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 エイダンは食事がすむとすぐにローレンスの部屋の横に与えられた自室に引き下がった。残されたオスカーとギャビーは図書室に移動してまだ話を続けていた。

 図書室の大きなガラスの窓は夜となりカーテンが下りているが、とても静かで居心地がいい。


「ステファニー様のお姿を見ました」

「ああ、あの肖像画かい」

 オスカーは少し酒が進んでいたのかすんなりと心に届く素直な響きだった。ほろ苦い口調が気の毒に思えた。


「ええ」

「父が本館に置くのを許さなかったからね」

「……それはステファニー様の不名誉な噂を信じて?」

「まあそうだ」


 オスカーはギャビーと目を合わせなかった。それはどこか悔しさをにじませているようにギャビーには思えた。ステファニーがどこかの馬の骨と駆け落ちしたのかもしれないと考える、いや思い込んでいるローレンスの頑なさに疲れているようだった。


「オスカー様はそれを信じていないように見えます」

 オスカーはグラスにわずかに残った赤ワインを無言でしばらく眺めていた。そこでギャビーは言い過ぎたと気が付く。

「ぶしつけなことを申し上げました」

「……いいよ」

 いきなり言われたので、何を告げられたのかとっさにわからなかった。唐突な気さくさに困惑してしまう。


「そう仰られても」

「いいんだ。君とは率直に話をしたいから」


 もし自分が、いろいろなことを知らなかったら一瞬ときめいてしまいそうだと思う。ランディと結婚したかったミアが、自分という身内のシナバーの存在でメリベル家から酷い言葉を投げつけられていたことを察している今では、とてもオスカーの優しさをそのまま受け入れることはできない。オスカーは信頼に足りてもメリベル家は恐ろしい。

 それにオスカーは今もステファニーを想っている。


「あれはステファニーが選んだんだ」

 オスカーは天井を見上げて言った。

 そこにぶら下がっているのは無数に取り付けられ、光を取り込んでは複雑に反射して煌めく豪奢なシャンデリアだった。最初にこの場所に来た時から見事なものだと思っていた。


「あれは……とても素晴らしいものでしょうね」

 ある程度裕福な家庭で育ったギャビーでもその価値は見当がつかないほどだ。

「彼女との婚礼が決まったころにちょうどこの部屋の照明の劣化が目に付くようになってね。彼女がそれを知って、新しいものを嫁入り道具の一つにしたいと望んだ。ステファニーの両親は彼女の望みを聞いてこれを用意したらしい」

 反射する光のかけらがオスカーの瞳に一瞬映り込んで消えた。


「父はこれも外したかったようだが、そのあまりの価値にやめたようだよ。……わからないな、彼女の持ちこんだ物はもうメリベル家のものだと考えたのかもしれない」

「……それにご同意はなさらなかったのですか?」

「……シャンデリアを残すという事実だけなら父に同意だ。でもきっと理由は違うだろうね」

 オスカーが最後まで言わないことをギャビーは深く察することができた。


「まだ」

 言いかけてやめる。オスカーの中に誰か愛しい人がいることは間違えようもなかったのだ。自分に何かができるだろうかと思ったが、それを考えるにはまだ早い。オスカーの人となりすらよくわかっていないのだ。

 ステファニーのことに踏み込むことはできなかった。


「どうしてだろうな」

 ギャビーが口ごもっている間にオスカーがこちらを向いてじっと見つめてきていた。

「え?」

「君にはいろいろ話してしまう。ステファニーがいなくなってから彼女のことなどランディにすら話したことがなかったのに」


 それは嬉しく思ってよいことのように思えたが、うまく飲み込むことができなかった。もしかしたらオスカーは長く抱えていたステファニーの裏切りから立ち直ろうとしているのかもしれない。

「でもそれは私の甘えかもしれないなあ」

 柔らかい口調だからこそ、オスカーの戸惑いが掴める。


「君のことだから、父がシナバーのことを貶める発言をしていたということは想像がついているんだろう?」

「……正直に言ってそうですね」

 ギャビーの率直な言葉にオスカーは苦笑いをした。


「我が家が傷つけている相手に甘えるのは申し訳ないものだ」

「傷ついてもいませんし……特に甘えて頂いている気もしませんよ」

 そうか、となぜか嬉しそうにオスカーは答える。


「父はもう年寄りで先も長くない。今までずっとそれが真実だと思い込んでいたことを覆すのは大変難しい。だからと言ってシナバーへの偏見を許していい理由にはならないが」

「正直に申し上げれば、わたしも不快は不快ですよ」

「そうだな。それはこちらの勝手な都合だ」


 その一言でオスカーは信用に値する人間だということはわかった。自分の非をかくもあっさり受け入れる。それができる人間は少ない。

 今は父に気を使っているようだが、ローレンスが亡くなれば彼は優秀な領主になると予想できる優しさと聡明さを持っている。ローレンスが傍若無人にふるまっているのはもはや先のない人間としての不安だからかもしれない。


