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時刻はまだ午後の三時だというのに、サロンは暗がりに覆われ、イライザが台の上に明かりを置いているところだった。ギャビーが来たことに気が付くとイライザは困ったように微笑んだ。
「天気があまりよくないわ」
「今日の午前中、まだ晴れている間にお暇すればよかった」
「あら、そんなさみしいことを」
イライザはゆっくりとした口調でギャビーに言う。どこまで本音なのかがわからない。
ローレンスの子供の扱いがうまい後妻。
それぐらいにしか考えたことがなかった。 動きはいつも優美で上品、言葉にもまったく主張がない。何を考えているのかわからないと不気味に思っていたが、そもそもそれは彼女の貴婦人然とした態度への反発と嫌悪だったのではないだろうか。
自分は持っていないが、さして欲しくない、でもあったほうがいいもの。
そういったものに人は時に複雑な反発を覚える。
その美貌を見初められ、老いたルヴァリス公に嫁いだ。すでに彼には二人の息子がいるため自分の子供を持つことすら許されず、ただ頑固でかたくなな老人の世話をするだけの日々だ。彼女自身の意思というよりは没落している伯爵家の両親の思惑が強かったことは変わりない。
「お客様なのだからもっと早くきちんとご挨拶すべきだったのだけど、私も忙しくて」
「こまごまとしたことはあなたがご対応されているんですね。オスカー様は領地の経営には詳しそうですが」
「そう。お付き合いとかいろいろとあるから。今日も、先日ご子息が誕生したワザリング公爵宛に贈り物を選んでいたの。オスカーはなかなかそう言うことまで手が回らないのね」
イライザが貴族の社交界で有能であろうということは察することができた。
「おかけになって」
イライザが差し出したのは赤ワインだった。午後三時には早すぎるというたぐいのものだ。
座ったギャビーは妙に押し迫ってくる焦燥感にそれを一口飲んだ。その姿を見てイライザが笑う。
「あなた、不用心ね」
「え?」
「ランディは突然体調を崩したでしょ、まだ毒の疑いは晴れていないのに、他人が差し出したものを口にするなんて」
「あっ」
それを思い出したギャビーは短く声を上げた。イライザの笑いは強くなっている。
「いいのよ、毒は入っていないわ」
「……冗談はおやめください」
「そうね、これから真面目な話ね。」
イライザは自分のテーブルに座った、
「わたしに?」
「いいえ」
イライザはギャビーの背後に目をやった。つられてギャビーも振り返るとそこに立っていたのはモルだった。
「モル」
「少し遅くなりましたね」
モルはドレスの裾をちょいとつまんで頭を下げる。かわいらしい挨拶だった。イライザは好意からあなた達とお茶をしたかったのよ、という態度だけを表層に浮かべているがこの三人がわざわざ集まる必要など、今は全くないのだ。
ギャビーはじわりと背中に冷や汗が滲んでくるような気がした。
「どうぞおかけになって、モル」
「ありがとう」
モルはチャーミングな笑顔を浮かべるとテーブルの前の椅子に座った。
イライザの誘いによってギャビーとモルがやってきた。それ自体は全く不思議ではない。イライザは後添えであってもこの屋敷の女主人だ。
だが初めての誘いはギャビーを緊張させる。おまけにモルがどう考えているのかはさっぱりわからない。
「どうぞ」
イライザの差し出したワインの入ったグラスをモルは手にして、口をつける様子もなくそのまま微笑んでいた。イライザはそれに何を言うでもなく、椅子に座る。
……あの時笑い出したということは、無頓着にワインを口にしたギャビーをイライザは嫌っていないということだろうか。
「来てくださって嬉しいわ」
小さなサロンに設えたテーブルには高さのあるティープレートが並べられ、所狭しと菓子や軽食が並んでいた。
「せっかくここにいるのに一度もこの三人でお話しすることがありませんでしたから」
「私もギャビーと一緒にお話ししたかったわ」
モルが静かな声で話しかける。父を失ったばかりで笑顔は不適切だと判断したのではないかと思えた。まるで話をしたことがないかのようにモルは言い方に、何と答えていいのかわからずギャビーは口を開けかけ、そして閉ざした。
「私、モルを慰めて差し上げたかったの」
イライザは痛ましそうに言う。
「あんな形でお父様を亡くされて」
イライザは遺体を見ていないはずだが状況は把握しているようだった。
「……まさかこんな形で父に別れを言うことになるとは思っていませんでしたから」
モルは伏し目がちに答える。並んだ席からが彼女の長い睫毛がよく見えた。
