忌み地に飛来せしもの
ウワァァァァァァァーン!!と大気を震わせる唸りが、次第に大きくなってくる。
曇天を見上げたメルの視界に、ヴランゲル城を背景にして蠢く、黒い靄のようなものが映り込んだ。
先程まではなかった、不気味な景色である。
メルは眉を顰めた。
「なんじゃ、アレは……?」
「ムムッ。どうやら、煙みたいだな」
「違うね……。ボクが思うに、あの黒いのは沢山の虫だよ」
ミケ王子は空から降ってきた黒い物体をペシッとつかみ取り、メルとダヴィ坊やに見せた。
「おっ、ガジガジ蟲じゃん。スゲェな。あれがぜーんぶムシか!?」
「…………あっかーん」
メルは魔導甲冑から捥ぎ取った足を放り出し、そそくさとポシェットからインヴィンシブル・バードのゴーグルを引っ張りだした。
花丸ショップの売り文句を信じるなら、それは安心安全な飛行用ゴーグルであり、精神耐性を強化する最新の魔法術式が組み込まれている。
「ド根性が備わる。ほんならムシが相手でも、ヘイキ言うことや!」
効果の方は、実際に試してみなければ判らない。
「ほらほら。あの雲は、これが数え切れないほど集まったものだよ」
ミケ王子は手にしたガジガジ蟲をメルに突き出した。
「クッ!ほんなもん、わざわざ見せんでもエエわ。こっちに近づけんといて……」
「メルは虫が嫌いだもんね。でもさぁー。ボクが意地悪しなくても、あいつらはここへ来そうだよ」
「うん、確かに……。虫どもの一部は、こっちに近づいている」
「多分あれは、モルゲンシュテルン侯爵家が秘密裏に研究開発した、兵呪の一種だね。蟲による呪詛攻撃です」
ミケ王子が、ウンウンと頷きながら言った。
「はぁーっ!?」
唖然、慄然、愕然。
まさか、まさかの虫軍団である。
「うにゅれ、バスティアンの卑怯者め。正々堂々と勝負せんかぁーい!」
「メルだって、屍呪之王や墓所の巨人を使っているじゃないか……。合戦に、卑怯もクソもないと思う」
「そうだぞメル姉。ミケ王子の言う通りだ」
「ムギギギギギッ……。んっ?」
そのとき、メルは気づいた。
ミケ王子の手に、花丸が握られている。
インヴィンシブル・バードのゴーグルには、あの悍ましいガジガジ蟲がステキな花丸マークとして表示されていたのだ。
「フォーッ!?」
「どうしたんだメル姉?」
「勝つる。わらし、やれる気がしてきました」
メルはフンスと鼻を鳴らした。
キュッと一文字に唇を引き結び、腕組みをして反り返った妖精女王陛下の顔に、インヴィンシブル・バードの嘴がツンと尖っていた。
実に偉そうだった。
ガジガジ蟲の大群はウスベルク帝国軍に倒された魔導甲冑を目指して、雨の如く降り注いだ。
雪原に倒れた白銀の甲冑が、黒い蟲に覆い尽くされる。
ガジガジ蟲は関節部に潜り込み、耳障りな金属音を立てながら魔導甲冑と同化していく。
「うおっ!虫の山が動いてるぞ」
「あぁーっ。魔道甲冑の形が変わってる。ていうかぁー。足の数が増えて大きな蟲になった」
ダヴィ坊とミケ王子は魔導甲冑が蟲の魔物となる過程を目にして、あんぐりと口を開けた。
操縦席で気絶していた魔装化兵が悲鳴を上げ、やがて静かになるさまは、身の毛がよだつほど恐ろしかった。
「むっ、蟲に喰われた!?」
「中の人、生きたまま齧られちゃったのかな……」
「ふっ。足の数が何本に増えようと、一向に構わん」
「いやいや、そう言う話ではないだろ」
「魔導甲冑の中の人が……」
「中の人?そんなん知らんがなぁー。あれは大きな花丸じゃ!」
メルは非情に徹するため、深く考えるのを止めていた。
余計な想像もしない。
そして、妖精母艦メルに搭載された航空部隊を緊急発進させた。
メルの背後に次々と魔法陣が展開し、目にも留まらぬ速さでオーブが射出される。
「おまぁーら、しこたまスコアを稼ぐチャンスや。撃墜王になるんは、だれかのぉー?あんじょう、おきばりやす」
妖精女王陛下の鼓舞激励がなくとも、ガジガジ蟲に後れを取るような邪妖精たちではなかった。
そしてトンキーも。
「プギィィィィィィィィィィィーッ!!」
