地上の楽園
帝都ウルリッヒを離れる際。
城壁の向こうに見える封印の塔を眺めながら、ラヴィニア姫がポツリと呟いた。
「都落ちね…」
舷梯を上がるラヴィニア姫は、ユリアーネ女史に手を引かれながら子供らしからぬ笑みを浮かべた。
ウスベルク帝国が誇る帆船は、ミッティア魔法王国の魔動船のように速度をだせないけれど、とても優美な姿をしていた。
(美しい帆船…)
ラヴィニア姫が生きた時代には、存在しなかったデザインだ。
妖精たちとの共存が文明に組み込まれてから、魔法技術者たちは幾度となく試行錯誤を繰り返してきた。
その成果である。
風の妖精と水の妖精は、ウスベルク帝国の帆船を気に入っていた。
甲板に立ったラヴィニア姫は宙を舞うオーブに目をやりながら、世界の破滅を望まなかった屍呪之王に感謝の祈りを捧げた。
(ハンテン…)
楽しそうに宙を舞う妖精たちは、ハンテンの同胞だ。
陽気な妖精たちの追いかけっこを眺めていると、封印の巫女姫や生贄にされた人々の苦痛も、決して無駄ではなかったと思えてくる。
其れに引き比べ、人間どもの非礼なコトときたら…。
「ウスベルク帝国のために、三百年もの長きに渡り封印の巫女姫を務めたけれど…。お役目が終わってみれば、擦り切れたボロ雑巾のように捨てられる…。帝都の城壁に守られて、のうのうと人生を満喫している連中は、わたくしを視界に入れたくないのでしょう…?」
「そのような事を仰ってはなりません。わたしども帝国民は、ラヴィニア姫に心から感謝しております」
アーロンは腰を折り、深々と頭を下げた。
「やめなさい、アーロン。薄っぺらい嘘には、飽きあきしてるのよ。もし仮に、貴方の言葉が真実であるなら、どぉーして誰も見送りに来ないのかしら…?」
「それは…」
若草色の髪をした小さな姫が、感情のない緑の瞳でアーロンを見つめた。
「わたくし、知っていますの…。エーベルヴァイン城の庭を散歩しているときに、召使たちが噂しているのを聞きました」
「………なんと?」
「わたくしに関わると、祟られるそうです」
「誰が、そのような世迷言を…?!」
「あらっ、アーロン。皆でしょ…?誰もが、そう信じているのですわ」
見かけは幼女でも、中身はウスベルク帝国の姫君だ。
ラヴィニア姫の思考や言葉に、不明瞭な部分など見当たらなかった。
これが箱入りで育てられた貴族令嬢であれば、耳に心地よい台詞を欲しがるものだが、ラヴィニア姫は嫌というほど孤独を経験しているので楽観論を善しとしない。
アーロンがラヴィニア姫を子ども扱いしようとしたのは、悪手だった。
「アーロン…。わたくしは、三百年も生きてきたのですよ。自分が置かれた状況くらい、理解できています」
「…………」
アーロンには返す言葉がなかった。
「姫さま…。これから行くのは、とても居心地の良い場所です」
「ユリアーネ。貴女まで、わたくしを謀るつもりですか?」
「とんでもないことでございます」
「そこには、大きな劇場があるのかしら…?立派なお屋敷で、季節ごとに舞踏会が催されるのかしら…?美しいドレスを纏って、お茶会に招待されたりするのかしら…?」
「どれもございません」
「だったら、どこが良いのよ!」
「貴族がおりません。更に言うなら、ひとりも帝国民が住んでおりません!」
ユリアーネ女史は、肩をそびやかして言い放った。
「そうなの…?」
「はい。間違いなく…!」
「それは、嬉しい知らせだわ」
「アーロンが、姫さまのために選んだ場所です」
「アーロン、でかしたじゃない。何故、それを先に教えないの…?貴方って、気の利かない男ね!」
ラヴィニア姫が、愉快そうにクスクスと笑った。
「……はっ。申し訳ございません」
アーロンはラヴィニア姫を喜ばせるツボが分からずに、ひたすら畏まるばかりだった。
◇◇◇◇
人々と妖精が共に慈しみ合って生きる、地上の楽園。
世界で唯一、精霊樹の加護に守られた村。
愛しのメジエール村。
「ヒャッハァー。わらし、帰ってきたどぉー!」
クルト少年が操る馬車から飛び降りたメルは、声を限りに叫んだ。