「そうね」
とイライザは言って、一度言葉を切った。どこか不自然なそれは次に控えている言葉を放つための余白だった。
「……本当のお父様じゃないのに、とても悼んでいるのね」
イライザは変わらないうっすらとした微笑みであったが言葉はギャビーの胸を強く入り込んでくる。しかしそれが理解できるまでには一瞬間があった。
「……本当のお父様じゃない」
もう一度呟いて確認する。ようやく意味がわかってからギャビーはイライザを凝視した。
「どういう意味で」
すか、と聞こうとした途中でモルがギャビーの言葉を遮った。
「おっしゃることがわかりませんが」
モルの言葉ははっきりしていた。切り返しの速さにギャビーは逆に混乱する。でもその相手は、訳の分からないことを言い出したイライザなのか、反論したモルなのかまだちょっとわからない。
「フィリップ・キンケイドについて調べた者が昨日来たの。皆がここから出られなくなっているけど私は自由に使いと会えますし」
イライザだけではなく、ローレンスも、オスカーもきっと、キンケイド親子の素性は調べただろう。だが、イライザが最もしつこかったということか。相当うまく隠していた親子の過去を彼女は調べ上げた。
イライザはもうギャビーを見ていなかった。彼女がのぞき込もうとしているのはモルの瞳の底だった。
「……あなたのおじい様の死亡記録が見つかったわ」
モルは穏やかな微笑のままイライザを見つめている。罪悪感や焦燥感はかけらもなかった。
「その記録だと、エーメリー家の子息……あなたのおじい様とされる人物は、家を出奔して間もなく亡くなられているの」
イライザの言葉にギャビーは目をしばたかせた。
「それも新大陸ではないの。そこに向かう途中の船の中で急病になって亡くなられた。遺体は海に葬られたとあるわ。彼が新大陸に行かなかったとしたらその娘も孫も存在しないと思うけどいかがかしら」
しばらく間があってゆっくりとモルは顔を上げた。
「さあ。わかりません。あなたのおっしゃられたことには証拠もございませんし」
イライザは、一枚の封筒をすうとテーブルに乗せた。
「エーメリー家の子息の死亡記録よ。船舶会社が保管していたの。さすがにこれは証拠となるわ、公式に認められるし、万が一を考える人にも疑念を抱かせることができる」
それでもモルは不思議そうに頭を少し傾げただけだ。
「イライザ、私はあなたをとてもいい人だと思っています。親切にしてくださってありがとう。だからこそ、理由がわかりません。どうしてそんな嘘をおっしゃるの?わたしは父から、エーメリー家の血筋だと聞いているのです。それを否定されるのはとてもつらく思います」
「心当たりがないとは言わせないわ。それにあなたのお父様が持つという金山。それも違う人の名義だって調べがついているの」
イライザがここまで強く出るということは確固たる証拠があるのだろうとギャビーには思える。彼女はランディのモルへの愛情を根こそぎ損なうことができるだけの悪徳の証拠を持っている。案の定、モルはとっさに反応しなかった。それは彼女自身が不利であるということを悟ったからだ。
ギャビーがここに呼ばれたのも、イライザが証人を欲しかったためだ。
「もし、それが……本当だとしたら」
ギャビーが問うとイライザはいっそ穏やかにも見えるほどに優位の表情を浮かべた。
「別に夫に言う気はありません。ランディを無意味に傷つけたいわけでもない。でもどこの馬の骨ともつかない人間が公爵家に入るのは困ります。明日でいいから出て行ってくださいね」
イライザは優しい口調だったが、断固とした拒絶だった。
イライザがどうしてモルを拒絶したのか……多分リンダとロバートのためだろうとなんとなく察することができた。イライザにとっては義理の孫にあたり血は繋がっていない。でも仕事にかまけてほとんど顧みることのない実の父オスカーよりも子供たちはイライザに懐いている。イライザもまた、懐いてくる子供を無碍にはできない優しさがあるようだった。
このままいけば何があってもロバートかリンダがメリベル家を継ぐ。でもランディとモルの間に子供ができ、タイミング悪くオスカーが死ねば?
騒動の結果次第で公爵家の跡取りは覆るかもしれない。ミアなら許せてもモルでは許せないのだろう。
「人の素性を調べるなんてとても下品ですね」
ギャビーは真剣に考えていた。だからギャビーがイライザの言葉に呆然としている間に、モルがするりと口を開き、反撃としかとらえることができないことを告げたから本当に驚いたのだった。
風が吹いたら倒れてしまうような見かけの令嬢なのに、あまりにも……。
あまりにも。
そうだ、あまりにも喧嘩慣れしている。