猛烈な体当たりを喰らった巨大甲虫が、もんどりを打って雪原に倒れた。
手も足も飛び散ってしまい、バラバラである。
「後退しろ。隊列を崩さず、速やかに下がれ!」
ガジガジ蟲が雨のように降り注ぐ中、戦場にマンフレート・リーベルス将軍の怒声が轟く。
ウスベルク帝国軍を守る邪妖精たちは、ガジガジ蟲の排除に奔走していた。
隊列の周囲を目まぐるしくオーブが飛び交い、破裂したガジガジ蟲の破片が四散する。
「後退だ。急ぎ、後退せよ!」
「そこ、慌てるんじゃない。落ちつけェー!」
「オマエら隊列を崩すな。慌てず、速やかに後退だ」
マンフレート将軍の命令が、各部隊の隊長により復唱される。
ウスベルク帝国軍の重装歩兵は想像もしていなかった事態に驚きを隠せず、気色の悪い巨大甲虫から距離を取った。
騎馬隊も馬を走らせながら、大きな黒い的に狙いを定め、続けざまに矢を射込む。
「ちっ。気を付けろ!」
「外装が硬い。さっきまでとは別物だ」
邪妖精の力を借りた強力な矢が、ことごとく弾かれた。
「不味い。速度も違う!」
「うぉーっ。何だ、あの動きは……」
「騎馬隊は馬の足を止めるな。移動しつつ、化物を遠巻きにせよ。油断すると、一気に距離を潰されるぞ」
一方、フレッドとバルガスは慌てることなく、一体ずつ着実に巨大甲虫を処理していく。
帝都ウルリッヒの地下迷宮で鍛え上げた連携は、完璧な仕上がりだった。
邪妖精の力を借りた戦闘技術も、ウスベルク帝国軍の兵たちとは雲泥の差である。
だが軍隊の練兵に怪物との戦いは想定されていないので、そこは仕方がないことであった。
「こいつを喰らいやがれ!」
バルガスの戦鎚が、あり得ない速度と衝撃力で巨大甲虫の強靭な膝を砕く。
巨大甲虫が囮役のフレッドにかまけているところを背後から近づいて一撃したのだ。
「逃がさねぇよ」
フレッドの剣が焔を纏い、破損個所から溢れだしたガジガジ蟲を焼き尽くす。
「いい仕事だ。しっくりと手に馴染む」
「メジエール村の鍛冶師は、名工だからな」
ドワーフの長ドゥーゲルとゲラルト親方が丹精込めて打った武器は、邪妖精たちのお気に入りだった。
◇◇◇◇
ミッティア魔法王国の魔法軍は、ここ数ヵ月で急上昇した瘴気濃度に苦しめられていた。
体調を崩して倒れる者が後を絶たず、医療施設のベッドには空きがなかった。
「くそぉー」
オコンネル警邏隊隊長は特殊諜報部隊の隊員を思い出し、魔導甲冑の操作パネルを殴りつけた。
今こそ、あいつらの能力が欲しい時だと言うのに……。
高慢ちきで役立たずな、改造人間どもめ。
マリーズ・レノア中尉。マーカス・スコット曹長。
タルブ川上流の探索から戻った二人は、増援を要請する高速船に便乗してミッティア魔法王国へと向かった。
至急、グウェンドリーヌ女王陛下の判断を仰ぐ必要があるとか、特命を盾に押し切られた。
結局のところ、貧乏くじを引かされた形のオコンネル隊長だった。
「どうしてこうも巡り合わせが悪いのだ。攻撃魔法による支援が期待できないのに、屍呪之王を倒さねばならんとは……」
オコンネル隊長が火砲などと言う代物を引っ張りだしたのは、強力な攻撃魔法を用意できなかったからだ。
「屍呪之王だけで手いっぱいだと言うのに、腐屍の巨人だ。そのうえ、【鮮血のマルグリット】を名乗る邪精霊まで現れやがった。よくもまあ、次から次へと魔導甲冑を潰してくれる。一体で、凡そ五千万セルブ(ミッティア魔法王国の通貨単位)だぞ。帝国通貨で十億ペグだ。ふざけやがって……」
反撃しながら引き下がる魔装化部隊は、宙を舞う幼女の魔剣で少しずつ削られていく。
幼女は楽しげにクルクル回りながら、容赦なくズバズバと切り刻みに来る。
「あの剣はなんだ……?魔界の産物か……?幼女の腕力で魔導甲冑の外装を貫けるなんて、非常識だろ。魔導甲冑はチーズじゃないんだぞ!?」
「うわぁーっ!」
「リーゲルの魔道甲冑が大破。戦列から脱落します」
「くっそぉー!!」
それはもう、悪霊に憑りつかれた芝刈り機だった。
「こんなもの、どう本国に報告しろと……?終わりだ。何もかもが、終わってしまった。運よく生き残ったところで、軍法裁判が待っている」
