。
アルマの体の下からはじっとりと赤い血が染み始めていた。一瞬だけギャビーの視線の端に黒く長いものがよぎったが、それを捕らえることは視線でも手でも難しかった。
ただ、何かが……鋭い何かがアルマの腹を撃ち抜いたのだということは分かった。ほとんど即死状態に近く、腹を抉られたアルマは床に転がった。それが事実だ。
でもそうだとするのなら一体なにが。
「間違えました」
突然、鈴を振るような美しい声が聞こえた。アデラインの小さい、けれどうっとりするような美しい色の唇が開く。
「私は」
「うわあーー!」
アデラインの言葉を遮って、一番に叫んだのはケネスだった。騒音が不快だとばかりにアデラインが眉を顰める。
「ばけものだ!」
ケネスは叫ぶと廊下を走りだし始めた。恐ろしい素早さでそれを何かが追う。けしてこの城からは逃さないとばかりに。
「ケネス、気を付けて何かが追って!!」
言いかけたギャビーは信じられないものを見た。ケネスの走る先に居たのは二人の子供達、それに恋人の……不義ではあっても恋人のイライザだった。
「邪魔だ!」
ケネスは怒鳴り散らした。体当たりしてイライザを突き飛ばす。彼女はよろめき子供たちを巻き込むようにして倒れる。けれどそれが幸いした。たった今アルマを貫いた何かがまた空気を裂き、イライザの脇すれすれを貫いてガラス窓を粉砕したのだった。




