母娘の絆
恵みの森。
豚飼いのエミリオ一家が暮らす養豚場の近くに、隠された魔女の庵があった。
その美しい庭には、ラヴィニア姫が植えた精霊樹が、広く枝葉を茂らせていた。
森の魔女ことクリスタは、精霊樹の下でお茶を楽しむのが日課だった。
妖精たちが遊ぶ庭で、穏やかな感謝の気持ちに浸りながら過ごすティータイムは、クリスタをホッとさせる。
隠された庵の近くに祠が設置されてからは、森の魔女を訊ねてくる客人も幾分か増えた。
広大なメジエール村の各所に設置された祠には、簡易ゲートが設置されていて、村人たちの移動を助けている。
その他にもコンクリートで舗装された道が何本も造られ、重い収穫物や肥料の運搬などに魔法の荷車が使用されるようになった。
メジエール村は高度に発展し、以前より快適な暮らしを村人たちに提供していた。
ドワーフの長であるドゥーゲルやゲラルト親方、土木の妖精たちが張り切った成果である。
市場にはエルフの里で採れた珍しい野菜が並び、コッコさんの卵や肉も気軽に買える。
魔法の工芸品も種類が豊富で、生活に潤いを与えていた。
まだまだ手を入れる余地は残っているようだけれど、メジエール村らしさを損なってはいけないと、精霊議会が公共事業に『待った!』を掛けた。
並行世界から入手した概念を活用するのは構わないけれど、丸々コピーしてはならんと言う話だ。
こちらの世界では、こちらなりの創意工夫をせねばならなかった。
妖精郷の道理である。
四大元素、地水火風のバランスは、妖精たちが尊ぶところだ。
第一、余りにも便利になれば、村人に感謝される機会を妖精たちから奪ってしまう。
現象界と概念界の良好な関係を維持するためにも、人々が感謝の気持ちを忘れてはならない。
「おや!?」
いつものようにティータイムを楽しんでいたクリスタは、頭上の気配に気づいて顔を上げた。
精霊樹の枝影から、静かに藍碧の瞳が覗いていた。
ドリアードの特徴を有する、碧髪の愛らしい女児だった。
「おおっ。精霊樹よ」
クリスタは口元を押さえ、心の中で感謝の言葉を唱えた。
待ちに待っていた娘が、クリスタのもとに送り届けられたのだ。
姿形が変わろうとも、それは愛する娘だった。
「ベアトリーチェ、ようやっと会えたね」
「……」
トートバックに詰まった幼児は、クリスタをじっと観察していた。
だがクリスタの問いかけに、答える様子はなかった。
「あたしは、あんたのお母さんだよ」
クリスタはめげずに、優しく声を掛けた。
「いま、お母さんが降ろしてあげる。そこでおとなしく、待っておいで」
「ない!」
精霊樹の幹に手を掛けようとするクリスタに、幼児が叫んだ。
「えっ?」
「リーチェ。おかあちゃま、ない!」
「おやおや、なにを言っているんだね。あたしがお母さんだよ」
「くるな。リーチェ、どくおやいらない」
「どっ、毒親……!?」
ベアトリーチェはトートバックから身を乗り出し、精霊樹の枝を必死の形相で掴んだ。
しかし所詮は幼児、いまにも落ちてしまいそうで危なっかしい。
「はぁ……。仕方ない」
クリスタは一つ息を吐くと、慎重に魔法の呪文を詠唱し、精霊樹から無理やりベアトリーチェを引き剝がした。
「やめろー。はなちぇー。もどちぇー。あたちは、ひとりがいい。きのうえで、くらすのー。おまえ、おかあちゃま、ない!!!」
ベアトリーチェは目に涙をため、泣き叫んだ。
「ない、ない。はなちぇー!!」
「絶対に放さないよ。リーチェはあたしの、愛おしい娘だからね」
「おまえ、おかあちゃま、ないー!!!」
こうしてクリスタの子育ては、再会した愛娘の猛烈な拒絶からスタートした。
エリクの討伐を果たし、メジエール村は翌年の春を迎えていた。
ベアトリーチェ、推定年齢3才、女児。
早すぎる反抗期であった。
◇◇◇◇
「泣く、逃げる、噛みつく。それはもう、すごい有様ですわ」
「クリスタさん、すっかり窶れてたね」
「明らかに育児疲れですわ」
メルとラヴィニア姫は、ベイビーリーフ号を走らせてミジエールの歓楽街に来ていた。
目当ての人物は斎王ドルレアックである。
楼閣の中庭で縁台に腰を下ろし、三人はお茶をしていた。
茶菓子はメルが用意したどら焼きである。
薄めに焼かれた皮は指にべとつかず、仄かな甘みと小豆の香る餡が後を引く。
さっぱりとした風味の上品なお茶請けだった。
「美味しいですね。幾らでも食べてしまいそう」
斎王は窶れたクリスタを見て、笑ってやりたいと思ったが、直ぐさま反省した。
調停者クリスタは長年敵視してきた相手だが、エリクを滅ぼしたのなら、充分に罪を償ったと言えよう。
それどころか千年かけてユグドラシルを再生した、救世の聖女とも解釈できる。
クリスタを憎むのはもう、止めるべきだった。
「それでなー。さいおーさまに訊きたいことがあるんじゃ」
