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「どうなさったのですか、こんなところで」
「ここも我が家の庭だからね」
「……よく考えたら失礼な発言でした。ごめんなさい」
「まあ確かに来るには面倒な場所だから」
オスカーは笑う。
その笑顔から確かに彼は、ここに来る前に見たサロンの肖像画の女性、アデラインとよく似ているわかる。
「君こそどうして?」
「一時期は嫌いでしたけど、もともと海は嫌いじゃありませんから」
「もう少し暑い季節だと、海水浴もできるからね。ロバートとリンダも盛夏には海水浴で遊んでいる」
それを聞いてギャビーはふと先ほど考えたことを口にした。
「ここに来る階段は、子供は通るには少し危ないように思いました。やはり二人には来ないように伝えているのですか?それなら時々来ることができる夏は嬉しいでしょうね」
オスカーは一瞬答えに窮したようだった。それから言う。
「危ないかな」
「子供には危ないですよ」
この人は、まったく対応していなかったのだと気が付いて呆れる。
オスカーはしばらく考えてそれは筋が通っているとわかったようだった。
「……そうか、ちゃんと鍵を閉めることにしよう。やはり男親だけというのは肝心なところで気が回らなくてダメだな」
苦笑いをする。ギャビーはため息をついた。
「そんな言い訳をしてもダメですよ。子供達には注意してしすぎることはないんですから」
これだけではオスカーを責めすぎだと気が付いたギャビーは付け足す。
「ミアも怪我をしたことがあります。ミアはちょっと傷が残ってしまって」
あの、唯一違う、瞳の色のことを思う。ギャビーはそれを美しいと思ったけれどそれは罪悪感の一種だったのかもしれない。
「肝に銘じるよ、ありがとう」
気が回らないだけでオスカーは素直に忠告を受け入れた。
「ステファニーがいればあの子達にも寂しい思いはさせないのだけど」
「奥様、ですね」
あたりまえのことにオスカーはただ微笑んだ。その寂寥感にギャビーは言葉を無くす。
「皆、再婚話をもってくる」
風が強くなってきて、オスカーの言葉が聞き取りにくい。ギャビーは少しだけ踏み出して彼に近づいた。
「その気にはならないということですか」
「私の妻であるより、ロバートとリンダの母親であることを望んでしまうだろうから。それは相手には失礼じゃないかと思うんだ。それを父に言っても分かってもらえないのがいささか辛いね」
「……ローレンス様は、やはり頑固なんですか」
「頑固、とはなかなか優れた言い回しだ」
オスカーは道化た様子で肩をすくめた。
「わたしが」
ギャビーの勇気をもって発した言葉に、先ほどまでとの違いを感じたのかオスカーもまたまっすぐにこちらを見てきた。
「わたしがローレンス様とお会いしたいと申し上げたら、それはできるものでしょうか」
不可解な事故。そしてミアの失踪。
メリベル家の人間の多くに会うことができた。けれどまだローレンスには会えていないのだ。メリベル家の行く末に関して最も影響力のある人には。彼がミアに何を言ったのかを知りたかった。
けれどオスカーは首を横に振った。
「会っても君が傷つくだけだ。君も知っているように、そもそも父はシナバーをとても……嫌っている」
嫌う、その言葉を使うかどうか、オスカーは一瞬躊躇し、そしてあえて口にしたのだとわかった。ローレンス・メリベルという人間がどういう思想を持っているのかをはっきりと知らしめるために。
「話したところで不愉快な思いをするだけだと思う」
オスカーの言葉はギャビーの想像を肯定する。ローレンスはギャビーを嫌っていない、そうミアは言ったが、絶対そんなはずはないと思っていたのだ。自分の直感が当たったことでギャビーは落胆もしなかったが愉快な気持ちにもなれない。
「あの日も……君とミアが事故にあった日も、父は君に会うつもりなんてなかったことは知っているだろう?」
ただ、その言葉は想定外だった。
……ローレンスはギャビーに会うつもりなどなかった?
ではどうしてミアはこの城にギャビーを連れて行くことになったのだ?
