よい子から、わるい子へ
「えい、えい、えい、えい、えい……!」
焼き上げたビスケットを大きなガラス鉢の中で、ベキベキと砕く。
ザクザクと細かくする。
このビスケットは、ババロアケーキの底になるのだ。
試食用の小さなケーキ型を調理台に用意する。
砕いたビスケットと溶かしバターを混ぜ合わせたら、ケーキ型の底にまんべんなく敷き詰める。
「んしょ、んしょ!」
何となく道路工事に似ている。
砂利とアスファルトを敷き、プレートコンパクターでドドドッ!と叩くあれ。
メルはドドドッ!と叩いたりしないけれど、大きな木匙を使ってギュウギュウ圧した。
砕いたビスケットを均一に広げ、破片同士の隙間を無くし、溶かしバターの粘りを頼りに圧着させる。
「おし。こんな感じやろ!」
これを冷やせばバターが固まる。
細かく砕いたビスケットの欠片が砂利で、バターはアスファルトだ。
冷却は風の妖精に任せて、ババロアケーキの底が完成した。
「つぎはぁー。ババロアじゃ!」
とても乱暴な説明だが、ババロアとは砂糖で甘くしたクリームをゼラチンで固めたスイーツである。
ババロアケーキは、基本オーブンを使わない。
ケーキの底となるビスケットやタルトを焼くときに、使用するだけだ。
「フンフン♪」
ボウルに生クリームを入れてホイップする。
生クリームは冷えていた方が混ぜやすいので、こちらも風の妖精にお願いする。
緑と青のオーブが、ボウルの周囲で楽しげに踊る。
「ひんやりじゃ!」
適量の砂糖を混ぜながら、緩めのホイップクリームを仕上げた。
「ここに分量のカルーアを注ぐ」
カルーアを入れて混ぜ混ぜ。
これも冷却だ。
ふんわりとカルーアの甘い香りが漂う。
「なぁなぁ妖精さん。くれぐれも、そいつを凍らさんといてな」
合点承知とばかりに、ボウルに取り付いたオーブたちがリズミカルに点滅した。
ことお菓子作りに於いて、材料の温度管理はとても重要なのだ。
「そしたら、アングレーズソースを作らな……。忙しい、忙しい」
基本のババロアにはアングレーズソースを用いる。
ところでアングレーズソースとは何ぞや?
言うなればカスタードである。
カスタードクリームのビチャビチャしたものを想像すれば、それがアングレーズソースだろう。
カスタードクリームの粘性は薄力粉による。
カレーやホワイトソースも、薄力粉でトロミを付ける。
即ち、カスタードクリームから薄力粉を取り除いてしまえば、アングレーズソースになる。
この度、メルが作るのはカルーアのババロアなので、バニラビーンズも要らない。
コーヒーリキュールの風味を楽しみたいのだから、バニラの香りは邪魔だ。
これもカスタードクリームのレシピから外す。
「おっと、そのまえに下準備じゃ」
先ずは、容器に分量の冷水を入れてから、ゼラチンパウダーをパラパラと撒いてふやかす。
ダマになると厄介なので、なるべく広く撒く。
同様の理由から、ゼラチンを入れてから冷水を注ぐのは良くない。
折角のゼラチンパウダーが水を吸って互いに合体し、大きな塊になるからだ。
ゼラチンとはコラーゲンであり、要するにニカワである。
水を溶剤とする、強力な接着剤なのだ。
これがないとババロアは固まらない。
デロデロのクリームになる。
「使うのは、卵黄、砂糖、ミルクでぇーす」
アングレーズソースの材料が、メルの前に並んで行く。
ヒュンヒュンと飛び回っているオーブは、厨房専門のエリート妖精たちだ。
「手ごろなボウルもくらはい!」
卵黄を撹拌するためのボウルが飛んできた。
メルは卵黄に砂糖を入れて、カシャカシャと手早く混ぜ合わせた。
「火の妖精しゃん。とろ火でオネシャス」
同時に、ミルクパンに入れた牛乳を湯気が立つ程度に温める。
「ゼラチンも溶かさなアカン」
メルはふやかしたゼラチンを手鍋に移し、温湯にして欲しいと頼んだ。