「はてさて、どのようなことでしょう?」
「子育ての方法じゃ」
「わたくしに子供は居りませんよ。子育ても経験がありません」
「そんなん知っとります」
「だったら、何故そのような相談を……?」
斎王がニッコリと笑って、僅かに首を傾げた。
「言いづらいんやけど……。斎王さまって生まれついてから、ずーっと反抗期ですやろ」
「そんなこと、誰に聞いたんですか?」
「森の家を管理しとるエグランティーヌから、教わりマシタ」
森の家とは、メジエール村に用意されたエルフ族の施設である。
今では空いた土地一杯に拡張され、人族とエルフ族の経済交流を支える、市場のような役割を担っている。
またエグランティーヌは聖樹教会の斎女であり、長きに亘り斎王ドルレアックの世話係を務めていた。
「フフフッ……。あの娘、余計なことを」
斎王の微笑みが怖い。
性を偽って、お淑やかに生きる男の娘には、隠しておかねばならぬ秘密が多かった。
「そもそもエルフって、意味もなく反抗的やん。やけんわらしは、エグランティーヌにエルフの子育て方法を聞きに行ったんじゃ。したっけ、知らんと言われてしもうてのー。そう言うことなら、斎王さまが詳しかろうと、その場でエグランティーヌから助言を頂きマシタ」
「ですから、わたくしには子供など居りません」
「いや、だから……。親の立場でのうて、子供の立場からの意見を聞きたいんじゃ」
「はっ!?」
「斎王さまって、嫌いなヤツが仰山おったやろ。立場上、ぜーんぶ敵に回すんは辛い。せやから、そこにどうやって折り合いをつけたんか、そこんところを知りたいんや」
「うーん」
斎王が湯呑茶碗を口に付け、考え込んだ。
伏し目がちになり、忌々しい過去の記憶を探る。
「絶対に許せん相手と、どうやって仲良くなった?そんな場面は、長い人生の中で度々あったやろ。立場だって、エルフの長やし。耐えがたきを耐え、大嫌いな相手と手を結んだときのことデス」
メルはもう、すっかり教えてちゃんだ。
正直に答えなければ、いつまでも追及を止めないだろう。
「なぁなぁ……。教えてくれんかのー。わらし、少しでも婆さまの助けになりたいんじゃ」
メルが上目遣いになり、斎王の顔を覗き込む。
こうなっては仕方がない。
荒くれていた頃の自分をメルに教えたくはなかったけれど、妖精女王陛下のお願いだ。
ここは腹を割って、打ち明けねばなるまい。
「敵ですかね。共通の敵をボコると、スカッとして分かり合えたような気になります。もっと許せない敵を一緒にボコるんです」
「それやー!」
メルが小躍りして手を打ち鳴らした。
◇◇◇◇
「ちわー、ミケネコ便だよ。お届け物でぇーす」
「おや、ミケ王子かい。いま、手が離せないんだよ」
クリスタはベアトリーチェを押さえつけ、着替えさせていた。
ついさっきまで、ベアトリーチェは泥まみれになって暴れていたのだ。
「えー。サインが欲しいんだけど」
「あんたが書いといてくれ」
「それは職務違反だよ」
「ええい。面倒な」
クリスタが魔法でサインをした。
「まいどありー」
伝票の控えを切り取り、踵を返したミケ王子の背に……。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!!」
クリスタの悲鳴が届いた。
振り返ると組み敷かれたベアトリーチェが、クリスタの太ももに噛みついていた。
一瞬のスキも見逃さない、ベアトリーチェの攻撃だった。
「うわぁー。メルと同じくらい狂暴だ」
仕えるべき女王さまは、一人居れば充分だった。
これ以上増えたら、過労死してしまう。
ミケ王子はなんにも見なかったことにして、赤い魔法のスクーターに乗るとアクセルを吹かした。
魔法のスクーターは荷物が積まれたリアカーを引いて、空高く舞い上がった。
「まったく、やれやれだよ」
ベアトリーチェの歯形が残る太ももに絆創膏を張ったクリスタは、ミケ王子が配達しくれた小包を手にした。
「おまいら、どけー。ピカピカすゆな。あたちはじゆーだ!」
ベアトリーチェは逃亡を阻もうとする無数のオーブと格闘していた。
その動きは、幼児と思えぬほどの俊敏さである。
でも幼児なので、思考のセンテンスは極端に短かった。
ベアトリーチェは妖精たちを追いやろうとして、クルクルと回った。
それではいつまで経っても、クリスタの庵から脱走できない。
「おや、メルからじゃ。何を送って来たんだい?どれどれ……」
挟んであったメモを拡げると、相変わらず汚い文字が紙面を這いずっていた。
「なになに……。知育玩具じゃと。お子さまが人に頼る素直さを学ぶ一助となれば、幸いです?おおっ、オーダーメイドかい。この世に、ひとつだけの魔法具。随分と気合の入った贈りものじゃないか」
