25
夜の浜から戻った二人はほとんど無言でサロンで別れた。
夜が明けても海に行く気分にもなれず、ギャビーは図書室にこもっていた。途中でロバートとリンダがやってきて読み聞かせなどしているうちに少し気分が良くなる。
「ギャビー」
この間の続きとして童話を呼んでいるとリンダが小さな声で話しかけてきた。
「なにかしら」
「幽霊は本当にいるの?」
唐突にそんなことを尋ねられてギャビーはぎょっとした。幽霊ではないが異形のものを見たのはつい先日の晩の話だ。
「どうしてそんなことを?」
「ママの幽霊がいるのかなって」
ギャビーは眉を寄せた。
ガラス窓からは柔らかい日差しが入ってきて温かい。図書室は光で満たされているが小さな子供たちの感じている心細さはよくわかった。
「おいで」
ギャビーが手招きすると二人は向かい合って座っていた長椅子から両脇に座った。小さな、それなのに十分な体温はギャビーにはあまり馴染みのないものだ。
「イライザは優しくしてくれる?」
「うん」
「でもママに会いたいのね」
ステファニー。
一度もあったこともないし噂しか聞いたことのない女性のことを思い浮かべるのは難しい。知るものは一枚の肖像画だけだ。オスカーは語るが、それが本当に正しい姿なのかはわからない。
「ママは優しかった?」
リンダがこくりと頷いた。逆側の横ではロバートがうつむき加減だ。彼は頭頂部しか見えない。
「ママは」
ギャビーは己の良心を咎めさせながら言った。
「ママは奇麗だったのね。肖像画でも素敵なアクセサリをつけていたわね。きっと他にも素敵なものを持っていたのでしょう」
「花のネックレスがね、あったの」
リンダはたどたどしく語った。
「お花の形にピンクと白い石が並んでいるネックレス。ママがいつもしていて、おばあちゃんからもらったんだって。頂戴って言ったら十歳になったらねって言っていたの」
それは目に浮かぶようだった。
もともとは資産家貴族の令嬢であるステファニーの、傷一つないほっそりとした指先が摘まんだ先祖代々伝わる宝石の可憐なネックレス。まだリンダには早すぎるから十歳といったのだろう。屋敷のどこかでリンダとステファニーが語り合う様子は一枚の美しい絵画のように脳裏に浮かんだ。
そして昨晩まで野ざらしになっていたそれを。
「それがいなくなる前の日」
ロバートの言葉にギャビーは目を見開いた。
内容もだが、ロバートの声が湿っていたからだ。ロバートの顔を覗き込めば、彼もまた涙をこらえていた、長い睫毛に雫が引っ掛かっていた。
しっかりしていると思っていた兄妹だが、年相応にはやはり子供だったのだ。
それはなお一層疑問を深める。
ネックレスの約束をして、これほどに愛されている子供がいて……どうしてステファニーは駆け落ちなどしたのだろう。
オスカーに聞けば、それほどに恋の相手が魅力的だったというに違いない、それしか彼には分らないのだろうから。でも。
……本当に間男などいたのだろうか。
今までの事実……いや、思い込みがすべて吹き飛ぶような仮説だ。
「きっとママもロバートとリンダを大好きだったと思うわ。今いないのはきっとどうしても避けがたい事情があるのでしょう」
ギャビーの言葉に二人は頷く。ということは二人にも母に愛されていたという自覚があるのだ。どうして彼女がいなくなったのか本当に分からない。
やがて夕食であるとアルマが呼びに来て二人は図書室を出ていった。
大事な人がいたのにいなくなった。
自分の思いついたことにギャビーは引っ掛かりを感じていた。何か、大事なことを忘れているような気がする。……というよりは根本的なところで勘違いしているような。
落ち着かなさを振り払うように、ギャビーはゆっくりと書棚の間を歩いて回り始めた。この間、子供には怖いだろうから、と書架に戻した一冊の本を手に取る。大アルビン連合王国の半分民話のような歴史書だ。
国の成り立ちを書いているようで、その実眉唾物の怪異譚が記されている。
どこそこで怪物が出ただの、死人がよみがえっただの、幽霊を見ただの。
ギャビーは立ったままそれを眺める。
なんといっても大アルビオン連合王国を興隆した王を征服王と評し、嫌っているルヴァリスらしいエピソードもある。
征服王は単なるシナバーではなく、もはやシナバーとさえも言えない化け物であったと。ご丁寧にドラゴンのような化け物の姿の挿絵までついている。立ち向かっているのは当時のルヴァリス公爵だろう。銀と宝石でできた短剣で追い詰めたが、卑怯な征服王の姦計によりあと一歩及ばなかったと記している。
当時のルヴァリス公爵の敗北により、この地は大アルビオン連合王国の支配下にあったから、この書物はよほどこっそり出されたのだろう。ここ百年程のルヴァリス地域への締め付けがゆるくなったことと、今さらルヴァリスが独立を考えるということもないという空気により、この本も洒落の一つとしてここに並べることができるようになったに違いない。
怪物なんていないのに。
いるのはきっと。
「ギャビー」
唐突に聞きなれない声がしてギャビーは顔を上げた。思考が散らされてしまったが、多分良くないことだったと思うので声はありがたかった。
「イライザ」
そこにいたのはローレンスの妻のイライザだった。今まで彼女から積極的に話かけられたことがなかったために、ギャビーの声が緊張で少し上ずった。
イライザはゆっくりと、上品な足取りでこちらにやってきた。
「お話ししたいことがあります」




