5号車の来訪者
深夜に作者は一体何を書いているんでしょうねぇ
※一応大嫌いな虫が出てくるので注意喚起。
(念の為、R15です)
ホームにはその一日の疲れを顔に張り付けた人々が、それぞれの家に帰るために電車を待っていた。
電車が到着すると、我先に座ろうと列の先頭集団が車内になだれ込む。
乗客たちで溢れた車内と外を切り分けるように、ドアが閉まった。
終電間際の満員電車。
煌々と光る車内のLEDは、夜を照らす昼のようだ。
街の中心地から出発したこの電車は、重量を軋ませながら、ひっそりとしたベッドタウンに向かって走っている。
この路線で一番速い特急電車。
三駅ほど都心寄りの乗り換え駅に停車すると、少しだけ人が減る。
人との接触は免れないが、先ほどより押される痛みは減った。
これなら次の駅までなんとか凌げるだろう。
この路線の一番長い十五分の区間。
この後の地獄をまだ知らない5号車は落ち着いていた。
車両中央に立っていたよれよれスーツのサラリーマン・伊久雄は足首に疼きを感じたが、屈んで掻くスペースはなかったので、諦めて気を逸らすことにした。
その二メートル先にいた眼鏡サラリーマンの明臣は、スマホを持っていた手の指に痒みを感じ、思わずスマホと一緒に手を振った。
すると、前に立っていた紺のカーディガンを着た良美の背中に手が触れてしまい、女性の頭が右へ動いた。
明臣は「⋯⋯すみません」と詫びを入れる。
疲れを抱えた人ばかりを乗せている車内では、苛立ちを含んだ吐息が聞こえる。
その吐息に含まれたイライラは少しずつ伝染していく。
(少しくらい人に当たらないようにちゃんと立ってろよ)
(早くつかないかな⋯⋯)
(疲れたー)
そんな心の声が聞こえそうな不満な面持ちの乗客たち。
5号車先頭付近──。
その淀んだ空気を察した、可愛いつけ爪のギャル・萌香も苛立っていた。
だが──
二人奥のサラリーマンの肩紐にある“存在”を見つけて、疲れも苛立ちも何もかも吹き飛び、こう叫んだ。
「ゴキブリ!!!」
ざわわわわわわわわわわ!!!!!!
声の主を確認する人。
周りに振り向く人。
自分の服を見渡してついていないか確認する人。
車内中央の伊久雄は顔を上げた。声は聞こえたが、内容は分からなかった。
同じく中央の眼鏡・明臣は小さく「⋯⋯嘘」と呟いた。
先頭付近では、見えない敵が現れたかのような心理戦に見える。
すると、3LサイズのTシャツの男が首の後ろを執拗に払いながら狼狽えている。
周りの人は、その手が当たり同じように声を上げる人、迷惑そうにする人が入り混じる。
前方のドア付近の気の弱い穂乃果は手すりを掴みながら辺りを見回していたが、その姿は見つからない。
視線を落とすと、こちらに向かって靴の隙間を縫ってくる。
「いた! ⋯⋯くる、来る!!」
そう声を上げると指を差した。
「足元、動いてる!!」
穂乃果の周りの人に身体が当たるのも構わず、足を上げたり下げたり。何かの呪いにかかったようだ。
中央にもようやくそれが伝わってきた。
「こっち来た!」
「無理なんだけど!!」
「ぎゃーー!」
前方からの声が伝わり、息を呑むようなざわめきが走る。
すると、いろんなところから不自然な動きをする人が増えてきた。
「いる? ⋯⋯こっちにいる?」
「えっ、やだ。いないよね!?」
友人の方に振り返った女性の髪の毛が腕を撫でられた明臣は、「ぅわぁあぁ!」と情けない声を上げた。
「いた!! ゴキブリとかムリムリ!!!」
中央で声が上がる。
前方にいた萌香や穂乃果とその周りの乗客は、どことなくほっと息をついている。
中央の伊久雄や明臣は恥を捨てて周りを確認している。
左側で声がしたかと思えば、右の方で小さな黒い影が床を滑る。
前で足踏みダンスをしていたかと思えば、隣のサラリーマンが指を差している。
「あっ!!!」
その声の主が天井に向かって人差し指を向けた。
招かれざる来訪者は触角を風で揺らしながら、小刻みに羽根を動かして中央から後方へと向かっていた。
その動きがあまりにも鷹揚としていて、乗客たちは時が止まったかのように唖然としながら凝視していた。
その飛行のすべてを見届けようと、一人、また一人とその姿を見つけては動きを止め、見送る。
車両の後方に差し掛かる頃には、5号車の乗客全員が確信した。
『ここにゴキブリがいる』
【次の駅まで残り5分】
そして後方で姿を消した。
もう乗客たちは隠さなかった。
