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「クイン先生」

 ギャビーは立ち上がってその老医師を迎えた。離れた場所で控えていた女中を呼び椅子をもう一つ増やしてもらう。菓子が追加され、女中が彼のために新しく入れたお茶は、ギャビーとモルにもふるまわれた。

 またあの変わった果実があることに気が付く。エイダンはマンゴーをつまんで、馴染みがないのは変わらないがこれはこれでおいしいという顔をした。


「お邪魔してしまったかな」

「いいえ、先生ともお話ししたいと思っていました」

モルは先ほどまで堂々とギャビーと語りあっていた姿など嘘のように、打ちひしがれた様子で頼りなく話す。


 今はそれが演技だとわかるが、彼女のその姿はあまりにも巧みで、確かにランディなどはひとたまりもないだろうと思う。


「本当は父があんなことになり、悲しんでいるべきなんでしょうけど、私は自分のことばかりで、恐ろしさが先に立ってしまって。……とても一人でいることなんてできないのです」

「その気持ちもわかりますよ。普通に病気などで亡くなったのとはまた違いますから」

 残された異常な状況の体の一部のことを話題にした。ギャビーにとっても身が震えるほどの恐ろしい出来事だった。


 だからこそモルの非常識なほどの気丈さが不可解だった。今彼女が演じている『希望が尽きかけた弱気な令嬢』ならば話が分かるのだ。

 でもそういう令嬢は、夜中に捜索活動をしたり、銃を放ったりしないし、錠前開けの技術だって持たない。


「公爵様のご様子は?」

 エイダンは目を伏せて首を横に振った。

「あまり良い状況とは言えませんね」

 空は明るく海は青い。けれどテーブルの周りには重苦しい空気があった。


「先生は、メリベル家とはとてもお付き合いが長いのですよね」

 ギャビーはやんわりと話題を変えた。不謹慎と思われたくないが、このまま陰鬱な状況で茶会が続くのも嫌だった。


「そうですね。オスカー様もランディ様もお生まれになった時からのお付き合いです」

「じゃあ、ロバートとリンダも?」

「皆健やかにお育ちになって何よりです。まあ五回とも特に問題のない出産でしたので、私よりも産婆が活躍していましたが」

 きらりとモルの目が光ったのを感じ取った。それは同じようにギャビーも感じたからだ。

 名前が挙がった出産は四人、エイダンは今、五回の出産といった。


 数が合わない。

 エイダンは自分が言った言葉を特に奇妙だとは感じていないようだった。慌てる様子がないのは失言に気が付いていないからだろう。モルも、そこをエイダンに今問い詰める気はないようだった。するりと聞き流し別の話に帰る。


「ランディはオスカー様と違ってやんちゃな子供だったんじゃありませんか?」

「いいえ、どちらかといえばランディ様のほうが聞き分けがよくて、オスカー様のほうが乱暴者でしたね」

 エイダンは懐かし気に目を細める。メリベル家には何か秘密がありそうな気がしているがそれがこの老医師を悲しませることにならければいいのにとは思う。

 ただ、彼もまたメリベル家の秘密の一つなのかもしれない。


「オスカー様はお母様が亡くなられてからとたんにお行儀よくなられて。幼いながらに気を使っている様子が気の毒でした。それを見てランディ様もなおさら明るくふるまわれたんですよ」

「仲が良かったんですね」

「とても」

「お二人があまり話さなくなってしまったのは」

 エイダンはそれには答えなかった。


「もし、ステファニー様が」

 そう言いかけて口を閉ざしただけだ。

 ステファニー様が駆け落ちなんてなさらなければ。

 そう言いたかったのだろうか。間男の存在だとばかり思っていたステファニーの失踪にランディもオスカーも関係しているのだろうか?

 その時、ガラス窓が軽く叩かれた。三人でそろって屋敷の廊下を振り返ると、ランディがベランダに出てきたところだった。


「三人で楽しそうじゃないか」

 愛する娘の父親が失踪したという現状もあって、その笑顔は控えめになっていたが、いつもながらの親しみやすい雰囲気は変わらず、こちらにやってくる。


「モル」

 甘く囁いてモルの額に口づける。微笑んでモルはそれを受けると、あなたもこのお茶会に参加なさいます?と尋ねる。

「もちろんだよ」

 ランディはそう答えながらもすでにテーブルの上の菓子をつまんでいた。クッキーにドライフルーツ、チョコレート、プチケーキ。口に合わないと思ったものは、一齧りで放り出すのが、彼の生まれ持った贅沢を思い出す。最後にはモルの紅茶を拝借して飲む始末だった。


