呪縛からの解放
死霊魔術師とメルたちの闘いによって、広い石室は壁が煤け、石畳が砕け散り、惨憺たる有様となっていた。
ではあるモノの、石室の中央に蹲った屍呪之王は、ジッとメルの様子を窺うだけで暴れだしそうな素振りも見せない。
辛そうに半分閉じた目ヤニだらけの眼で、精霊樹の枝を見つめている。
大きく裂けた口の端からは血の泡を垂らしながら、グルグルと喉を鳴らしていた。
「おっきいのォー!」
かつてクリスタが説明した通り、床に伏せた屍呪之王はゾウのように大きかった。
その体表には一本の獣毛もなく、皮膚病を思わせる無数のデスマスクに覆われていた。
見るからに、気色の悪い怪物である。
それだけでも充分に不幸だった。
「エウフ…?」
メルは苦悶の表情を浮かべる死者の顔に、長く尖った耳を見つけて、エルフかと訊ねた。
「はい…。屍呪之王を具現化する際に、大勢のエルフたちが殺されました。そもそも屍呪之王は、人がエルフを殲滅せんと創造した邪霊です…。皮肉なコトに、屍呪之王が暴れたのは、人の暮らす領土でしたが…」
「贄じゃよ…。死の間際に発せられるエルフたちの霊力が、魔法術式に利用されておる。屍呪之王を生みだす魔法術式の記述に使われたのも、純血種に近いエルフの血じゃ!」
「うーむ!」
メルの倫理観に照らせば、それは許されない非道であった。
エルフの血が云々ではなく、腹に据えかねたのは邪霊の創造である。
贄にされたエルフも屍呪之王も、狂屍鬼にされた昔の人たちや、地下迷宮を造る為に生贄とされたスラムの住人たちも、ラヴィニア姫を筆頭とする封印の巫女姫たちも、みんな訳の分からない暴力にさらされて可哀想だった。
メルが目にしている魔法は、だれも幸せにしない。
不幸と怨嗟を大量生産するための、呪われた魔法術式だ。
目的を見失い、歳月を経て変質してしまったヒトの悪意。
もはや、それは傍迷惑な祟りだった。
「わらし、好かんヨ!」
だが…。
穢れていようと歪んでいようと、この世の悲惨な不条理は濃密な霊力を吸い寄せる磁場の如きモノだった。
こうした澱みは、精霊樹の苗床でもある。
メルは精霊樹に導かれて、帝都ウルリッヒを訪れたのだ。
〈メルー。こんな日も差さない地下に植樹して、ちゃんと根付くの…?〉
〈ダヨネー。でもさぁ…。たぶん精霊樹って、普通の植物じゃないと思うんです〉
〈妖精猫族が、普通のネコでないのと同じ…?〉
〈そそっ…。ミケ王子がネコっぽいだけなのと同じで、精霊樹も植物っぽいだけだと思うのね…〉
〈なるぅー〉
なんにせよ精霊の子は精霊樹の枝に従って、為すべきことを為すのみである。
精霊樹の枝は、屍呪之王に根を張りたいと訴えていた。
クリスタとアーロンにミケ王子。
更に三万を越える妖精打撃群が、固唾を呑んで見守る中…。
メルは恐るおそる屍呪之王に近づいて、その鼻面に精霊樹の枝をくっつけて祈った。
全てが救われますようにと…。
「くぅーん」
「はぅっ!」
屍呪之王は小さく鼻を鳴らすと、ゆっくり瞼を閉じた。
メルが予期していた、激しい戦闘はなかった。
巨大な邪霊との対決は、鼻先に精霊樹の枝を立てるだけで終わった。
メルが祈りを捧げた精霊樹の枝は問題なく屍呪之王に根付き、地下迷宮に溢れていた怨霊たちを集めだした。
枝についていた蕾が綻び、薄紅色の花を咲かせようとしていた。
「はぁーっ。はんてん…。ハンテン!息しとらん…。おまぁー、死んどぉーヨ!」
屍呪之王の鼻に触れたメルが、悲しそうな顏で叫んだ。
今、呪われた生が、ようやく幕を閉じた。
そして…。
屍呪之王を千年の長きに渡って封じ込めてきた忌み地の、浄化と再生が始まろうとしていた。
◇◇◇◇
ラヴィニア姫は灰色の部屋で、ずっと待っていた。
迎えに来ると言った娘が、再び訪れるときを…。
娘から貰った果実は瑞々しくて、とても甘かった。
命が染みわたるような感覚と共に、ラヴィニア姫の記憶も蘇った。
ラヴィニア姫が暮らす夢の世界は、かつてのように色鮮やかな景色を取り戻した。
でも、それは一時のコトでしかなかった。
日を置かずして、全ては脆くも瓦解してしまった。
諦めと虚無と忘却が、ラヴィニア姫の小さな世界を容赦なく侵食していった。
花壇の草花を覚えておこうとすれば、お城の部屋が消え失せた。
せっかく喋りだした両親は、クローゼットの衣装を数えていたら居なくなった。
そうこうするうちに、お城を走り回っていた人々の喧騒が遠ざかり、何もかもが朧な影法師へと姿を変えた。
そしてラヴィニア姫の世界から、ひとつずつこぼれ落ちていく。
幾ら泣いたところで、壊れていく世界を繋ぎとめるコトなどできなかった。
ラヴィニア姫には、灰色の四角い部屋だけが残された。
家具もベッドもない、ガランとした四角い箱だ。
ラヴィニア姫はハンテンを胸に抱いて、ひとつだけ残された扉を見つめていた。
約束した娘が訪れるときを待って…。
窓ひとつない部屋で、その扉だけが外界との接点だった。
「わんわん…!」
ハンテンが激しく吠えたてた。
「どうしたのハンテン…?」
ハンテンはラヴィニア姫の腕から飛びだして、盛んに扉を引っ掻いた。
「ワンワン、ワンワンワン…!」
「やめてよハンテン…。あなたまで、わたしを見捨てるつもりなの…?」
ラヴィニア姫は慌てふためいて、外に出たがるハンテンを止めようとした。
ひとりは駄目だ。
ひとりぽっちにされるのだけは、耐えられなかった。
だが無情にも固く閉ざされていた扉が開き、ハンテンは勢いよく飛びだして行った。
「わんわん!」
扉の向こうで、ハンテンが吠えた。
ラヴィニア姫に、『こっちへ来い!』と吠えまくる。
「まって…!わたしを置いてかないで…」
ラヴィニア姫はハンテンを追って、扉の外へと足を踏みだした。
勇気を奮って、何もない光の空間へ…。
足もとに地面が感じられなかった。
「キャァー!」
ラヴィニア姫の身体が、成す術もなく落下した。
どんどん速度を上げて落ちていく。
吠えたてるハンテンの姿が豆粒のように小さくなり、遂に見えなくなってしまった。
そして…。
「はぅ…!」
目が覚めた。
ラヴィニア姫は、柔らかなベッドに身を横たえていた。
視界が霞んでよく見えない。
力を入れても手足が動かない。
声を上げたいのに、喉が掠れていた。
だけど、世界には色があった。
匂いがして、確かな手ごたえがあった。
ゆっくりと呼吸をする。
カーテンを揺らし、爽やかな風が吹き抜けた。
ラヴィニア姫の傍に、ハンテンの気配がなかった。
どうしようもなく、心が痛い。
(はんてん…)
ラヴィニア姫の目から涙が溢れだした。
泣きだしたら止まらなくなった。
大きなベッドの上で…。
若葉色の髪をした愛らしい女児が、シクシクと泣いていた。








