精霊樹の守り役
タルブ川の流れに逆らい、帆に風をはらませた追風の水鳥号が悠々と進んでいく。
その美しい姿は、微風の乙女号に勝るとも劣らなかった。
追風の水鳥号を操る船乗りたちは、浅瀬が隠れている難所であろうと危なげなく通り抜ける。
予期せぬアクシデントに見舞われても、慌てる者は一人として居ない。
「ユリアーネ…。これは、わたくしが思っていたのと違います」
「そうでしょうか…?」
「わたくしは船旅と言うのが、もっとこう…」
「危険が沢山で、波乱万丈ですか…?」
「そう。それよ…。わくわく、ドキドキの、冒険旅行を期待していました」
ラヴィニア姫は、ユリアーネ女史の言葉に我が意を得たりと頷いた。
「姫さまには封印の塔で…。様々な冒険物語をお聞かせしましたが、あれはアレです」
ユリアーネ女史は、幼かったラヴィニア姫に様々な物語を聞かせていた。
ラヴィニア姫のお気に入りは、お城でのラブロマンスより商人の旅行記や勇者の冒険譚だった。
殆どは荒唐無稽なつくり話なのだけれど、そのようなことがラヴィニア姫に分かるはずもなかった。
何しろ、ずっと封印の塔から出たことが無いのだから…。
「モォー、ユリアーネったら…。あれはアレって、それじゃ説明になっていないでしょ。わたくし…。船乗りと言うモノは銛を手にして、魔物と闘うのだと信じていました」
「ここは川ですから…。姫さまにお読みした物語は、大海原を冒険する海賊船のお話です」
「巨大な波を乗り越えたり…」
「海の話です」
「こぉーんな、大きい魚と闘ったり…」
「それも海の話です」
「つまらないわ…」
ラヴィニア姫が唇を尖らせて項垂れた。
「川って、退屈ね…」
順調な旅だった。
必要なモノは、何もかもアーロンが手配してくれた。
気の利くエルフであったが、乗船当初はラヴィニア姫を構いすぎて苛立たせた。
それを察したユリアーネ女史に注意を受けたのか、暫くするとアーロンは節度を守るようになった。
『バシッと言っておきました!』
『はぁー。何を言ったのかしら…?』
『それは秘密です』
ラヴィニア姫はユリアーネ女史が何を言ったのか知りたかったけれど、訊ねても教えて貰えなかった。
タルブ川の沿岸には、二、三日おきに停泊地があり、そこで新鮮な食材が船に積み込まれる。
美味しいとは言えなくとも、一日に三回、キチンと上等な食事が配られる。
停泊地では船から降りて、開拓村を見物することが許された。
ラヴィニア姫はユリアーネ女史に手を引かれて珍しい工芸品を眺めたり、食べたことのない料理を口にした。
希望すれば、湯浴みの支度だってしてもらえた。
文句を言えば罰が当たる。
それでもラヴィニア姫は、不満そうな顔をしていた。
(ハンテンが一緒なら、もっと楽しめたのに…)
悪夢の中で、只々憧れた外の世界。
あっさりと通り過ぎてしまうのが、勿体ないような美しい景色。
泉の水みたいに溢れだす、明日への期待。
あれもこれも知らなかった事ばかりで、情報の整理が追い付かない。
生きる実感。
自由…。
それが手に入ったいま、ラヴィニア姫の横にハンテンは居なかった。
初めて口にする食べ物。
逞しい船員たちが呼び交わす、大きな声。
ミドリの髪を揺らして吹き抜ける、爽やかな初夏の風。
開拓村では、子供たちが叫びながら走り回っている。
普通に顔のある、きっと名前だってあるに違いない子供たち。
友だちになれたなら、ラヴィニア姫やハンテンと挨拶を交わしてくれるだろう子供たち。
ラヴィニア姫が視線を逸らしても、消えたりしない確かな世界。
(ハンテン…。みんなに、名前があるんだよ。木や草や、村にまで…。ほらっ、色や匂いだって…。屋台で売っているお肉は、甘辛い味がするの…。たぶん、ハンテンも気に入ると思うなぁー。一緒に来れたら、良かったのにね)
風の妖精たちが、ラヴィニア姫を励まそうと集まってきた。
「あらあら、心配しないで…。わたくしは、たぶん大丈夫です。アナタたちも、傍に居てくれるのですから…」
ラヴィニア姫は、微風に乗ってふわりと舞った。
その姿は幻想的な絵画に描かれた、美しい妖精のようだった。
〈うふふ…〉
〈アハハ…〉
〈ヒメ、ヒメ。もっと笑って…♪〉
ワンピースのスカートが、ラヴィニア姫の動きを追って広がった。
水色をした、大きな花のように…。
ミドリの瞳と髪を持つ幼い巫女姫は、妖精たちの大切な同胞だった。
◇◇◇◇
暗闇の中を小さな光が移動していく。
希少な精霊石を用いた、簡易ランプの灯りである。
地下迷宮を進む男の顔が、魔法ランプの灯りに照らされて苦しそうに歪む。
男の正体は、貴公子レアンドロだった。
貴公子レアンドロは、脇腹に手傷を負わされていた。
流れだした血が、ズボンをベットリと濡らしていた。
「何てことでしょう…。ズボンの生地が足に張り付いて、歩きづらいったらありませんね!」
乱戦のさなかに喰らったのは、背後からの魔法攻撃だった。
風刃だ。
終わったかと思った。
それでも敵の追跡は、死に物狂いで躱した。