「あり…?」
メジエール村の中央広場。
見慣れたはずの場所なのに、どうにもメルの記憶と違った。
「あーっ。きぃー、でっかくナットぉー!」
メルの樹が、何倍にも成長していたのだ。
「ウハァー。こりゃまた、大きく育ったもんだね」
黒い長衣を身に纏った老婆が、感心したように言った。
「あっという間に、ここまで育った。村中、大騒ぎだったぜ。おいらも驚いたけど、最初が最初だからね…。村の連中も、直ぐに納得したみたいだ。『メルの樹だからなぁー!』って…」
クルトはメルの頭をポンポン叩きながら、『アハハ…!』と笑った。
「きぃー、バカにしゅゆなぁー。キセキとおもって、おがみなさい」
「おいおい、メルちゃん。そうやって、ムリ言うなよ!」
「ムリなの…?」
「ほら…。アビーが、お待ちかねだよ!」
クルトはメルを抱き上げると、『酔いどれ亭』に向かって走った。
「おかえりぃー。メルー!」
「たらいま、まぁま!わらし、もどったヨー」
店のまえに姿を見せたアビーが、クルトからメルを受け取って確りと抱きしめた。
「パパは…。元気にしてたかしら?」
「おとぉー?おとぉーは、おとなのジョージで帰れん」
「ハッ…。大人の情事…?」
「うむっ。ジョージで忙しい。ぬかしとったわ!」
メルはフレッドの発言を間違って記憶していたのだが、幼児なので仕方ない。
「やほぉー。トンキー。ごぶさたブリで、ございます」
「ぷぎぃー♪」
「こらっ、メル…。情事の話を…。きちんと説明しなさい!」
「まぁま…。わらし、アイサツ行くわ!」
メルはアビーの腕を振りほどくと、トンキーを連れて走りだした。
「待て、こらぁー!」
待てと言われて立ち止まるヨイ子は、幼児ーズのメンバーに居ない。
「アビー。フレッドは、浮気なんぞしとらんよ」
「でも、メルが情事だって…!」
「あの子は、まだ喋りだして一年だろう。よぉー口が回るようになったけど、言ってることは滅茶クチャじゃないか…。あんたは嫁なんだから、帝都で頑張っているフレッドを信じておやり」
森の魔女に姿を変えたクリスタは、威厳に満ちた態度でアビーの不安を退けた。
『調停者』の姿で居るときより、ずっと頼りがいがありそうに見えた。
「そうね…。婆さまの、仰る通りだわ!」
アビーは納得した様子で、頷いた。
「帝都で女遊びをしとるのは、行商人のハンスじゃ…!」
見ていないような振りをして、ハンスの行動まで把握しているクリスタだった。
『調停者』の情報網は、半端なかった。
鍛冶屋のゲラルトは、突然やって来たメルとトンキーを前にして固まった。
ゲラルトの手には、金槌とメルから渡された酒瓶が握られていた。
「そえ、テートのおみやじゃ!」
「お土産って、『火竜の息吹』じゃねぇか…。目ん玉が飛び出るほど、高かっただろ!」
「わらし、知らんわ…。アーロンに、用意させた。とぉーぜんの、ホウシュウ!」
「報酬…?」
「まあ、エエ。わらし、アイサツすゆ…。たらいも、帰る…、いました…?」
「タライも、カエルいました?うんにゃ…。ただいま、帰りましただろ!」
「走って、来たぁーけ。ちくっと、息切れしたんじゃ…。オヤカタ、またねェー!」
呆然とするゲラルトを作業場に残し、メルとトンキーは風のように走り去った。
「メルのやつ…。随分と、走るのが早くなったじゃねぇか…」
ゲラルトは大切そうに酒瓶を抱えて、居間に向かった。
もう仕事をする気は、消え失せていた。
今日はメルが戻ったお祝いだ。
その後メルは、雑貨屋と仕立屋に顔をだしたが、タリサたちと会えなかった。
仕方がなく中央広場に戻ってみると、幼児ーズの面々はミケ王子を放り投げて遊んでいた。
「ウォー。おまぁーら、元気しとった…?」
メルが幼児ーズに駆け寄った。
「お帰りメルー!」
「お帰りなさい、メルちゃん」
「メル姉、会いたかったゾォ―!」
タリサ、ティナ、ダヴィ坊やに囲まれて、メルは漸くメジエール村に戻って来たことを実感した。
「みんなぁー。ただいまぁー!」
ここがメルの居場所だった。








