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「私がどこの馬の骨ともつかない人間であったとして、それを私自身が好んで選んだとでも思っているのでしょうか?」

 モルはふっと短いため息をつく。その瞬間に彼女の大きく怪しげな瞳を横切ったのは、あの晩二丁拳銃を抱えていた時の強い光だった。


「本当に、貴族階級というものは、他者へのいたわりにも、想像力にもかけた人種ですね。でもそれが自分に返ってくるとは思わないのですか?」

「……なんですって?」

 イライザの問いはギャビーにも必要なものだった。モルの言葉には秘密を暴かれ、悲嘆にくれるものの表情ではなかった。


「あなたがこの屋敷の中で権限を保つことを願い、私を排除しようとしたように、私もこの屋敷に留まりたいと願い、邪魔するものがいれば排除したいと願わなかったとでも?」

「モル?」

 モルの目には揺らがない微笑みがあった。こんなの喧嘩ですらないとでもいうような絶対有利な光だ。


「あなた、何を」

イライザの声に困惑が混ざった。モルの揺らがなさが理解できないとばかりに。きっとイライザは良家の子女として育ち、自分より目下のくせに己の言うことを聞かない娘になどあったことがないのだ。


 ギャビーには対応しきれない状態に、ただおろおろとして二人を見比べる。どうしたらいいのかもわからない。ついでに言うならここにいる意味もわからないのだ。

 モルは、自分の胸元から一枚の紙を出した。小さな紙だが美しい透かし印刷がされていて地位の高い女性が使うメモ帳だとわかる。ギャビーはそれを見たことがあった。


「秘め事で使う紙は、管理をきちんとするべきだと思います」

「何を言っているの?」

 モルはその言葉も無視してメモ帳の記載の言葉を呼んだ。

「『ケネスへ あなたがいてよかったわ。愛している。 エリザベス』」

 それを聞き取った瞬間イライザの顔色が変わった。


「あなたそれ」

 モルはもったいぶるように、悠々と呼吸を置いた。

「……ケネスとはいつからそういったご関係に?」

 モルの反撃にはギャビーも度肝を抜かれた。いつの間にそんなことを調べていたのだろうか。そもそも名前が違うのに。


 いや、確かにイライザはエリザベスの愛称だ。でも彼女はこの城でエリザベスとは認識されていない。イライザはそう突っぱねることもできたのに、今は真っ青な顔をしているところを見ると図星なのだ。

 ケネスの恋人はイライザだったのだ。


「ローレンス様もオスカー様も、不貞はお嫌いだと思います」

「どうしてそれを」

 ふてぶてしさではモルの方がはるかに上であった。彼女は自分の弱みなど一片もみせず、ただ一瞬の隙を見て反撃した。反撃を予想していなかったイライザは、白を切ることができずに弱みを露呈した。イライザは自分の足元には注意を払っていなかったのだ。


「偶然」

 モルは唇を歪めるようにして微笑んだ。偶然なわけがないとギャビーでもわかってしまう。昨日ギャビーからメモを取りあげてから彼女は「エリザベス」が誰かを考えた。


「失礼を承知で申し上げると、あなたそれほどローレンス様に大事にされていないのですね。お若い嫁を貰ったのだからさぞ溺愛されているのかと思ったけれど、まるで介護要員。本当の名前で呼んですらもらえない。ローレンス様は、あなたに瑕疵があれば、すぐに離縁して別の若い娘と再婚するでしょう」

 イライザにもそれは自覚があったのか、彼女は一瞬口を開け、そして忌々しげに閉ざす。


「私はこの城を立ち去るだけ。もともとここは私のものではありませんから。でもあなたはもうすぐここが手に入ると思っていたからお辛いんじゃないかしら?」

 ああ、秘密が明るみになるというのは心が痛むことですね、とモルは芝居がかった大仰な言葉で言った。それからすっと親しみやすい笑顔を見せる。


「でもわたしは他人の恋愛には興味がありません。ねえイライザ、あなただって他人の家系図に興味なんてないでしょう?」

 モルの言葉にイライザはぐっと下唇をかむ。

 お互いの後ろ暗いことには触れないでいようとモルは持ち掛けているのだ。


 モルはずっと戦い続けてきたのだろうとギャビーはうっすら察した。攻撃の材料だけつかんで得意になっていたイライザよりよほど戦い慣れしている。一度不利になってもそれを取り返すことができるほどには危機に強い。