 とは言え自分がローレンスに会ってそれを非難したところで、彼は何一つ学ばないし凝り固まった思想を解きほぐすの難しいだろう。

 ローレンスの様に頑なな父親のもとで、どうしてこのような寛容な思想をもつことになったのかは不思議だった。


「ローレンス様とはずいぶん考え方が違うのですね」

 オスカーは軽く片方の眉を上げた。ろうそくの明かりが揺れているのが彼の目に映っていた。


「時代は変わるものだ。都会で勉強すればそれはわかる。わからねば時代は乗り切れない。ルヴァリスばかりやたらと昔の因習が残っているが、それは建国王憎さと言う極めて感情的なものだ。シナバーへの偏見もね。馬鹿々々しいと思わないか、三百年も前のことで。大アルビオン連合王国ができなければマリアンヌ共和国やスヴェントヴィト帝国に併合されていた可能性だって高い」

 オスカーは珍しく強い口調だった。


「他の地方ではシナバーの身体能力の高さを認めて他の数倍の賃金を使って雇用しているところがある。偏見無く有能でさえあれば要職にだって取り立てているだろう。うちばかりが遅れている」

「……もともと豊かな場所だったから変わらなくても良かったということかしら」

 ルヴァリスは温暖な気候に十分な雨量を含む大河もあるという農業に適した地だ。しかも大きな港も持ち貿易の中心としても発展してきた。


「そうだな」

 オスカーは頷いた。

「でも時代は変わる。港の機能だって首都に随分取られ始めている。農業だけではもう豊かになれない時代は近づいている。父にはそういったことはわからないらしい。むしろ母の方が」

 そこでオスカーは口を閉じた。ちらりとギャビーを見る。


「母の話などつまらないだろうか」

「そんなことありませんよ」

 奇妙な配慮は微笑ましかった。もしかしたら彼自身が、母親に肩入れする気持ちが強いことを自覚していて少し照れくさいのかもしれない。


「お母さまはアデライン様ですよね。ステファニー様の肖像画と一緒に見ました」

「私が十二歳の時に亡くなった。身内のひいき目かもしれないがとても優しく聡明な人だったと思う。アーソニアの伯爵家の人間で女王とも親しく、その教養をかわれて侍女として仕えていたらしい」

王女の侍女とあれば相当立派な家系の生まれだ。下手すれば王位継承権だって持っていただろう。


「シナバーだからと言って差別するなどおかしいとは、よく言っていた。それで父と対立することもあったようだ」

「気丈な方ですね」

「たぶんその美貌だけで見染めて父は後悔したと思うよ」


 それはやんわりとした両親の不仲の告白だった。

 この人には頼れる相手があまりいないのかもしれない。

 ギャビーはふとそんな風に思った。彼に肩入れしすぎだろうかと思うが。


 父とは意見が合わないが、今のところ意見を聞かないわけにはいかない立場だ。

 母はとうの昔に死んだ

 お互いに好き合って結婚したはずの妻ステファニーは他の男と連れ立って逃げてしまった。

 弟は気立ては悪くないがルヴァリス地方を負って立つ気概と能力はない。

 子供達はまだ幼い。

 唯一友人と言えるのはエイダンだが、彼は年と立場が違いすぎる。

 パートナーと言える存在がいない状況でこの立場にあるのはつらそうだとギャビーは同情心が沸き上がってきた。


 首都にいた学生時代に親友と呼べる相手ができなかったことは気の毒だった。そつなく友人関係はこなしただろうが、ルヴァリスで力になってくれる相手は見つけることができなかったのだ。

「だから私はランディがミアと結婚することは嬉しかったんだ。普通の感性を持った人間がこの一族に加わることはとてもありがたい。しかもヴェスパー家は商家だ、きっと新しい世界を教えてくれるだろうと」


「シナバーが姉でも?」

 道化た言葉にオスカーは微笑んで頷いた。

「シナバーが姉でも。むしろ、だからこそ新しい何かを運んできてくれる」

 オスカーはワインをギャビーのグラスに注いだ。


「ミアがいなくなる前に、君と話をしておくべきだった」

 しみじみとした口調だった。

「君の人となりを知っていれば、もっと心の底からランディとミアの結婚を推し進めることができた。父の横やりなど入れさせなかった」

「ありがたいお言葉です」

「君は本当によく人の話を聞いてくれる。それはもう昨日わかっていたんだ。だから」


 そしてオスカーは口を閉じる。落ち着きなくあたりを見直した後

「いや、後のことは特にいうほどでもない。忘れてくれ」

 と早口で言った。


 ずっと家庭の中ではミアと両親に気を使って生きてきた。両親も悪い人ではない。けれど関心の総量がミアと均等に配分されていたわけではない。だからギャビーは人の心に聡かった。誰が何を考え、欲しているのかをすぐに理解することでしか、居場所を見つけられない。

 そしてオスカーが、ギャビーに心を開き始めているであろうことも感じ取っている。


「わたしもオスカーにはお話をよく聞いていただいて嬉しいです」

 そっと微笑む。

 安易に好きだなんて言えない。

 ランディとミアとは全く話が違うのだ。

 シナバーへの、そして階級への偏見を憎み、変えたいと願いながらもその中で生きていることの難しさをギャビーはよく知っていた。


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