待機していた赤いオーブが、手鍋の横に張り付いた。
「うっしゃ。混ぜるどぉー」
卵黄の入ったボウルに、少しずつ温めた牛乳を注いで撹拌する。
混ぜ終わったらミルクパンに戻し、弱火で加熱しながらかき混ぜてトロミを帯びさせる。
ここでも温度が重要だ。
加熱しすぎると卵黄がタンパク質凝固を起こす。
なのでトロミが出たところで、すばやく加熱を止め、別の容器に移して冷やす。
当然ながら、凝固した卵黄が食感を悪くするので、容器を変えるときにはこし器を通す。
「ここでゼラチンを投入します!」
アングレーズソースが温かい内に、ゼラチン溶液を注いで混ぜる。
冷たいアングレーズソースにゼラチン溶液を注ぐと、ゼラチンがダマになるからだ。
付け加えるなら、ダマになってしまったゼラチンの分だけ、ババロアを固める効果も薄れてしまう。
「フゥーッ。お菓子は大変デス」
最初に作っておいたカルーアと生クリームの混合物も、投入してよぉーく混ぜる。
全体にゼラチンが混ざらないと、デロデロの部分が残ってしまうのだ。
味にも、ムラが生じる。
「おっ、重たいわぁー」
メルはヘラでボウルの中身をグルグルと混ぜた。
材料が均一に混ざったら、ケーキ型に全てを注ぎ込み、ガッツリと冷やして固める。
「さぁーて、仕上げのトッピングじゃ」
コーヒーと言えば、カラメルナッツ。
カラメルナッツと言えば、コーヒーだった。
何しろ、アビーのカラメルナッツを食べ続けていたせいで、コーヒーが欲しくなったメルである。
「茶ぁーだと、カラメルナッツに負けてまう」
その相性については、改めて確認するまでもない。
バッチリに決まっている。
「カラメルソースは、作り置きがあるで」
グラニュー糖を水に溶かし、色づくまで煮詰めたものがカラメルソースだ。
プディングでお馴染みの、甘くて茶色いヤツ。
ほろ苦さは、ほんのり大人の味。
コツは、ヘラでかき混ぜないこと。
色づいたら、弱火にして鍋を揺する。
挿し水をするさいには、スプーンで少しずつ。
「今日は試作だから、作り置きで充分デス」
しっかりと冷やしたババロアをケーキ型から抜く。
火の妖精にケーキ型を加熱してもらえば、ババロアが融けてスルリと抜ける。
メルは大瓶に保存してあった、カラメルソースをお玉で掬った。
これをババロアケーキに垂らして、天辺の薄い層とする。
アビーのカラメルナッツと彩りのドライ・クランベリーを飾りつけたら完成。
「でけた!!」
メルが万歳をすると、マルグリットが厨房に姿を現した。
小皿とスプーンを持っている。
「マルー。何しに来たん?」
「試食です」
「用ないわぁー」
「完成途中のデロデロばっかり食べさせて、酷いと思います」
「しゃぁーないやん。カルーアの適量を調べんのに、いちいちゼラチンで固めるとか面倒くさいもん」
「ちゃんとした試食がしたいです」
「………………」
マルグリットに手抜きがバレていた。
仕方がない。
メルはマルグリットと試作のババロアケーキを半分こにした。
「うっまぁー!?」
「おいしい……」
大成功だった。
だが、この時点ではまだ……。
本番の大きなケーキは試作品の小さなケーキと違うことに、全く気付いていないメルだった。
「やっとれぇーん!!」
翌日、お誕生日のケーキを作り始めたメルは、絶叫した。
大きな長方形のケーキリングを用意して、意気揚々と砕いたビスケット生地を敷き始めたのだが……。
「くっ……。広すぎじゃ。これは埒が明かん」
作戦変更である。
メルの料理スキルがフル稼働して、適正解を弾きだした。
「ケーキ下層は、丈夫なスポンジ生地か……。ビスキュイジョコンドを使おう」
ビスキュイジョコンドは弾力があり丈夫なスポンジだ。
重たいババロアを支えるのに、最適だろう。
またシロップを吸わせても崩れないので、ポンシュを使用できる。
ポンシュとは、シロップとリキュールの混合液だ。
