懐かしの我が家
ラスボスの部屋は空っぽだった。
倒すべき強敵は居ない。
「ウーム。ここで戦闘になるのは絶望的やけど、結局クリアできんで終わるんも悔しい」
心残りであったエルフ少年のゲームは、未消化のままだ。
「あっ。メルー、あそこに矢印!」
ミケ王子が壁を指差した。
「恐るべき方々が約束して下さった脱出路です」
メルに抱っこされたアヒルの案内役が、得意げに言った。
「この胸くそ悪い世界から抜け出せゆなら、なんでもエエわ!」
推定年齢四歳児相当のボディーに戻されてしまったメルは、不機嫌そうに怒鳴った。
何しろここは、おどろおどろしげなボスステージ。
陰気で汚らしい暗緑色の空間である。
ボスも居ないし、派手派手しい戦闘で盛り上がる要素もないとくれば、ただ陰気で不快なだけだ。
とっとと、お暇するに限る。
「こんな穴ぽこ、印が無ければ見つけられんわ!?」
赤くてデッカイ矢印は、壁に開いた小さな小さな穴を指し示していた。
「随分と小さなトンネルだね。どこへ続いているのかな?」
「そこまでは知らされておりません」
「わらしは、なんとのー想像がついとる」
あの忌まわしい連中がいた場所と言えば、樹生として暮らした前世の世界だ。
「穴、ちっさいね。ギリギリ?」
「うむ」
脱出路はメルの背丈ほどしか高さのない、心もとないトンネルだった。
それでも妖精母艦メルに配属されていた仲間たちが、己の存在を賭して残してくれた可能性だ。
文句などあるはずがなかった。
「行くどぉー。ミーケ!」
「おう。合点だい!」
「迷わず行けよ、行けば分るさ!」
幼児とネコ、それに黄色いアヒルが脱出路へと突入した。
長く、狭くて暗い道を挫けずに進む。
一人では不安で泣いてしまいそうな試練も、仲間が居れば大丈夫。
「こ、こ……。木枯らし。『し』じゃ、ミケ」
「し、し、し……。しらすゴハン」
「あっ。『ん』がついたど……。ミーケの負けデス」
「待って、待って……。しらす干しって、言おうとしたんだよ」
「待てません。勝負の世界は厳しいのデス」
暗がりを進みながらの、しりとりである。
無謀で知れた幼児ーズの中核をなす、女児とネコだ。
今より先のことなんて、爪の先ほども心配していなかった。
異世界転生したときに所持していた背嚢は、メルの肩から垂れ下がっていた。
ミッティア魔法王国の宮殿で、お宝があったら拾って帰ろうと思い、わざわざ背負ってきたのだ。
「お宝は、幼児パンツと太鼓だけ……」
「ねえねえメルー。この太鼓、捨てちゃダメ?」
メルに太鼓を持たされたミケ王子は、不満そうな顔だ。
「ミケ王子。それを捨てよったら、尻尾の毛ェーを剃ります。罰デス!」
「エエエェーッ。横暴だ。ネコ苛めだよ」
「陛下とミケさんは、仲良しですね」
一旦拾ったアイテムは、意地でも捨てないメルだった。
性根がケチなのだ。
背嚢のストレージ機能は停止していたけれど、邪魔になるからと手放したりはしない。
そこには、大事にしていたタブレットPCも入れてあるから……。
「しこたま必需品を収納してあゆのに、何一つとして取り出せんのは悲しい。黒太母の支配する領域を抜けたら、復活してくえんかのぉー」
身に着けていた装備品が全壊したのに背嚢だけ残ったのは、アイテムとしてのグレードが違うからだろう。
それならストレージ機能の復活も期待できると、メルは考えていた。
「メルさん。お腹が空いたらどうしよう?」
「そこ。そえは考えたぁーアカン。弱気は不幸を招きますヨ。笑え!」
「あははははは……」
水や食料がないとか、トンネルが途中で行き止まりだったらどうしようとか、無駄なことは考えない。
困ってから考えるのが、幼児ーズのセオリーである。
今現在、解決すべきは退屈だった。
退屈だからこそ、余計なことを考えるのだ。
「陛下、陛下。出口です」
「おぉー」
「明かりだ」
前方に光の幕が見えてきた。
それは並行世界を仕切る境界面だった。
もちろん物理的な何かではなく、霊的な壁である。
「あれを越えれば、黒太母の結界を抜けられます」
「ほんなら、レッツラゴーじゃ!」
「あの幕の向こう、快適な場所だといいね」
幼児とネコ、それに黄色いアヒルが光の幕を通り抜けた。
「なんね、ここ?何ぞ、懐かしき香」
トンネルを抜けると、そこは森川家だった。
もう少し詳細に説明するなら、メルは森川家のトイレで便座に腰を下ろしていた。
懐かしい香とは、トイレの芳香剤である。
「あっ。ユグドラシル王国からの通信です。強制的に言語変換が行われるようです」
「ウハッ。この頭が重いのは、それのせい?」
「我慢してください。コチラでの活動に言語変換は必須です」
「わらしは、何ともありませんね」
ミケ王子とアヒルの案内役は、トイレの中で脳に日本語をインストールされた。
メルは日本語を話せるので、何もなし。
「あれあれあれ……。いつもと違う言葉だ。不思議な感じ」
「くぅー。日本語でちゅね。なちゅかちー」
「メルの舌足らずな幼児語が、ちょっと違う」
「ムッ。ちゃちぃちゅちぇちょ……。グヌヌヌヌッ。ちゃちぃちゅちぇちょが、上手くちゃべれまちぇん」
以前はラ行で苦しんだが、今回はサ行がやばかった。
「メル、カワイイ」
「やかまちぃー!」
メルは腹を立て、勢いよくトイレのドアを開けた。
