魔女さまの正体
封印の塔は不快な臭いが漂う、陰気な場所に建っていた。
見張りに立つ衛兵も、精神的な負担ゆえに通常の持ち場より頻繁に交代する。
体調不良による、隊員の入れ替わりも激しい。
無理を押せば、心の病に侵されるのだ。
屍呪之王を地下深くに封じた場所なので、鍛えられた衛兵たちであっても悪しき影響から免れないのは当然のことだった。
この忌み地で平気な顔をしているのは、ラヴィニア姫の看護についているユリアーネ女史だけであった。
ユリアーネ女史はエルフの魔法医師で、霊的に心を閉ざす特殊スキルを備えていた。
アーロンがラヴィニア姫のために連れて来た、担当医兼看護師である。
「つっ…!鼻が痛い…」
アーロンは魚の干物が腐ったような臭いに顔をしかめ、エルフの霊的な嗅覚を呪わしく思った。
封印の塔には、地下へと向かう入口しかない。
上層階へ向かうには、専用の梯子を設置して登るのだ。
不便なように思えるけれど、定期的に行われるメインテナンス時にしか、上層階に人が立ち入ることはない。
高くそびえる塔の上層階には、何層もの魔法陣が設置されていた。
まるで屍呪之王を重石で押さえ込むかのように。
ラヴィニア姫の部屋は塔の基部、それも最下層に位置した。
封印の塔から屍呪之王が封印された石室へ、道は通じていない。
石室を目指すなら、地下迷宮を通るしかなかった。
これもまた、安全対策のひとつである。
アーロンは地下へと向かって、薄暗い石段をくだっていく。
必要以上に魔法ランプが設置されているにも拘らず、いつだって灯りが足りないと思う。
ここに足を踏み入れた者は声が小さくなり、やがて口を利かなくなる。
(生者の世界から死者の世界へと移動しているような、うすら寒い気分になる…。封印術式の圧による錯覚だと分かっていても、心穏やかではいられない)
アーロンは生理的な嫌悪感を押し殺して、足を進めた。
エリアごとに配備された衛兵たちは、アーロンに身分証を提示されただけで扉を開く。
どの衛兵も知っている顔だ。
衛兵たちも、アーロンのことを覚えていた。
それほどアーロンは、ラヴィニア姫のもとを頻繁に訪れていた。
しかも見舞客は、アーロンしか居ないのだ。
「ご苦労様です…」
「どうぞ、お通りください」
交わす言葉は数語に過ぎない。
口を利けば悪霊に狙われるとでも、思っているのだろうか…?
だが頭から否定するには、周囲の雰囲気が悪すぎた。
腐臭はますます酷くなり、アーロンの眉間が重くなってくる。
アーロンはフロアごとに設置された幾つもの検問を抜けて、漸くラヴィニア姫の眠る部屋にたどり着いた。
「アーロンです。失礼いたします」
「どうぞ、お入りください」
扉の向こうから、穏やかだけれど意志の強そうな女の声が答えた。
アーロンは静かに扉を開けて、部屋に入った。
魔法による換気もむなしく、封印の巫女姫が眠る部屋には死臭が立ち込めていた。
ベッドの傍でラヴィニア姫の看病をしているのは、エルフの魔法医師だった。
「お久しぶりです。姫さま。お役目でメジエール村まで行っておりました」
アーロンはベッドに横たわるラヴィニア姫を見つめながら、囁くように報告した。
「ユリアーネ医師…。姫の御容態は…?」
「よい訳がありませんでしょ」
ユリアーネ魔法医師は表情一つ変えることなく、淡々と答えた。
冷淡そうに見えるユリアーネだが、その実ラヴィニア姫を思いやる気持ちは人一倍強い。
屍呪之王が発生させる穢れにより、メンタルダメージを受けないよう心を封鎖しているので、表情はピクリとも動かない。
まるで美しい人形のようなエルフ女性だった。
ユリアーネもまたアーロンと同じ時代を生きたエルフであり、屍呪之王を封じるに当たっては言葉に出来ない色々を背負い込んでいた。
その思いを注ぎこむようにしてラヴィニア姫のケアをするので、死臭に顔をしかめたくなるような部屋であっても、ベッドや包帯に不潔な汚れなどひとつも存在しなかった。