「ランディ、行儀が悪いですよ」

「ごめん。ロバートと海で遊んできたから喉が渇いて」

 ランディは甘えるようにモルに言う。ミアの姉ギャビーへの配慮がなくなったのは、ここ数日一緒に過ごしてギャビーがなにも言わないと確信を持ったからであろうということは想像ができた。

 それを責めることはたしかにギャビーにはできないのだが。

 だが。


「海は奇麗だったよ」

 女中が遅れて持ってきた椅子に座ってランディは言った。

「ロバートも退屈しているようで。クイン先生、アンソニーを連れてきてくれないか」

「とはいえ、今この屋敷を離れるのは心配だ」

「ちょっと早くても、ロバートももう首都の寄宿舎学校で勉強させたほうがいいかもしれない。そのほうが彼も退屈しなくていいだろ」

 唐突に、風にあたって噎せたかように軽く咳込んでランディは言った。


「まだお母様が恋しい年ごろじゃありませんか、イライザがよく面倒を見てくださっているようですよ」

 モルは眉をひそめた。そんな表情も美しい。ランディもそう思ったようで彼女の手を握り締めた。

「モルは子供が騒いでいても平気かい」

「子供は騒々しいものでしょう。ランディ、あなた自身が少々子供っぽいのですよ」

 モルの遠回しな非難にもランディは脂下がっていた。そもそも批判だと思っていないのかもしれない。


「モルが甘やかしてくれるからね」

 ランディは奇妙な咳を続けた。ギャビーは他の二人もその異常さが気になり始めていることはよくわかった。息苦しそうに首をかしげながら大きく息を吸う。

「なんだか」

 ランディは胸のあたりを手で押さえた。


「すごく息が苦し、い」

「ランディ!?」

 大きく肩で息をするランディにエイダンが最初に動いた。椅子から崩れ落ちそうになるランディを支えようとする。

「先生」

 椅子を蹴って立ち上がって、ギャビーはそれに加わった。老人の腕では支えきれなかった彼をギャビーのシナバーの手はたやすく支える。


 ランディは真っ青な顔で喘いでいる。

 ギャビーはいっそ、とばかりに彼の背と膝下に手を差し入れて抱き上げた。シナバーとはいえ女に抱きかかえられるなど不名誉と感じるかもしれないが、そんなことを言っている場合ではない。


「先生!」

「ここなら一階の客間にあるソファが近い」

「ランディ!?」

 三人は朦朧としているランディに呼びかけながら慌てて階段を下りた。駆け込んだ客室の長椅子に彼を横たえる。すぐに横向きになって彼はソファに爪を立てて苦しげな喘鳴を続けている。

 女中に声をかけたモルが、水差しとグラスを持ってきた。少しだけ注いで、恐る恐る差し出す。なんとか少し飲み下したが、むせて吐き出してしまった。それでも意識はあるようで、少しづつだが飲もうと努力している。


「私、オスカーを呼んできます」

 ギャビーは思いついて立ち上がった。モルでもいいのかもしれないが、ランディは心細そうにモルを見ているから彼女をここから引き離すことはできそうになかった。

 部屋を慌てて出ながらギャビーは考える。

 突然の呼吸困難など、あまりにも出来すぎている。


 毒、だろうか?

 いや、そんなはずがない。ランディが口にしたものは、すべてギャビーとモルとエイダンが先に口にしている菓子たちだ。紅茶に至ってはモルのものだったのだ。注がれた時点では、ランディが来るなど予想もしていなかった。たとえ来たとしても彼が口にするとは限らない。


 あるいは。

 ギャビーは思い至ってもう一つの可能性に気が付く。

 たまたま切り抜けたが、そもそもランディではなく、あの場にいた三人を狙ったものだとしたら?

 だとすれば、なおさら何が原因なのかわからない。


 ギャビーはただ、オスカーの書斎に急いだ。廊下を足早に通り過ぎる。ドレスの裾を翻している自分が、鏡のように磨かれた銀の壺に映った。

 ほとんど人の身長ほどもある壺は廊下の端に置かれていた。通り過ぎようとしたギャビーは何かを感じ取った。半ばつんのめるようにして足を止める。


 緩い曲線に自分が映っている。歪な形からは顔立ちははっきりわからない、でも当然自分だ。たとえ。

 ……たとえ右目に朱がさしていても。

 歪んだ表情はにぃと笑った気がした。


「ひっ」

 ギャビーは口元を抑えて一歩下がった。

 一瞬でそれは右目も青いだけの女が怯えた表情で立っているだけに変った。


 ここに来た晩も、何かを見た。

 何かがおかしいのだ。それは自分自身かあるいは。

 ギャビーは恐怖に近いなにかを覚えながら壺から離れ、オスカーの部屋に向かって走り出した。

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