 ……それはどうして。


 ずっしりと重い空気の中でギャビーは息をひそめていた。イライザは証人としてギャビーを呼んだ。でもその証人はイライザにとって都合の悪いことも知ってしまったのだ。ギャビーはイライザにとって都合の悪い人間になってしまった。


 イライザの立場を良く……とはいかないまでも中立にまで戻すためにはモルの秘密をイライザに教えてあげるのも手段だ。

 ……いや、二丁拳銃の令嬢に触手の化け物などとても信じてもらえまい。それにそこまでしてあげるほどイライザに親切にして上げる理由もない。


「失礼します」

 停滞してしまった会話の中に入ってきたのは女中頭のアルマだった。

「お茶を……」

 言いかけた彼女は室内の澱んだ空気に気が付いた。すぐに立ち去ろうとてきぱきとお茶をついでいる。その間三人は無言だった。ギャビーは恐る恐る二人の様子伺い、イライザは不機嫌そのもので外を見ている。モルは強固な微笑みを張りつかせていた。アルマが慌てて出て行き、再び誰かが口を開くその前の一瞬だった。


 外れてしまいそうなほど激しい音を立てて、扉が開いた。

 全員の視線がそこに集まる。


 立っていたのは老人だった。細く、枯れ木のような印象を受ける。もとは大柄で横幅もあり恰幅の良い風体だったろうが、加齢と病……そして不摂生が彼を損なったのだということがわかる。着ているものは豪華であったが、その豪華さに彼自身の外見が付いていけなかった。


「まあ、ローレンス様」

 最初に叫んだのはイライザだった。頼りなくふらついている彼に手を伸ばして支えようとするために立ち上がったが、彼に一喝されて立ちすくむ。


「私に触れるな!」

 彼は大声で怒鳴りつけた。

 老人が、この家の主だと知って息を飲んだギャビーは声も出ない。まさかこんな唐突に顔を合わせるとは思っていなかったのだ。

 あれほど会いたいと願った男の突然の出現を、ギャビーは目を見開いて見つめる。


「毒婦め」

 かすれる声で、ルヴァリス公ローレンス・メリベルはつぶやいた。一瞬聞き逃してしまいそうに頼りない響きだった。

 震えておぼつかない手を持ち上げ、一本の指でこちらを示した。だがその指の先は震え瞳は彷徨い、どこを示しているのかはわかりかねた。


 ギャビー、イライザ、モル。すべてがその範囲とさえ言えた。背後の、今ここに居ない微笑む女の二枚の肖像画を背に、今ここにいる三人はそれぞれに微妙に違えど、優雅さに欠けるこわばった表情だった。


「お前など、生かしておくべきではなかった」

 まるで悔悛のような響きだった。

 毒婦といった。それは相手が女ということだろうか。

 彼はいったい、誰を責めているというのだろうか。

 老人はなおも言葉を続けようとする。かすれた声はかすかにギャビーの耳に届いた。


「……なんと、無慈悲な女よ……!」

 そして老人は激しくぐらつく。ついていた杖が床にカランと音を立てて転がった。


「ああこんなところにいては」

 イライザはローレンス公の制止を振り切って彼に近寄った。

「いけません、ご病気に障りま、す」

 急に言葉が切れる。

 ギャビーは、そしてモルもとっさに立ちあがった。


 ローレンスがイライザに抱き着いたのだ。しかし彼女では支えきれない。二人そろって床に倒れ伏してしまいそうになる。

 見かねたギャビーも飛び出してローレンス公を支えた。振り払われるかと思ったが彼はその実をギャビーに預けて身じろぎもしない。


 抱き留めた彼は軽く、乾いていた。

 ギャビーにとっては軽いものだ。たとえ、その場で命が潰えて、全体重をこちらにかけてきたとしても。

「誰か!」

 モルの叫び声がして、アルマがサロン覗き込む。

 老人のか細い喘鳴が途切れたのは次の瞬間だった。

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