ピンクのあいつ
ヤニックことヨーゼフ・ヘイム大尉は、マチアス聖智教会の鐘楼からエーベルヴァイン城を眺めて、力なく溜息を吐いた。
「おいっ…。封印の塔は、どこに消えた。なんで樹が生えているんだ…?あの樹は、どこから持ってきた…?」
「はぁ。まことに以って、不思議ですなぁー。そうそう…。消えたと言えば、バルケイ子爵が衛兵に連れ去られましたぞ。何でも、公金横領の取り調べがあるとか…」
「リーゲル侯爵も、尻に火がついとるようだな。あそこのラインは、もう使い物にならん!」
「フーベルト宰相は、貴族どもの大掃除をするつもりですな」
「ちっ…。ばら撒いた金が、無意味になってしまったか」
ウィルヘルム皇帝陛下への伝手が、片っ端から潰された。
まだ面識のある貴族は残っていたが、危なくて近寄る気さえ起きなかった。
「ボーセル少尉…。エーベルヴァイン城に出入りを許されている、御用商人は…?使えそうなやつを見繕ってもらいたい」
「それなんですがね…。昨夜…。闇商人に身をやつしていた工作員が、アクシデントに見舞われまして…」
「あーっ。すっごく嫌な予感がするぞ。その先を聞きたくない!」
「ビョルンという裏社会の顔役が、我々の手駒に居たのですが…。魔法具の不具合を調査しに向かったところ、通り魔にやられました」
「通り魔…?そんなもん…。どこぞの放った殺し屋に、決まっとろうがぁー!」
ミッティア魔法王国への帰還が、ドーンと遠のいた。
たぶん数年は遠のいた気がする。
「ビョルンを失ったコトで、我々と御用商人を結びつけるラインは切れました。これからは地元のヤクザ者たちとも、難しいことになりそうです」
ボーセル少尉が手元の書類に視線を落として、申し訳なさそうに告げた。
苛立ったヤニックは、鐘楼の手摺に蹴りを入れた。
「………っ!」
力を込めすぎたせいで、足の先に痛みが走った。
「納得いかん…。とくに、あの樹だ。気に入らんぞ!えらく不吉な予感がする」
「そう申されましてもですな。あれだけ大きな樹となれば、伐り倒すのも、燃やし尽くすのも難しいかと…。エーベルヴァイン城に潜入しての破壊工作が、現実的とは思えませんね」
「部下に調べさせろ!枝を折り、根っこを掘りだし、幹の皮を引っぺがして、本国の魔法研究所に送りつけろ!」
「いやぁー。とんでもないモノだったら、どうするんですか?」
「もう、あきらめている。あれは、絶対にとんでもないモノだ。我々にとって、災厄だ!」
ボーセル少尉は癇癪を起した上官に、『はあ…!』と応じるしかなかった。
「それと…。地下迷宮は、どうなっているのか?」
「二十日ほど前のことですが…。バスティアン・モルゲンシュテルン侯爵の代官を務めていたゼルゲ男爵が、手下のごろつき共と一緒に牢屋へ放り込まれています」
「ゼルゲ男爵が…。それは何の話だ?」
「はい…。彼らは地下迷宮の立ち入り禁止区域に近い場所で、倒れていたそうです。焼け焦げて…」
ボーセル少尉が困ったような顔で、報告書を捲った。
「ゼルゲ男爵と言えば、遊民居住区域の管理官だろ。なんで奴が、地下迷宮で発見されるんだ?」
「さぁー。ゼルゲ男爵の件は、機密事項にされているようです。エーベルヴァイン城の牢屋に潜入できれば、事情を聞けるやもしれませんが…。ちと、難しいですな」
「屍呪之王は…。屍呪之王は無事なのか?」
「そちらも…。詳細については聞こえてきませんので、何とも申せません!」
以前であれば、簡単に入手できた帝都ウルリッヒの情勢が、ヤニックの耳に届かない。
ウスベルク帝国の中枢部が、いきなり方針転換をしたとしか思えなかった。
潜入工作員の任務には刺激が足りないと嘆いてきたが、こんな刺激なら欲しくなかった。
「グヌヌヌヌッ…。もう少しで、詰めだと思っていたのに…。今更、何が起きた?」
「不味いですなぁー。非常に不味い。我々は、責任を問われますぞ」
「わかった。ひとつずつ片づけるとしよう…。先ず、そうだな…。ウィルヘルム皇帝陛下との謁見は、要らん。もう無理だろう。ミッティア魔法王国による軍事介入は、タイミングも含めてプロホノフ大使にお任せしよう」
「ふむふむ。優秀なるプロホノフ卿に、丸投げですな…」
「上位貴族さまだ。高貴な務めとやらを果たしてもらおうじゃないか」
ヤニックが吐き捨てるように言った。
「責任も引き受けてくれると、良いですな!」