「あっ!?」
「エェーッ!!」
ドアの外に立っていた母親の由紀恵が、驚きの余り抱えていた洗濯カゴを取り落とした。
幽霊を見たような由紀恵の表情は、やがて喜びに変わった。
「………イツキ?もしかして、メルちゃんなの!?」
「あい」
数年ぶりに再会した母親は、メルが見上げるほど大きかった。
メルは幼児パンツ一枚を身に着けた姿で、恥ずかしそうに身を捩った。
「あはは……。帰って来ちゃいまちた」
「おかえり、イツキ」
由紀恵はメルを掻き抱き、滂沱の涙を流して号泣だ。
樹生の看病に疲れ果て、精神に不調まで来たした由紀恵である。
もしそれが夢幻の類であろうと、メルたちを快く受け入れたに違いなかった。
時刻は正午前。
父親の徹は、会社に出かけていた。
兄の和樹も又、アルバイトで家を空けていた。
「お父さんがね。そんなものを買っても無駄だって、叱られたんだけど……。買っておいてよかったわ」
「うん」
言わずと知れた幼児服である。
高級そうな仕立てで、普段着とは言い難かった。
「父しゃん、無駄ちゅかいはきらい」
「そうよねー。よく覚えてるわね」
「ウムッ」
父親の徹が無駄遣いを嫌うので、樹生は居た堪れない気持ちになった。
無駄遣いを言うなら、どうせ長生きできっこない樹生の医療費こそ無駄に思えた。
樹生は、たいそう捻くれていたのだ。
それもこれも、あいつら疫病神どものせいである。
キッチンのテーブルに着いたメルとミケ王子は、由紀恵が用意してくれた昼食を夢中になって食べた。
「美味しいねぇー」
「うん。おいちぃー」
「ミケ王子は、本当に喋れるのね」
「あい。ミーケはネコでなくて、ケットチィーでしゅから」
喋るネコに驚きはしても、騒ぎ立てることなく受け入れる。
由紀恵の人並外れた順応力は、偏に病弱だった息子への尽きせぬ愛である。
母の愛だ。
「アヒルさんは、何を食べるのかしら?」
「いえ。お母さま、どうか私のことはお気遣いなく。見ての通りオモチャなので、何も食べません。お風呂にでも浮かべておいていただければ、勝手にエネルギーをチャージします」
「そうなんだー」
玩具のアヒルが喋っても、一向に動じない。
「ごちそうさまでした」
「フゥー。お腹いっぱい」
「お粗末さまです」
メルは床に置いてあった背嚢を手に取り、口を開けた。
「それって、病院で使っていたデイパックだよね」
「あい。いちぇかいでも、ちゅかってまちた」
「不思議よね」
由紀恵は小さく微笑み、首を傾げた。
「おっ、シュトレージが回復ちてる」
メルは背嚢からタブレットPCを取り出して、起動させた。
「おう。問題なしゃそぉー」
いつものステータス画面だ。
だがしかし、それを確認するなりメルの表情は曇り、アワアワし始めた。
「どうしたのさ、メル?」
「ざ、残機がぁー」
なんやかやで十八個まで増やしたメルマークが、残り二個に減っていた。
メルの想像が間違っていなければ、黒太母に拘束されたとき、十六回ほど死と再生を繰り返したことになる。
「やばぁー。やばぁー。やばかったぁー」
もしメルマークを増やしていなければ、今頃どうなっていたことやら。
考えるだに怖ろしい。
だからメルは、即座にタブレットPCをシャットダウンした。
「何も見なかったことにちまちゅ!」
森川家の居間には真新しい仏壇が置かれ、樹生の遺影が飾られていた。
両親ともに祖父母は健在なので、この仏壇は樹生のために購入されたものと思われる。
かつて居間であった部屋は、仏間になっていた。
「ムムムッ……」
メルとしては、どうにも奇妙で落ち着かない気分だ。
だけど見てしまったのだから、仕方がない。
お灯明に火を点し、線香に手を伸ばす。
煙る線香を線香立てに挿したら、両手を合わせて。
「南無ぅー」
チーン。
おりんが、良い音を立てて鳴った。
「ただいまー、母さん。お客さんかい?」
そこにバイトから戻った和樹が姿を見せた。
「はぁ!?」
耳の尖った幼女とネコが、仏壇を拝んでいた。
なんなら弟の樹生に線香をあげ、しみじみとした様子で手を合わせている。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!!!!!」
あれほど異世界動画で稼がせてもらったと言うのに、和樹には怪現象に対する順応性がなかった。
ネットで動画でメールなら全く平気だが、現実となるとそうも行かない。
リアルな日常空間に、オカルトな存在は御免被りたい。
「兄よぉー。【断罪の闇聖女】。四巻以降を買ってくだちゃい。ずっと続きが読みたかったのでしゅ」
そこに悪鬼のような目つきをしたメルが振り向き、話しかけてきた。
そのとき、怪現象が和樹のリミッターを振り切った。
心理的な拒絶反応が和樹を支配した。
「ウギャァァァァァァァーッ!仏間にゴブリンがいるぅー!?」
「ゴブリンって……。兄よ、それは酷くない?」
騒ぎを聞いて駆けつけた由紀恵は、涙ぐむメルを目にすると、和樹が正気を取り戻すまで丸めた新聞紙で打ち据えた。
「かず。あんたは、どうしてメルちゃんを泣かせるの……!?」
「イタタ。痛い。やめてくれよ母さん。メルか。メルが居るのか?マジかよぉー!?」
夜になって帰宅した父親の徹も、和樹と同じような騒ぎを繰り返すのであった。








