16
「なにか食べる気になったかと思って」
ワゴンには美しくカットされた果実が数種類、銀の皿に盛り込まれていた。
「ごめんなさい、一人だけ、立ち去ってしまって」
「いや、無理もないと思う」
オスカーがベッドの脇に椅子を引いてきて座った。いくつかの果実を小皿に取りフォークと共にギャビーに渡す。
「ケネスから話を聞いたんだ。でも君にも話を聞きたい」
「ええ」
ギャビーは甘酸っぱいラズベリーを口にいれた。いくらか気分が良くなる。
「君とケネスが一番にフィリップの腕を見つけたから。あれは朝一番だったよね」
「海に行こうと思って部屋を出たらケネスに会って。わたしが海に行くのだと言ったら扉の鍵を開けてくれたんです」
「鍵は閉まっていた。そしてあの室内には腕しかなかった」
「血もほとんどありませんでした。最初はキンケイドさんはソファに座っているように見えたんです。でも近づいたら」
ギャビーは胸を押さえた。たとえシナバーであって血を飲んでいるといってもあんな無残な姿に関わったことなどないのだ。
「あの……体は見つかったんですか?」
「一通り城内を探したがまだ見つかっていない」
「モルは?」
「……まだ言っていないんだ」
「えっ」
ギャビーは息を飲んだ。フィリップに起きた何らかの事件を娘にまだ告げていないというのか。
「この出来事を知っているのは、僕とケネスと君、そして父。あとは口留めをした女中だけだ」
「警察は」
「言っていない」
「どうしてですか?」
ギャビーには理解できない。その生死は不明であっても大怪我をしていることは間違いない人間がいるのは確かなのだ。
「父が大事にすることを望んでいない」
オスカーは苦虫を噛み潰したようだった。実態はほぼ彼が公爵の仕事を代行しているような状況であってもいまだローレンスはこの家で無比の支配力があるのか。
メリベル家はルヴァリス地方で絶大な権力と財力を持っている。何か事件が起きたとしてもそれをもみ消すことくらい簡単だろう。だからローレンスも警察に通報してこの屋敷に踏み込まれることを嫌うのだ。
モルがどう考えるかはまだわからないが、彼女が望んでもメリベル家が警察に届ける気はないということは容易に推察できた。次男の婚約者とは言えローレンスは何もかも自分の思い通りに運びたい人間なのだ。
「モルには、フィリップは少し街に出かけたと言ってある。ただ長くは誤魔化せないだろうからそろそろ言うつもりだ。本当は何が起きたのかを把握してから伝えたかったが……。サロンは片付けて腕はしまい込んだ」
「片づけた!?だって警察にまだ言ってないんでしょう?」
オスカーは困ったように微笑む。その表情で彼と父の間ではこの事件を公にするつもりがないと決めていることが分かった。ギャビーは背筋が寒くなる。
「……妻の時も」
ぽつりとオスカーが言葉を落とす。先ほどの微笑みとは全く違っていて、その表情は空虚だった。
「結局醜聞を出すまいとして、父が公にして調査をすることをやめた」
「……オスカー、あなたはそれを不愉快に思ったのでしょう?」
ギャビーは自分の口調が彼を責めていることに気が付いたが止められなかった。
「公爵様のお考えはともかくとして、あなたはどう考えるの?だってこれじゃあ、モルは自分の父親の死もわからないままになってしまうのに」
「当家としてももちろん調査はするが」
「モルが警察に訴えるかもしれない」
そういったとたん、また彼はどうとも気持ちを読み取れない笑みを浮かべた。多分そうやって自分の考えを曖昧にして父に従ってきたのだろう。ギャビーはそれに嫌悪を感じるが、彼自身が自分をどう考えているのかはわからない。
……そしてはたして自分に彼を非難する資格があるのだろうかとも思う。
自分だって両親の言うことに従ってきている。こんな事件に巻き込まれたことはないが、もし父がそう言ったら自ら立ち上がれるだろうか?いや、そもそもこの件も両親に相談すれば、「公爵家がそう決めたのならお前が口出しすることではない」と言うだろうし……、そして自分は従うだろう。
それがどうしようもない、殆ど生理的と言ってもいい嫌悪感を伴う行動であったとしても。
オスカーに言うべきことを失ってギャビーは口をつぐんだ。そして戸惑って手元の皿を眺める。見慣れた果実に混ざって、不思議なものがあった。オレンジ色のそれは乾かされていて他のみずみずしい果実とはまた違う雰囲気だった。
「これは?」
「ああ、それはマンゴーという果物でね。南方の植民地から届いたものだよ。町の商家が最近仕入れたと言って今朝持ってきた。そのままでは長い船旅に耐えられないからドライフルーツとして輸入している」
物珍しさにギャビーもそれを一つつまんでみた。珍しい行儀の悪さでオスカーも一つを取り上げて口に放り込む。
「……甘い」
「ちょっと不思議な香りもするね」
オスカーは微笑んだ。もういいなら無理しなくていいよ、とう寛容の笑みだった。この変わった南方の果物も、ギャビーを元気づけるために持ってきたのだろう。
