19
深夜、ギャビーは唐突に目を覚ました。
微かに窓越しに波の音が聞こえた。室内は暗く、カーテンの隙間からの月光が差し込むばかりだ。
オスカーとの会食を終えて、指先を触れ合わせることすらなく別れた。
少し飲みすぎてしまったのかもしれない。出されたワインはとても美味しかった。暗い部屋の中でギャビーは目を開けてじっと天井を見ていた。この闇では昼間ならはっきりと見える美しい天井画は全く見えなかった。
目を閉じて寝返りを打つ。アルコールが入ったせいか、うまく寝付くことができない。やがて諦めて、ギャビーは寝台から降りた。水差しの水を一口飲んで、自分が喉が渇いていたと知った。
そのままギャビーは窓辺に寄った。今、何時かはよくわからなかったが、まだ夜明けの気配はなく半月が強く輝いている。眼下の浜辺の波の満ち引きが奇妙に明瞭に見えた。
これは恋なのだろうか。
そんな益体もないことをギャビーは考えていた。オスカーはいい人だ。偏見がいかに愚かな事かを理解していて、けれど自分もそういった罠に陥ることもあるだろうと思慮深い。それだけでもギャビーの生きる世界ではめったに会えないような好人物だった。
世界。
そうだ、世界なのだ。このルヴァリスは。
知識としては、ルヴァリスは大アルビオン連合王国のただの一地方で、国そのものはさらに巨大な大陸に属し、モルに至っては新大陸と呼ばれる別の大陸から来たということも知っている。知っていてもギャビーはどこにも行けない。生まれた町を出たことすらない。
オスカーが自分に好意的なのはわかっている。もしかすると彼のそれはギャビーへの恋愛感情かもしれない。
でもそれを信じて自分から動き出すようなことはできないのだ。
うかつなことをしてメリベル家との関係が悪くなれば、ルヴァリスでのギャビーの立場はとても悪くなる。大きくて小さい世界が壊れるのは一瞬だ。
「本当に、馬鹿みたいなことを」
ギャビーは独り言ちた。
白い浜辺を見ていても仕方ないとカーテンを閉めようとした時だった。
今まで見えなかった崖の陰から、人影が出てきた。
まるで踊っているような軽やかな足取りで浜辺を進んでいく。それが女性であることは体格で判断が付いた。しかしこの距離で顔は全く見えない。ゆったりとした白い寝間着のようなものに体を包んでいて、裾がひらひらと舞っていた。
髪は無造作に下ろされて、金色か、あるいは純白に見えるほどに、月光を受けて輝いていた。
「……ミア」
まさか、と思う。ギャビーの理性はきちんとそれをわかっているのに感情は事実を完全に無視した。
ミアのはずがない。彼女はあの日崖から落ちて、砕けた馬車の破片に傷つけられながら海に沈みそのまま朽ちて行ったのだ。
そう考えることが一番正しい。
半年かけて思い込もうとしたことなど、その女性を見た瞬間に吹き飛んだ。
ギャビーは椅子の背にかけておいた肩掛けを掴んだ。
そのまま焦る心を抑え込んでそっと部屋の扉を押した。それからサロンへ向かいかけ、立ち止まった。あの部屋から崖の階段を降りる道筋はだめだ、サロンは夜間閉鎖されているからだ。
それならどうやって崖を降りる。
一瞬でまだ慣れない城のことを考える。
そうだ、図書室の窓は壁一面の大きな窓で、開ければ外に続いている。庭を横切れば崖に辿り着くことができる。崖を降りることは、シナバーであるギャビーなら無理ではない。
思いついたギャビーは急ぎ足で廊下を進んだ。柔らかな布製のスリッパはカサとも音を立てない。階段を降り、一階のサロンとは反対の図書室に向かった。
当然図書室にも鍵がかかっていると気が付くのはそこに行ってからだった。もちろん鍵を壊すことなどギャビーにはたやすいがとてもそんなことはできない。しかたなく身を翻して最初の予定通りサロンに向かった。もしかしたら、ケネスが閉め忘れていてくれるかもしれないという淡い期待だった。
巨大な屋敷をほぼ半周してギャビーは息切れ一つなく、扉の前に辿り着いた。フィリップ・キンケイドが死んだ場所だ。警戒は強く間違いなく扉は閉まっているとほぼ確信しながらそっと押す。
わずかの軋んだ音を立てて、扉は開いたのだった。
意表突いた現実に一瞬ギャビーの手が止まる。
「どういうこと」
あんな事件があった晩に鍵を閉め忘れるなんて。
それでも迷っている時間はなくギャビーは足を踏み出した。
滴っていた血は拭い去られ、汚れた椅子は片付けられていた。二人の女の絵だけが静かにギャビーを見下ろしている。
しかし彼女らを眺める余裕もなく、ギャビーは先に進んだのだった。回廊への扉は開け放たれており、ギャビーは進みその先は外だと気が付いた。
上履きを脱ぎ素足になってギャビーは回廊を進んだ。ひやりとした夜の気配が肩掛け越しにギャビーにまとわりつく。
あれがミアだなんていう根拠はなかった。
でも公爵家領地の海岸で深夜、薄着のまま歩く女など異常な光景だ。
異常な事故でいなくなった女なら、似つかわしいような気がする。ひたひたと音をひそめて石畳の回廊を進む。回廊からは海の様子を見ることができないため気ばかりが焦った。回廊はやがて階段に変わる。やがて一度目に来た時と同じように、廊下の壁は消え、崖に張り付くむき出しの階段ばかりとなっている場所までたどり着いた。その先は鉄格子で仕切られている。