地下迷宮の一画に潜り込めたのが、功を奏していた。
追手の気配が途絶え、走る必要はなくなった。
だが、何処をどう移動したのか、まったく記憶になかった。
それだけでなく、腹部の左側を切り裂いた傷が、想像以上に深かった。
「どうやら…。応急処置には、意味が無さそうですね…」
布で縛っていなければ、腸が零れだしてしまうだろう。
レアンドロの経験からすれば、致命傷である。
フレッドのいる事務所に戻れたとしても、肝心の治癒師が居ない。
回復や治癒を得意とするアビーは、メジエール村だ。
霊薬の備蓄もない。
「販売しているのが、敵ですからね…。デュクレール商会は、ホント頼りになりませんね…」
帝都ウルリッヒで霊薬を扱っているのは、主にマチアス聖智教会だった。
マチアス聖智教会は、ミッティア魔法王国の出先機関である。
そんな場所で買い物など出来なかった。
新興ヤクザが高価な霊薬など買い揃えたら、何者かと怪しまれる。
だからフレッドは、身の安全を第一に行動するよう注意を促していた。
『常に、無傷で帰れ!』と…。
ツーマンセルの鉄則を守らなかったのは、レアンドロの驕りだ。
月明かりも届かない地下迷宮は、真の暗闇である。
レアンドロが頼りとするのは、手にした小さな魔法ランプだけだ。
微かな灯りで足元と前方を照らしながら、ゆっくり地下迷宮を進む。
命尽きるにしても、敵に情報を残したくない。
可能な限り、地下迷宮の深い位置で死にたかった。
死に際して身元を隠す余力など、レアンドロには残されていなかった。
何処かに立坑でもあれば、今すぐ身を投じてしまいたい。
「くっ…。この痛み。一歩進むごとに、頭まで激痛が突き刺さるようです…。それにしても背中から襲うなんて、とんでもない卑怯者デスネ!」
レアンドロが、可笑しそうに言った。
レアンドロの暗殺手段は、背後からの刺殺だった。
この夜、ヨルグとツーマンセルで行動していたレアンドロは、地元のヤクザ者が闇商人に接触する現場を目撃した。
ヨルグに事務所への報告を任せ、自分は尾行を続けるつもりでいた。
そこでイレギュラーが発生した。
かつての雇用主が、レアンドロの見張っていた悪党たちと合流したのだ。
レアンドロに、アレヤコレヤの悪事を強要した当人である。
(今回の件に関わったときには、平常心を保てると思っていたのですけど…。本番となれば、こんなものなんですね…)
クールな外見に反して、レアンドロは切れやすい性格の持ち主だった。
頭に血が上って、気がつけばやらかした後だった。
憎むべき男には、何処か遠くへ旅立ってもらった。
もちろん、背後からの一撃だ。
会心の一撃である。
「サイコーの手ごたえでした。まったく、気分が良い…」
膝から力が抜けた。
もう、まえに進む力が無かった。
レアンドロは地下迷宮に跪き、石の壁に背中を預けた。
「少しだけです…。休むのは少しだけ…。ここでは死ねない。仲間に迷惑を掛けてはいけません」
閉じようとしたレアンドロの目に、仄かな明かりが見えた。
柔らかいミドリの明かりだ。
その明かりが人の姿となり、間近でレアンドロを見下ろした。
若い女だ。
古風な祭祀服を身につけた、三人の女たちである。
だが、長いミドリの髪を垂らした女たちには、顔がなかった。
驚きと恐怖で、レアンドロの背筋に震えが走った。
「ヒトではない…?」
目鼻だけでなく、口もない。
だから動けなくなったレアンドロを跡形もなく食い散らすことは、期待できそうになかった。
「オマエさま…。微かに、精霊樹の匂いがしますね…」
光を纏った女が、静かに言葉を放った。
女の顔に、鼻と口が生じていた。
形の良い鼻をヒクつかせ、美しい紅い唇で言葉を紡ぐ。
「姉さま…。こやつは、見目の良い若人です。死なすには惜しい」
「これっ、はしたない…。三の姫は、横から余計な口を挟むでない…!」
見開かれた女たちの瞳は、翡翠色をしていた。
「オマエさまは、メジエール村にゆかりの者かえ?」
「精霊樹の香りを漂わせる男よ…。一の姫に、真実を伝えるがよい」
「……はい。わたしは、メジエール村に住んでおりました」
レアンドロは、残り少ない力を振り絞って答えた。
人外の女たちには、メジエール村と共通する霊妙な雰囲気があった。
お人好しで善良さの結晶みたいな、妖精たちが放つ霊気だ。
「暫くのちに、我らの殿がお目覚めになろう…。そのときは、オマエさまの助けを借りたい」
「オマエさまが、殿をお連れするのです。メジエール村に…」
「若人よ。いまは、死すべき時でなかろう…。加護と霊力を授けるゆえに、大切な命をつなぎ留めよ…。この死地を生き永らえて、オマエさまの務めを果たしなさい」
一の姫がレアンドロの傍に跪くと、優しく口づけをした。
「……ウッ!」
今まさに死のうとしていたレアンドロに、大量の霊力が注がれた。
巫女姫の加護と霊力がレアンドロの傷口を塞ぎ、弱っていた心臓の鼓動を確かなモノへと回復させた。