クリスタは試しとばかりに、その小さな魔法具を起動させた。
「おぉー。フニフニとしたものが溢れてきたぞ。大きく膨れるんじゃな。で、これは何じゃ?人形のようじゃが……」
暫くしてフニフニしたものが形を成すと、クリスタが固まった。
『やあ、ベアトリーチェ。私の大切な宝よ。お父さんのところへお出で……!』
人形が動き出し、喋った。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!!!!!!!」
ベアトリーチェは恐怖で震え上がり、大絶叫だ。
何となれば、その人形は若かりし頃のエリックに生き写し。
口調や立ち居振る舞い、その声までもが瓜二つだった。
「この、ろくでなしが……。あたしの娘を怖がらすんじゃないよ!」
クリスタの怒りが爆発し、音速を超える鉄拳が人形の腹に突き刺さった。
『ウボッ!!』
偽りのエリクが姿を消すと、クリスタは恐怖に泣き叫ぶベアトリーチェを抱きかかえ、一生懸命あやした。
「メルのヤツ。いったい何のつもりだい?ことと次第によっては、ただじゃ済まさないよ!!」
魔法具は消えてしまったけれど、人形のエリクは執拗だった。
倒しても倒しても、際限なく姿を現してはベアトリーチェを脅かす。
そしてエリク討伐が十回を数える頃になると、ベアトリーチェはクリスタのスカートを掴むようになった。
「おかあちゃま、つよい?」
「…………ッ!?ああ、安心おし。ベアトリーチェは誰にも渡さない。あんたのお母さんは、すっごく強いのさ」
「あぅ、あたちもつよくなれる?」
「勿論さ。リーチェは、あたしの娘だからね。あんなフザケタ男、一緒に殴り倒そう」
「うん。あたち、やちゅける!」
ベアトリーチェの瞳に信頼の光が点った。
クリスタの粘り勝ちである。
メジエール村に夏が訪れた。
今年はドワーフの長であるドゥーゲルとゲラルト親方が、大きな公営プールを造った。
中の集落で遊ぶ幼児たちは、窮屈な金盥での水遊びを卒業し、大はしゃぎだ。
「冬季はアイススケート場にする予定だ」
「アイススケートが何なのか、ちと分かっていないんだがヨォー」
「アイススケートは氷の上を滑るんじゃ。楽しいデス」
新しい水着姿で、メルはドゥーゲルとゲラルト親方にサムズアップして見せる。
「やあ、メル」
「むっ……。婆さま、おひさしぶりデス。おりょりょ、横に居るのはぁー」
「リーチェだよ。リーチェ、メルに挨拶をしな」
「はじめまちて……。リーチェでち」
「はじめまして、メルだよぉー」
メルは両手を広げ、ベアトリーチェをハグした。
何しろ、幼児ーズのメンバーは、子供の遊びを卒業してしまった。
幼児ーズも卒業して、今では妖精女王陛下の側近だ。
メルにすれば、新メンバーは大歓迎だった。
近隣の子らは兄や姉から幼児ーズの武勇伝を聞かされているので、メルを恐れて近づこうとしなかった。
「永遠の幼児は、今年も呑気に水遊びかい?」
「永遠とか言うなし。わらし傷つくわ」
「そう言わず、リーチェと遊んでやっておくれよ」
「んっ。まずは水着じゃな。いろんなのがあるで、リーチェの好きなのはどれかのー?」
メルはポシェットから、女児用の水着を引っ張りだした。
もはや何もかもが当たり前となり、変態TS幼女の要素なんて欠片もなかった。
「わぁー。えらんでいいの?」
「エエでぇー」
ベアトリーチェはプールサイドにしゃがみ込み、水着を選び始めた。
「メルや。あの魔法具、本当に助かったわ。礼が言いたくてな」
「あれなぁー。エエやろ。わらしも、自分用のを買たど。毎日、朝晩、ぶん殴っとる。したっけ、気分爽快じゃ!グハハハハハハハハハハッ……!!」
メルが自分のために花丸ポイントで購入したのは、エリクの爺バージョンだ。
偉そうにふんぞり返った爺を殴るのは、最高に楽しかった。
モヤモヤが晴れて、スカッと爽やかな気分になれる。
ヨイ子は、自分に相応しいストレス解消法を身に着けなければならない。
さもないと我慢をしすぎて、陰気な子になってしまうからだ。
そんなことが続けば、唐突に発狂するやばい子に育つ。
行きつく先は、闇堕ちである。
世の母親は、抑圧するばかりが子育てではないことを知っておかなければならない。
おとなしくて口答えしないお行儀のよい子供が、心の内に狂暴な獣を飼っているかも知れないからだ。
『ウチの子がまさか!?』と、隠されていた暴力性が表面化してから嘆くくらいなら、ギャーギャーと神経質にならず泥団子戦争くらい許容すべきなのだ。
でも三つ編み泥団子は、メジエール村の子たちから泥団子戦争への参加を禁止されていたので、ストレス発散のためにエリクの顔を殴る。
優れたる幼児にも、他人に言えない隠された努力というものがあった。
メルだって色々と大変なのだ。