海が見えた瞬間、ギャビーは立ち止まった。そこから見える場所にはすでに人影がなかったのだ。遠くまで良く見える。でもそこには誰もいない。
……もしかしたら崖の真下の死角にいるのかもしれない。いなくても足跡くらいは残っているかもしれない。
鉄格子にギャビーは眉をひそめた。ここの鍵は持っている。あの日オスカーから預かってそのままだ。けれどこんな騒ぎがあって使うのは気が引けた。けれど好奇心を止めることはできなかった。差し込んだ鍵はぎぃっという音を立てて軋みながら回った。
ギャビーが踏み出そうとした時だった。
物音が聞こえた。下の方からこちらに向かって何かが近づいてくる。崖に沿って緩く湾曲しした階段の先の景色は見えず、音だけだった。立ち止まってギャビーはむこうを眺める。
最初は誰かが、海の方から戻ってきているのかもしれないと思った。しかしそれには首を傾げる。こんな真夜中に、誰が一体降りていたというのだ。しかも鉄格子は閉まっていた。
ならば野良犬か野良猫、なにか生き物かと思ったが。
足音に耳を澄ませた瞬間背筋が総毛だった。
今まで耳にしたことのあるどんな生き物の足音とも似通っていなかったのだ。濡れた重い砂袋でも引き摺っているような、不可解な音だった。
慌てていて、明かりを持ってこなかったことを公開した。階段を照らすのは月光だけだ。青白い光の下の濃紺の影。
ヒュッ。
突然の空気を切る音に、とっさに手で身をかばった。腕に何かが触れたと感じた瞬間には全力で手を払っていた。シナバーの力をもってしても、重く、強いと感じる何かが石の階段に叩きつけられた。
「ひっ」
ギャビーは短い悲鳴を上げた。
階段の上では這いずっているものは、見たこともない何かだった。
ギャビーの食卓に提供されるものは調理され、食べやすくしたものだが、かつてたまたま見たことのある蛸の足を思い出させた。吸盤はないが暗がりに消えてしまう先が見通せないほどには長い。ぬるりとした赤黒い肉塊で人の太腿ほどの直径があった。ぬらぬらと粘液状のもので湿っていて、内側にある色素の成分のようなものが点滅するように頻繁に模様を変えている。
巨大な海生生物?
想定もしていな物体を前にギャビーは自分の知る知識から必死につじつまの合うものを探そうとする。石畳の上で這うそれを息をつめて見下ろしていた。逃げなければと思考に電撃が走るが、得体の知れなさに逆に動けない。
それでも一歩、後退った瞬間、階段の段差に踵をひっかけた。不用意についた尻餅の音に反応したようにそれが動く。投げ出した足首に絡まって、ギャビーは悲鳴を上げた。それは見た目とは裏腹に体温のように温かい。滴る粘液と相まって不快極まりない触感だった。
そこで一気に引きずりおろされて、石階段に全身を打ち付けて激痛が走る。薄い寝巻が裂けて擦った腕から血が滲んだ。
「……!」
ギャビーは階段を引きずられながら触手をつかんだ。なんだかわからない。大きなミミズかもしれないが、ともかくこのままではいられない。
全力で引きはがそうとしたがシナバーの力を持っても絡まったそれは足首から離れない。それどころか思わず悲鳴を上げてしまうほどにさらに強く締め付けられた。よく整備された階段には小石一つ落ちておらず、武器になりそうなものはない。思い切ってギャビーはそのぐにゃりとした物体に爪を立てた。力を込めて粘液に沈めると、ぶつりという感触と共にそれを指先が貫いた。そのまま得体のしれない感触に呻きながら横に引き裂く。
痛みを感じているようにそれは震えたあと、ギャビーの足から離れる。慌てて足を引き、這って階段を登ったギャビーは振り返って息を飲んだ。
触手が二本、増えていた。
階段の奥から、這いあがってくる。
シナバーである以上、そうそう負けないし、力で破壊できるものだとわかったが、恐怖心が先になってしまい、武器がない今では逃げるしかない。それなのに、すくんでしまって動けない。目を見開いて、こちらににじり寄ってくる三本の奇妙な触手を見つめた瞬間だった。
鋭く重い音がして、目の前の触手の先端が弾け飛んだ。肉に似た内容物を吐き散らしてびたんびたんと暴れる。音は続けざまに四回響いた。
銃声だと気が付く。
一回はその物質を再び打ち抜き、二回は外れ、最後の一回は暗い階段の向こうに消える。当たったのか、当たっていないのかも定かではない。
……硝煙の匂いが漂ってきて、ギャビーは階段の上を仰ぎ見た。
ひらひらと風に揺れているドレスの裾が見えた。小花柄のドレスだ。あまりにも現実味がなくてあっけにとられたままギャビーはその主を見る。
「立ってください」
鋭い声にギャビーは慌てて身を起こす。声は知っていたが口調はなじまないという不思議な感覚に戸惑う。
立っていたのはモルであった。
可憐なドレス姿は記憶にあるとおりだが、彼女の前にまっすぐ突き出した両手には、それぞれに銃が握られていた。