ミアがローレンスを実物以上に好意的な存在としてギャビーに伝えていることはうっすらと気が付いていた。でもそれはわかる。誰だって大事な姉妹に不用意に誰かの悪意を伝えて心を痛めたくないからだ。
でも……あんな雨の日に行ったのはローレンスが強く望んだからだとは考えていた。ミアには断る権利などないからと。でもオスカーの話ではローレンスはギャビーに会うつもりなどなかったかのようだ。
ランディも、なぜミアがあんな日に来たのかがわからないと言っていた。
ミアの行動と食い違うオスカーとランディの証言に、居心地が悪い。
ミアが嘘をついているとはギャビーには思えなかった。だとしたらオスカーが何か間違った認識でいることになるが、彼はローレンスの息子だ。そんなことはあるだろうか。
それともローレンスはミアとオスカーでは言うことを変えていたのだろうか。それはあり得るような気がした。
「ギャビー?」
怪訝そうな顔で問われてギャビーは慌てて彼を見た。端正な顔立ちの彼が心配そうにこちらを見ている。
「……余計なお世話かもしれないが、まだ海を見ると辛いのでは?」
ギャビーの沈黙を事故のことを思い出してしまうからだろうと取ったオスカーの言葉を慌てて否定する。
「そんなことはありません、大丈夫です」
「そうか?」
オスカーは頷く。もともと育ちが良い彼の良さは素直に出ているようだった。聡明さも持ち合わせているから悪い相手に騙されるということはあまりないだろうが、誰にでも親切で公平な態度がとれる珍しい相手だった。
彼と年が十も離れてなくて、私が爵位のある家の人間だったら好きになってしまうだろうと確信することができる。ギャビーは彼の周りにいる良家の令嬢の中にはきっと本心で好きになっている子がいるだろうと想像した。
でも彼はそういう気持ちにはなれないので彼女たちの恋はなかなか難しいに違いない。
気の毒に。
「私はそろそろ上に戻るが君はどうする?」
「もう少し海を見ていきます」
「そうか、じゃあこれを預けよう」
オスカーが渡したのは小さくシンプルな構造の鍵だった。
「ここへの階段の金属の扉の鍵だよ。君が戻るときに閉めてきてくれ」
「まあ、お宅の鍵なんて私が預かって大丈夫ですか?」
「ただ、海岸に出るだけの鍵だからね。いいよ、しばらく預けておくから海には好きに来たまえ」
それからオスカーは崖上の屋敷を見上げた。
「この屋敷内は好きに歩いていいよ。三階は父がいるから勧めないけれど。あともう一つ」
オスカーが指さしたのは屋敷の六つの塔の一つだった。もっとも崖に近い部分に立っている。
「あの塔は入れないようになっている。崖が近くて景色はいいのだが、一部老朽化して危険だから。私が物心ついたときからそうだった」
「わかりました」
「何かあったら何でも言ってくれ。私は書斎にいることが多いよ」
ギャビーに明るく笑いかけるとオスカーは軽く手を上げて背を向けた。そのまま歩きづらそうな足取りで砂の上を渡って行ってしまう。
彼の足音が消えなくなると、ギャビーはまた海に目を向けた。
波は絶え間なく続いていて、まるでギャビーの心の中の雨音のようだった。消えることなく、あの日の嵐と雨の音が鳴り響いている。
ギャビーはゆっくりと歩き始めた。最終的には岩場に至ってしまいそうだがいけるところまで海岸を歩いていく。
まさかそんなはずがないと思っても、もしかしたらあの岩場の陰にミアがいるかもしれないと思ってしまうのだ。
砂浜の終わりは唐突だった。崖の下から伸びる黒々とした岩場が海まで通じ、浜を断ち切っていた。岩場には波が強く打ち付けて、しぶきを散らしていた。
先には行けないその場所でギャビーは振り返って崖を見上げた。日は落ち始めている。見える屋敷の窓のあちこちからはオレンジ色の明かりがこぼれている。
「?」
ギャビーは目を凝らした。
暗がりでよくわからないが、崖の中腹で一瞬何かがきらりと光ったような気がした。シナバーとて特別視力が良いわけではないのでギャビーにもその判別はつかなかった。視力は悪いが崖をよじ登っていくだけの体力と筋力はあるのだが、さすがに人の城でそんな乱暴なことをするのは気が引けた。
濡れた岩場の光の反射を人工の光と見間違えたのかもしれないと思う。
風はギャビーの髪の毛を舞い上げた。暗くなって足元が見えづらくなる前に、とギャビーは階段へ戻り始めた。