もしかしたら同情だったのかもしれない。家という存在としては不確かなのに強固に自分を支配する存在に対して、ただ立ち尽くしている自分とギャビーの間に繋がる何かへの。
ギャビーはもうオスカーを責めるのをやめるしかない。
「……いろいろお気遣いいただきありがとうございます」
ギャビーは皿を返す。
「こんな事件になってしまって、ここでお客様扱いを受けているのも申し訳ないですから、わたしは家に戻ることにします」
オスカーはその言葉を聞いた時、心底申し訳なさそうな顔をした。彼にしては珍しく言い出しづらそうに逡巡している様子があった。
「いや、ここにとどまっていて欲しい」
「でも」
「父が考えているのは家名に傷をつけたくない、あらゆる醜聞と関わりたくないということだ。君が街に帰ってこの出来事を言いふらすことを恐れている」
「わたし、そんなことしません」
「わかっている。ただ、父がそれを恐れているんだ」
申し訳ないとオスカーは言った。この様子では当然モルもここから離れることはできないだろう。住み込みであることをいいことに、使用人も町に出すことを許さないのかもしれない。
「何も気に病むことはない。でも申し訳ないがしばらく堪えて欲しい」
奇妙な言い回しにギャビーはオスカーの顔を見た。その時にはすでにいつもの淡々とした温和な顔に戻っていた。
けれどその瞳を見た瞬間、ギャビーにもわかってしまったのだ。
フィリップは単身成りあがった男で、今は退いたとはいえその頑健な体で採掘現場に出ていたほどである。荒くれ者とも渡り合ったであろう。
そんな男の腕を切り落とす……あるいは引きちぎることのできるほどの強者がどれほどいるのだろうか。
ギャビーはオスカーと見つめ合った。
ギャビーがオスカーの考えていることに気が付いたと、オスカーも勘づいたらしい。だからギャビーは嘆息した。
そして遠慮なく言う。
「わたしがキンケイドさんを傷つけたって思われているんですね」
「父が勝手にそう思い込んでいるだけだ」
すまない、とオスカーは頭を下げた。
「確かにわたしにはキンケイドさんを傷つける理由があるかもしれません。妹の婚約者が次に見つけた恋人の父親ですから、逆恨みをしようと思えばできるでしょう。それにシナバーですから」
「別に私は疑っているわけじゃない……だって君、ランディに興味はないだろう?」
「ありません。ミアがいない今、彼に思うこともそれほどないんです」
「君が、昨日の夕方」
オスカーはギャビーの言葉に重ねるように言った。言うことが嫌すぎて早口で済ませたいとばかりだった。
「フィリップとあそこで口論していたのを見ていた使用人がいるんだ。もちろんそのあとフィリップは夕食にも現れたからそこでどうということがあったわけではないが」
「どちらかというとわたしの方が彼に文句を言われていたんですよ」
「それは想像がつくよ。モルはいいお嬢さんだが、フィリップはモルとランディを結婚させたいと強く考えているようだったから、君を邪魔と思えば失礼なことの一つや二つ口にするだろう。それが不安だったから私も君を今この屋敷に呼ぶことは反対したんだ。でもあのバカは頭に花が咲いているから」
言って、オスカーははっとしたように口を閉じた。
「……もしかして、弟に困ってます?」
いままではそれなりに湾曲な表現をしていたが、オスカーがつい口走ってしまった率直な罵倒にギャビーも目を見開いた。
オスカーは初めて見せるような困惑顔を浮かべた。一瞬ギャビーから目をそらし深くため息をつく。
「まいった……」
指先を伸ばしてこめかみを揉んだ。それからギャビーに向き直る。
「まあ、本音だ。ランディはどう考えても次男ということで甘やかされて育った。悪い奴じゃないが自分が第一で、自分が考えたことはすべて素晴らしい考えだと思っている。自分が歓迎されないわけがないとも、ね」
「……忠告しないんですか?」
「もう言って聞く年でもない。いつか痛い目を見るだろうと思っているが、なかなか見ないんだ。本当に腹立たしいくらいに悪運が強い」
つい、微笑んでしまった。人が死に、公爵はそれを隠匿しようとしている。そもそもミアはまだ行方不明だ。それでもオスカーが見せてしまった本音を微笑ましく思った。
「どうにも困ったものだ。君にはついぺろっと本音を口にしてしまう」
「似たもの同士って思っているから?」
「そうかもしれない。お互いに理解されにくいこだわりがあるからかもしれないね」
『家』に言われるがままでいいのかと戸惑いつつ、そうせざるを得ない、ギャビーが考えたのはそのことだが、オスカーにとっては違ったらしい。
「君も大事なのはミアのことだけだ。私にもどうしてもないがしろにできない人がいる」
オスカーの言葉には胸が痛んだ。
きっとステファニーのことだろうとギャビーは思った。
ほかの男と逃げた妻。公爵をはじめとして他の誰もが忘れるべきだと言っているが、オスカーにはできないのだ。
公爵家とは格が違い過ぎる上、自分がシナバーという負い目もあるが、ギャビーはオスカーの手を握ってあげたいと思った。
とても行動には出せなかったけど。