オコンネル隊長が正直に報告書を認めたところで、誰にも理解されないだろうし、誰からの弁護も期待できなかった。
ウォルター・ドルレアン中将を西門で失い、軍内の一大派閥と繋がるパイプは絶たれた。
「上手いこと出世街道に乗ったと思ったのだが、これで終了だ。俺のキャリアは、土に塗れた。軍人としては終わったな」
それどころか、このままだと人生まで幕を閉じそうだった。
「隊長。オコンネル隊長!?」
「どうした、リーゲル副長?」
「やばいです。医療棟が……」
オコンネル隊長が率いる魔装化部隊は、既に破棄された居住区域を抜け、シグムント通りまでジリジリと後退していた。
その位置からは湾岸エリアが内陸と接するラインを一眸のうちに収めることができた。
そして湾岸エリアの入口付近には、傷病兵を収容するための医療施設が何棟も建ち並んでいる。
「どこを見ればよいか分からん。貴様の画像をよこせ!」
「直ちに転送します」
オコンネル隊長は魔導甲冑に標準装備されたモニターを操作し、部下が送ってきた医療棟の画像を呼び出した。
「ぬっ!?」
極度の体調不良を訴えて治療中の兵たちが、医療棟の窓を突き破り、這い出してくる。
二階や三階からも。
そして虫のようにシャカシャカと、壁を移動していく。
「なんだ、アレは……」
「分かりません」
化物だった。
敢えて名付けるとするなら……。
「昆虫人間……?バスティアンが研究していた魔蟲か……!?忌まわしい呪術師が……。我が国の兵にまで、何て真似をしやがる!!!」
バスティアン・モルゲンシュテルン侯爵がヴランゲル城の地下より解き放ったガジガジ蟲たちは、凝縮された呪詛の塊だった。
その呪詛を植え付けられた兵は、ガジガジ蟲と人を混ぜ合わせたような醜悪で恐ろしげな姿となっていた。
遠望した外観は奇妙に手足が伸びた人であり、関節があらぬ角度に折れ曲がっている。
「悪夢だ……」
オコンネル隊長は、力なく呻いた。
「これが人間の戦い方か……!?幾らなんでも、おかしいだろ。バスティアンの野郎は、頭が狂っている!!」
ウスベルク帝国軍の接近を察知しながら、籠城戦に固執したバスティアン・モルゲンシュテルン侯爵。
今更ながら、オコンネル隊長にも合点がいった。
ここは、あの呪術師が周到に用意したキルゾーンなのだ。
「隊長。虫が屍呪之王と腐屍の巨人に取り付きました。襲っています」
「よし退避だ。この隙に部隊を撤退させる。尻を捲って逃げるぞ」
いつの間にかガジガジ蟲の群は、シグムント通りを乱れ飛んでいた。
魔導甲冑の外装にバシバシとガジガジ蟲が当たり、気色悪いことこの上ない。
「うわぁーっ!虫が……。虫が甲冑の中に、入ってきやがった!」
「バスティアンの畜生めが……。俺たちまで虫の餌か!?」
ガジガジ蟲は、ミッティア魔法王国の駐留軍であろうと容赦しなかった。
バスティアン・モルゲンシュテルン侯爵に恭順する者以外は、全てが捕食対象だった。
『グモォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォーッ!!』
数え切れぬほどのガジガジ蟲が墓所の巨人を覆い尽くし、その腐肉を貪った。
墓所の巨人はガジガジ蟲から逃れようとして手を振りまわすが、体内に潜り込まれてなす術がない。
やがて自重に耐えきれなくなると、苦悶の声を上げながらマチアス聖智教会の聖堂に倒れ込み、聳え立つ鐘楼を倒壊させた。
だが同様にしてガジガジ蟲に襲われた屍呪之王は、何事もなかったかの如く泰然自若としている。
何となれば則ち、ハンテンは虫食らいだった。
ガジガジ蟲が体表に取り付くと、屍呪之王の全身に無数の小さな瘤が生じた。
瘤は手となり顔となり、つかんだガジガジ蟲を口へと運んでいく。
これを見ていたマルグリットが、ポツリと呟いた。
「キモイです」
屍呪之王はエルフ族を滅ぼすために生み出された、太古の兵呪である。
メルとマルグリットが屍呪之王を疎ましく思うのは、もう遺伝子レベルでの話だった。