穢れているのはラヴィニア姫であり、不快な死臭の発生源もまたラヴィニア姫だった。
「メジエール村で精霊の子に会いました」
「…………?」
「調停者さまは屍呪之王を滅するおつもりだ。いや解呪と申されていたが、要するに屍呪之王は消え去るのです」
「そのような話を私に聞かせて良いのですか?」
「もちろん、秘密です。まだ、皇帝陛下にも伝えておりません。だけど貴女には、知っておいてもらいたかった…。申し訳ありませんが精霊の子については、ここだけの話にしてください」
「では、ラヴィニア姫は…?」
「救われます!」
アーロンは力強く言い切った。
◇◇◇◇
メルはジッと森の魔女を見つめていた。
視線を注いでいるのは、違和感を覚えた右手の先である。
そこに何やらモヤモヤとしたものを感じてから、気になって仕方がないのだ。
違和感の発生源は、右手の人差し指に嵌められた指輪だった。
使い込まれて擦り減った指輪から、怪しい力が生じている。
気づいたのは瀉血と造血を強引に繰り返し、メルのレベルが十一になったときだ。
新しく獲得した『精霊召喚』のスキルと、何某かの関係があるのだろう。
怪しい力の流れを目で追っていくと、森の魔女がチラチラと揺らめいて見えるようになる。
そして瞬間的に姿を変える。
「はぅ…?」
メルの目に焼き付いたのは、夜の女神を想わせる黒ずくめの美女だった。
そして、それこそが調停者の姿であった。
集中力が途切れると、一瞬にして森の魔女へと戻ってしまうのだが。
メルにとっては、驚くべき発見と言えた。
(アビーよりオッパイが大きい…)
慈愛に満ちた優しげな顔立ちと大きなバストは、幼児が心から求めてやまぬ桃源郷なのだ。
しかも夜の女神とでも呼びたくなる豊満な女性は、メルと同じで耳が尖っていた。
メルに言わせれば、『ママ』である。
ママは良いモノなので、何人いても良い。
パパはひとりで充分だった。
このときより森の魔女は、メルにロックオンされた。
婆さまを相手に甘えたのでは申し訳ないが、若くてボインの成人女性となれば話が別だ。
思うさま甘えたり、ねだってもよい。
そうなると厄介なのは、指輪が作りだしている幻影だった。
(ママに甘えるのは有りだけれど、お婆ちゃんに無理やり抱きついたり、ぶら下がったりしたらダメだ…。転んで骨でも折ったら、大変だもん!)
メルのなかの常識が邪魔をして、婆さまの外見をした森の魔女に甘えられない。
正体に気づいていても、行動に移せない。
(だけど…。ババさまの姿を剥ぎ取ってしまえば、好き放題に甘えられるじゃないか…)
そこで考え込んだメルは、怪しい指輪のモヤモヤを排除することに決めた。
魔法術式的な捉え方をするなら、暗号コード化された映像信号を復号化するに等しいのだが、既にメルは直感だけで平文にたどり着いていた。
あとは正しいコードを定着させるだけである。
(感覚としては、ラジオの周波数を合わせるようなイメージなのか…?)
メルにとっては、正しくそれだけの話だった。
難しい計算も要らなければ、総当たりのパスコード解析も要らない。
怪しい力の流れを丁寧に遡行して、知覚から除去するだけだ。
この欲望塗れの修行が役に立って、メルは高位の『偽装』スキルを習得した。
妖精パワーを利用して、己の姿を偽れるようになったのだ。
帝都行きを前にしての朗報だった。
「ババさま、だっこせぇ…!」
「うおぉーっ?なんじゃ、オマエさまは…。こんな婆に、ベタベタしおって…」
「うふぅー。ババさま大好きじゃ」
「ババアに引っ付くのは、止めんかい」
森の魔女はシワ深い顔で、メルを叱りつけた。
だがメルの目には、漆黒のドレスを纏った、タワワな乳房を持つ女神さましか見えていない。
その顔は嬉しそうに微笑んでいた。
賢い婆さまも良いが、やはり優しいママは最高なのだ。
世の為政者たちから『調停者』として恐れられる漆黒の女神は、メルにとってママでしかなかった。