ボーセル少尉は、悲しそうに空を仰いだ。
「確かにな…。どうあろうと、責任はこちらに回ってきそうだ」
「申し訳ありません。本題に戻りましょう…」
「我々がすべきことだったな…。地元ヤクザどもが、不良品だと文句をつけてきた魔法具だ。放置せずに、状況を確認しろ。連中が遊民居住区域を火の海にしてくれないと、話が進まないからな。作動不良の原因を解明して、ちゃんと使える魔法具を渡しておけ…。次に、あの忌々しい樹だ。エーベルヴァイン城に潜入して、幹の皮を引っぺがしてこい」
「屍呪之王については、如何なさいますか?」
「地下迷宮に、腕の立つ工作員を送り込んで貰いたい…。可能な限り、生の情報が欲しい」
ボーセル少尉が、ヤニックの指示を紙片に書き取っていく。
「通り魔の件は…?」
「探しだせ。誰の手先か、知っておきたい」
「承知いたしました!」
ボーセル少尉は、書類の束を黒革のカバンにしまった。
「封印の塔が…。一夜にして崩れ落ち、消え失せた。封印の巫女姫は、どうしているのか…?屍呪之王は、封印から解き放たれるのか…?」
とうとうヤニックが、触れたくなくて避けていた問題に注意を向けた。
「はぁーっ。封印の巫女姫が交代する際に、生贄として捧げられる遊民どもは、放置されています」
「封印の魔法術式が、丸ごと吹き飛んだ可能性もある…。そうなれば、封印の巫女姫に意味などない」
「帝国は滅びますか…?」
「帝国が滅ぶか、だと…。屍呪之王が暴れだせば、ミッティア魔法王国も無事では済むまい。いや…。世界中に狂屍鬼が溢れだせば、この世の終わりだ!」
ヤニックは顔を引きつらせた。
隠された箱のフタを開けて、真実を暴きたくなかった。
余りにも、刺激が強すぎると思った。
もし許されるのであれば、平穏だった過去に戻りたかった。
刺激のない、退屈な日々に…。
◇◇◇◇
封印の石室にぶら下がったピンクの塊は、枯れてしまったへその緒がもげて床に落下した。
「キャン!」
苦痛に満ちた産声だった。
「とっ、殿が、落ちましたぞ…」
「三の姫よ…。何で受け止めて、差し上げぬのですか?」
「えーっ。前触れもなく落ちるものは、受け止められませんよ」
「何年でも、殿の下で待ち構えておれば良いでしょう」
七十年しか我慢ができなかった三の姫は、言いたい放題に責められた。
(だから…。ひっぱたいて起こしましょうと、提案したのに…)
三の姫にも言いたいことはあったが、口にしないだけの分別も備えていた。
「………わん?」
ピンクの不細工な犬が、石室をキョロキョロと見回して吠えた。
「ハンテン…。いつまでも寝てるから、四の姫はアンタを置いて行っちゃったわ」
「ウーッ。わん!」
「四の姫は、居ないの…。すっごく遠くへ行っちゃったの…」
「これっ。どうしてお前は、殿に意地の悪い事を申すのですか?」
「だって、コイツ…。生意気な犬コロじゃないですか!」
三の姫は、犬に頭を下げるのがイヤだった。
三の姫にとって、ハンテンは小さくて不細工な犬に過ぎなかった。
嫌いではないけれど、一の姫や二の姫みたいに崇め奉ることはできない。
どちらかと言えば自分の方がお姉さんで、ハンテンは小さくて不細工な弟だった。
三の姫が譲るとしても、ギリギリ弟である。
殿はあり得なかった。
「わんわん、わんわんわん、わん…!」
ハンテンが石室の中を吠えながら走り回った。
「あーっ。うるさい!」
三の姫は耳を押さえて、ハンテンを睨みつけた。
ハンテンも三の姫を睨んでいた。
睨み合いだ。
「わんわんわん、わんわんわんわん、わぅーん!」
今度は入口の扉をカチャカチャと爪で引っ掻きながら、激しく吠えまくる。
「外に出たいのですね」
「おそらく殿は、四の姫が恋しいのでしょう」
「姉さまたちは…。よくコイツの喧しさに、耐えられますね!」
早くも三の姫は、泣きっ面になっていた。
この騒々しさに根負けして、いつだって三の姫はハンテンの希望を叶えてきた。
まるでお犬さまの奴隷だった。
「殿は、転生しても変わりませんね…」
「ほんに、可愛らしいこと」
一の姫と二の姫が、嬉しそうに言葉を交わした。
信じられなかった。
このわがまま放題の犬を可愛いと思えるなんて、頭がおかしい。
「わんわんわんわんわん、わん…。わんわんわん、わんわんわんわん!」
「ヒィ…!」
味方のいない三の姫は、思わず涙ぐんだ。








