ディートヘルムとピクニック
メルが五千億もの花丸ポイントをつぎ込んだ荒れ地は、緑あふれる妖精郷として生まれ変わりつつあった。
太古に滅びた文明の名残である巨大な廃虚群は、静かに根元から崩れて土に還った。
赤茶けた砂が風に舞う干乾びた大地は、瞬く間に苔の絨毯で覆い尽くされた。
莫大な生命力を注ぎ込まれ、大地が鳴動した。
岩石砂漠はうねり、姿を変え、壁のような山脈と小川を造り、麓の盆地に緑豊かな森を生みだした。
更に低地へと流れ込んだ幾つもの川は、そこで大きな湖となる。
夜空の星を映し出す湖は、とても美しかった。
水面の輝きから誕生した妖精たちが、嬉しそうに宙を舞う。
湖の畔は綺麗に整地され、やがて石造りの都市となった。
最初に完成したのは、美麗な王宮を中心に据えた妖精女王の都だ。
身体のサイズがまちまちな精霊たちは、それぞれに自分たちの暮らし易い都を欲した。
竜族、巨人族、獣人族と、別々の場所に都が造られた。
湖底に暮らすものたちだって居る。
湖の中央に顔を覗かせた小島には精霊宮があって、祭祀や会議は主に此処で行われる。
これら全てを合わせ、新生ユグドラシル王国である。
そして、その頂点に立つ妖精女王陛下こそ、メルなのだ。
こうなると諸々の事情により、メルは妖精女王陛下に相応しい礼儀作法を学ばねばならない。
少なくとも、祭礼の最中に鼻くそを穿るのは厳禁である。
床に落ちたお菓子を拾って食べるのも、ダメだ。
誰かが妖精女王陛下をその立場に相応しく躾けなければならない。
しかも即急に……。
月光に照らされた精霊宮に、一人の女官が佇んでいた。
妖精女王の教育係に任命された、儀典長のクラウディアである。
書見台と向き合うクラウディアの顔は、憂いに満ちていた。
クラウディアが読んでいるのは、妖精女王陛下の素行を記録した分厚い報告書だった。
「………………」
クラウディアは精霊議会から預けられた報告書を読み終わり、そっと瞼を閉じた。
眼鏡を外し、指先で眉間を揉む。
「はぁー」
ため息が零れる。
「これは酷い……」
クラウディアの率直な感想であった。
クラウディアは報告書を隠し金庫に入れ、厳重に封印した。
言うなれば、この報告書はユグドラシル王国の恥を書き記した、最高機密文書なのだ。
決して、外部に知られてはならない。
◇◇◇◇
「フォォォォォォォ-ッ。ついにやりましたぞ!」
タブレットPCでステータス画面をチェックしたメルが、快哉を叫んだ。
「ついに……。ついにわらしは、憎むべき呪いから解放されマシタ」
何の話かと言えば、バッドステータスが消えたのだ。
幼児退行、すろー、甘ったれ、泣き虫、指しゃぶり、乗り物酔い、抱っこ、オネショ。
これまでメルを悩ませてきた忌々しいデバフの数々が取り除かれて、スッキリ、サッパリである。
「これで正式に、幼女は卒業と申せましょう」
そこは重要である。
見た目が少女であろうと、指をしゃぶっていたら赤ちゃんだ。
「ホンマ……。十一歳にもなって、オネショはあり得んで……」
オネショ防止のナイトキャップとも、これでお別れできる。
「これは、あれかのぉー。やっぱり妖精さんのオネダリを聞いて、荒れ地に花丸ポイントをつぎ込んだご褒美かのぉー!?」
「お姉さま。そんなに嬉しそうにして、何があったのですか?」
メルのはしゃぎっぷりに驚いたマルグリットが、不思議そうに訊ねた。
「うっ。マルー。何でもありませんよぉー」
マルグリットに『オネショの不安から解放されたのだ!』とは言えない、メルだった。
それは秘密である。
因みにバッドステータスの解除は、ユグドラシル王国の都合だった。
現象界にユグドラシル王国を出現させた以上、今後の外交などでバッドステータスは邪魔になる。
妖精女王陛下をメジエール村に馴染ませるべく用意されたバッドステータスが、ずっと放置されたまま忘れられていたのは、ステータス調整班の怠慢である。
これに気づき、急いで修正を求めたのは、儀典長のクラウディアだ。
『人族の子供が十歳にもなって、幼児退行はなかろう!』
クラウディアの訴えを聞いた精霊議会は、即座に対応した。
担当責任者は人族に関する知識の欠如を問われ、解任された。
妖精たちは自分の好きなことにしか関心を示さないので、仕方なかった。
メルの推理は、半ば当たっていた。
メルが荒れ地に花丸ポイントをつぎ込まなければ、誰もバッドステータスに気づかなかっただろう。
これはもう、ユグドラシル王国が人族の組織を真似た弊害である。
バッドステータスから解放されたメルは、気分爽快。
ライトニング・ベアを走らせて荒れ地を目指した。
弟のディートヘルムとタンデムだ。
莫大な花丸ポイントを投資して十日。
まだ一度も、結果を見に行っていなかった。