混乱と叫び声が後方の至るところから上がり、前の人を押して逃げようとする。
肺が潰されそうなほど、恐怖に塗れた人。
今にも刺し殺しそうな鋭い視線で姿を探す人。
声が上がるたびに周りの人を押しのけて逃げようとする人と、それを押し返す人。
押し返しながら怒りを露わにする声。
その痛みに耐えかねた声。
【残り4分】
後方では未だ混乱が続いている。
「そっちに行った!」と指を差せば、司令塔からの声だと言わんばかりにそちらを皆で見る。
指を差された方にいる人は、違反切符を貰ったような涙目になっている。
前方と中央では少しばかり安心感が漂っていた。
後方で声が上がるたびに周りを一瞥し、胸を撫で下ろす。
その時、前方と中央には奇妙な固定観念があった。
『ゴ キ ブ リ は 一 匹 し か い な い』
一瞬、音が消えた。
乗客たちの声も衣擦れの音も途切れ、空調の低い唸りだけが異様に響いた。
【残り3分】
前方の萌香はドアの上に姿を見つける。
中央の良美は明臣の手すりの上部に姿を見つける。
そして二人は叫ぶ。
「「ゴ キ ブ リ !!!!」」
後方だけではなく、前方と中央にも同時に現れた。
逃げ場はない。
この新しい車両は自動空調を用いているので、窓が開かない仕組みになっている。
つまり、次の駅に着くまでこの状況は変わらない。
後方のゴキブリは逃げ場を探して人の足の間を駆け抜けている。
前方のゴキブリはドアの手すりを登りながら端をひたすら登っている。
中央のゴキブリは天井を走り始めた。
乗客たちの心の片隅から、次の駅を切望する気持ちが膨らんでいく。
右に寄ったかと思えば左に体当たりをする。
上を見ていたかと思えば足元をばたつかせる。
【残り2分】
萌香はドアの近くを走っていたゴキブリの姿を見失い、急いで四方に目配せを始めた。
騒いでいる人がいない。
動きが早いせいか、この満員電車の中ではすぐにいなくなってしまう。
誰かが一声あげてくれるのを期待しながら、会いたくないはずなのに必死で探す。
明臣は良美の声に驚いて下がってきたゴキブリに気づき、すんでのところで手を離した。
背中で後ろに押しても、満員電車なので動けない。
手すりの輪っかまで来たゴキブリは、脚と触角を気ままに動かしながら様子を探っている。
「ひぃっ⋯⋯助けて⋯⋯」
そこへ車内アナウンス。
『本日は〇〇線にお乗りいただき誠にありがとうございます。次は蜚蠊駅〜、蜚蠊駅になります』
【残り1分】
駅が近づいてきた。
明臣はそれどころじゃなかった。
目の前のゴキブリと対峙している。
あまりの気持ち悪い見た目に、周りも固まっていた。
明臣は十万円もしたスマホを戦闘用武器として、手すりめがけて叩きつけた。
後方では勇敢なお姉さんによって踏み潰されていた。
それを見た周りの人は拍手喝采。
一足早く安寧が訪れた。
前方では萌香がバッグを振り回していた。
電車の外に駅が見えてくる。
【残り10秒】
それを見て、我慢しかねた明臣が声を上げた。
目の前のゴキブリはまだ去ってくれない。
「はっ早く着いてくれ!」
伊久雄や良美も背中を押すように声を上げる。
「電車止まれ!」
「着いて!」
萌香は涙目になりながら応戦中⋯⋯と、姿を見失う。
「マジ無理! 早く着け!」
すると後方には新しい姿が目撃されていた。
ドア付近には、心なしか人が集まり始めた。
電車は確実に減速を始めている。
おそらく、まもなく止まるはず。
穂乃果も痺れを切らして叫ぶ。
「ドア、開いて〜!」
プシュー、ガッタン。
ドアの開く音。
駅で待っていた人は、中の乗客の気迫に押されて左右に散る。
転びそうになりながら、車内の奥から奥から人が出てくる。
別の線とも交わる乗り換え駅ではあるが、我先に出てきた人は隣の車両に移っていく。
信じられないことに、5号車のすべての人が降りた。
その異様な光景に眉をひそめながらも、駅で待っていた人たちは5号車に乗り込んでいく。
誰もいなくなった車両は、見たところ変わった様子はない。
嬉しそうに座る人や、ほっと息をつく人もいる。
ホームで待っていた人が乗り込むと、またドアが閉まった。
5号車で降りたのは、乗客だけだ。
果たして新たな乗客たちは、いつ気がつくのだろうか⋯⋯。
お読みいただきすみませんでした。
何か勢いで書いてしまいました。
パニックジャンルならこれしかないなと。
ヤツの名を連呼してすみません(笑)
こんな話、実際にあったら絶対に嫌だ!