リキュールにカルーアを使えばよい。
いいや、ババロアとビスキュイジョコンドの食感を馴染ませるために、ポンシュは不可欠だった。
そしてポンシュを使うなら、カルーアの香りも欠かせない。
「おーっ。計算がパァーになってしもうた。ババロアケーキの味と含有アルコール量の折衷ラインは、食べて見んと分かりません!」
だけど、今からまたカルーアの適量を調べていたら、お誕生会には間に合わなかった。
ここまで真面目に頑張ってきたメルとしては、悔しくてならない。
ババロアケーキを諦めるなんて、心情的に無理だった。
「ふっ。ふふふっ……。もう、どぉーでもエエわ。子ろも向けの安全対策など、知った事かい!」
ここは異世界。
しかもユグドラシル王国には、未だ明文化された法律がない。
文句を言われたら、大人も禁酒にしてやる。
禁酒法だ。
メルは腕組みをして、うんうんと頷いた。
「ラビーさんは、三百歳だし……。ケーキの風味付けに、リキュールを使うだけや」
問題ない。
問題ないはず。
ちょびっとなら、ディートヘルムだって食べられるだろう。
ケーキに含まれたアルコール量だ。
酔ったとしても、どうと言うことはあるまい。
「だが……。用心のため、大人どもには取って置きの火酒を振る舞おう」
大人が酔い潰れてしまえばメルを叱れないと言う、極めて姑息な計算だった。
「まぁまとおとぉーが酔っぱらってしまえば、わらしを追及できん。わらしは安全……。ヒャッヒャッヒャッ……!」
濃厚なチーズをトッピングしたカナッペに、ウォッカ、ブランデー、ジン。
ノリ塩を振った揚げ餅に、ウイスキー、焼酎、テキーラ、ラム。
喉が渇く摘みと火酒の、スペシャル昇天セットだ。
ジュースのように甘いカクテルも用意しよう。
「火の妖精さん。微温湯でヨロー」
メルは同量の粉砂糖とアーモンドパウダーをボウルに量り入れ、適量の薄力粉と全卵を加えてから、カシャカシャと混ぜた。
作業時の適温は、暑い夏の昼下がり。
摂氏三十度オーバーだ。
別のボウルで、緩めのメレンゲを作る。
卵白を撹拌して、砂糖を加えながら角を立たせる。
こちらの作業は低温をキープした方が、ホイップしやすくなる。
メレンゲが完成したら、数回に分けて最初のボウルに加える。
メレンゲが馴染むように混ぜ合わせてから、溶かしバターを垂らす。
「混ぜ、混ぜ、混ぜ……」
オーブンシートを敷いたロールケーキ型に、この生地を流し入れる。
オーブンの設定温度は高めだ。
高温で短時間が決まり。
「守らんと失敗するから、決まりじゃ」
これは焼き上がったビスキュイジョコンドに、水分を残す工夫である。
ジックリ焼くと乾燥して、ガチガチになるのだ。
「オーブンおっけー?」
赤いオーブが、チカチカと瞬く。
合点承知のサインだ。
「頼むで妖精さん。焼き上がったら、知らせてくらはい」
お菓子作りは、化学の実験に似ている。
分量、温度、時間を守らないと、絶望に至る。
条件を揃えなければ、結果を再現することはできない。
だけど厨房専門のエリート妖精たちが居れば、何も問題なかった。
しかもメルの思念は、ユグドラシル王国国防総省情報管理局のアカシックレコード・システムと繋がっていた。
知りたいことがあればネット検索をするより早く、情報に接触できる。
アカシックレコード・システムの使用料は、三分間で五百花丸ポイントだった。
高いのか安いのか、メルには分からなかった。
「チューボウ妖精の皆さん。他の料理もあるけぇー。まくるどぉー!」
よい子ラインを粛々と走っていた通勤快速メルは、ターミナル駅で後部車両の『分別』を切り離し、分岐器を勝手に操作して、わるい子ラインへと乗り入れた。
わるい子ラインは、【お誕生会】駅への最短コースを繋ぐ路線だった。
急いでいるので、途中駅には停車しません。