中央広場から荒れ地までは距離があって、一人だと退屈なのだ。
だから構って欲しそうにしていたディートヘルムに、誘いの声をかけた。
『お姉さんと一緒に、ツーリングしませんか?』と……。
「ネエネ……。ここには何もないね!」
メルの腰にしがみついたディートヘルムが、後方へと流れ去る景色を眺めながら、声を張り上げた。
強く吹き付ける向かい風が、ディートヘルムの声を攫う。
黒熊のヘルメットから垂れたメルの三つ編みが、ハタハタと靡いた。
「荒れ地が近いから、村人は怖がって近づかないのです」
メルは正しい言葉遣いで弟のディートヘルムに説明した。
メジエール村の耕作地と荒れ地の間には、放置された草むらが広がっている。
草むらの外周が、調停者クリスタの張り巡らせた結界ラインである。
そこ此処に突き出た岩は、魔法紋を刻まれた結界石だ。
「何が怖いの……?」
「オバケかな?」
「エェーッ!!オバケが出るの……!?」
ディートヘルムは帰りたそうな口調で呟き、メルの背中に顔を押し付けた。
「心配は要りません。ネエネが頼んで、オバケにはお引越ししてもらいました」
「本当に……?」
疑わしげな態度で、ディートヘルムが確認した。
だって、オバケを引っ越しさせるなんて、想像もできないからだ。
時々メルは、ディートヘルムに理解不能なことを言う。
それはいつだって、どことなく噓っぽい。
「ディーは、オバケが怖い?」
「うん」
「夜になるとオバケが出るよね。怖いなら、ネエネが一緒に寝て上げようか?」
「いい!」
「…………」
けんもほろろである。
最近になって男の子を主張し始めたディートヘルムは、メルとのスキンシップを露骨に避ける。
密着してくれるのは、ライトニング・ベアを走らせているときくらいだ。
メルは少しだけ寂しく思った。
『男女七歳にして席を同じゅうせず』と言うけれど、ディートヘルムはまだ五歳。
お風呂だって、お姉ちゃんと一緒で問題ないでしょう。
と、メルは思う。
可愛い弟には、いつまでも甘えん坊さんでいて欲しい。
そう願っても叶うものではないから、可哀想なマルグリットが抱き枕にされるのだ。
メジエール村の端までライトニング・ベアを走らせたメルは、丘の上から荒れ地があった方角を眺め、絶句した。
メルの前方には、緑の丘陵が延々と連なっていた。
雪を頂く山脈と湖が、遠くに見えた。
太古よりそこにあった忌み地は、消え失せてしまった。
幽鬼の如く寂しげに立ち尽くす廃虚群は、もう何処にもなかった。
「ここ荒れ地?」
「うはぁー。ネエネも吃驚です」
五千億の花丸ポイントが、すっかり荒れ地の景観を変えてしまった。
妖精たちに助けて欲しいと頼まれた枯れそうな草は、生い茂る野草に埋もれてしまい、探す気も起きない。
まさに絶景である。
「ビックリって、どういうこと?」
「ここは十日前まで、ペンペン草も生えない荒れ地だったの……」
「エェーッ。嘘だぁー」
こうしてディートヘルムの姉に対する信用は、削れていく。
今日のネエネは、大嘘つきだった。
「良い景色だし、ここでランチにしましょう」
「うん」
メルは草原にピクニックシートを敷き、日除けのパラソルを地面に突き立て、ライトニング・ベアから籐のバスケットを降ろした。
ストレージはあるけれど、ピクニック気分を盛り上げるために、わざわざバスケットを用意したのだ。
「さあ、召し上がれ」
「美味しそうだね」
ピクニックシートに、BLTバケットサンドの皿が置かれる。
BLTソースは、マヨネーズとケチャップを合わせたオーロラソースだ。
更にフルーツの盛り合わせと、ほんのり甘いヨーグルト。
ドリンクは冷やしたシナモンミルク。
ピクニックシートの周囲に、色とりどりのオーブが集まってくる。
「あ、妖精さんだ。こんにちは」
「妖精さんたちには、コレ」
メルは小皿にビスケットを取り分け、たっぷりとハチミツをかけた。
〈メルちゃん、アリガトウ〉
〈ココ、キレイにしてくれて、アリガトウ〉
〈美味しいビスケット、アリガトウ〉
〈女王陛下バンザイ!〉
ビスケットが見る見るうちに減っていく。
カップに注いだシナモンミルクも、あっという間になくなった。
ディートヘルムも大きく口を開けて、バケットサンドを頬張る。
「おいしい」
バケットがパリッとしていて、レタスはシャキシャキ、ベーコンのプリッとした歯ごたえも楽しい。
濃厚なチーズの旨味とオーロラソースの酸味が、後を引く。
冷たいシナモンミルクも最高だ。
心地良いそよ風が、吹き抜ける。
〈フルーツ〉
〈デザートも欲しい〉
〈ちょうだい、ちょうだい〉
〈フルーツ、フルーツ〉
「まったくキミたちは……」
泣く子と妖精さんには勝てない、妖精女王陛下だった。








