刻至る
満月の夜。
だが夜空を覆う厚い雲に邪魔されて、月光は地上まで届かない。
ポツリポツリと要所に配置された篝火だけが、微かに領都ルッカの闇を照らす。
港湾都市を囲む堅牢な防御壁の上で、篝火を背にした黒ずくめの魔女が、ひっそりと佇んでいる。
魔女の足元には、数名の兵士が無防備に倒れ伏していた。
不審者に気づく間もなく、眠らされたのだ。
魔女の手には、醜く肥った男の生首があった。
禿げた頭では抱え持つしかないので、頭蓋骨に穴を穿ち、そこに丈夫な紐を通してぶら下げていた。
死者への冒涜にも見える酷い扱いだが、生首は魔女の仕打ちを気にした様子もなく、潰れた鼻をフガフガと鳴らした。
魔女の正体は、調停者クリスタだった。
生首の主は、言わずと知れた愚劣王ヨアヒムである。
愚劣王ヨアヒムは頭部を失った青銅騎士像と融合を果たしたのだが、詳しい状況を知りたいとしつこくクリスタに訴えたところ、元の姿に戻され、頭頂部に穴を開けられてしまった。
そうして領都ルッカを一望できる防御壁の上に、連れてこられたのだ。
痛くはないが、途轍もない屈辱である。
だけど少しでも悔しそうな顔を見せればクリスタに弄られることが分かっていたので、手荷物扱いをされてもじっと辛抱するヨアヒムだった。
「まったく酷い瘴気だ。クリスタよ。モルゲンシュテルン侯爵領は、一体どうなっている!?」
「見ての通りだよ。ウスベルク帝国を建国するさいに、あたしが口を酸っぱくして忠告しただろ」
「グヌヌヌヌッ……。ワシの子孫が責務を果たさぬなど、あり得ん。ワシの血脈には、強力な呪言を施しておるのだぞ。屍呪之王さえ定期的な祭祀によって管理すれば、民の不満は恐怖に塗り替えられ、穢れは呪力へと変質する。汲めども尽きぬ呪力は、外敵の侵入を完璧に阻み、帝国も永久に栄えるはずだった……。何故だ!どうして、このような状況を招いたのだ」
愚劣王ヨアヒムは領都ルッカを指さして叫びたいのだろうが、頭しかないので力なく愚痴った。
精霊魔法に頼った発話は、瘴気の影響を受けて勢いがなく、弱々しい。
「本当に馬鹿だね。呪術式には耐久限度ってものがあるんだ。国が栄え、民が増え、貴族どもが傲慢になれば、一気に穢れが増加して呪術式の基本構造にガタが来る。帝国に施された呪術が、穢れの重さに耐え切れなくなったのさ」
「ワシの子孫が責務から逃れたのは、呪術式が崩壊する予兆か!?」
「バスティアンの代になってから、ウスベルク帝国を守護する結界の力は弱まり、海の向こうからも穢れが持ち込まれるようになった」
クリスタはアーロンと共に精霊の子を連れて訪れた、地下迷宮の様子について語る。
「呪術式の心臓部である帝都の地下迷宮は、あちらこちらから瘴気が溢れだし、機能不全に陥っていたよ」
「なんと……。それでは屍呪之王を封じられぬではないか!」
「いやいや。あたしの見たところ、屍呪之王は己の意思で地下迷宮に留まり、結界を守っていたようだ」
「あれは単なる犬コロだぞ。気まぐれなケダモノだ。高邁な精神を持つ人とは違う。しかも、大量殺戮用の兵呪ではないか……!人間を守るために、己を犠牲にするなんてことが、あり得るのか?」
「ふん。人なんかより犬の方が、随分と立派な心構えのようだ。あたしが石室に辿り着いたとき、屍呪之王を封印する術式は既に壊れていたのさ。それなのに逃げようともせず、おとなしく床に寝そべっていたよ。あれは呪術式を支えようとして骨身を削り、死にかけていたんだ」
「…………そうか。あの犬はワシの子孫より、遥かに忠義なものであったか」
愚劣王ヨアヒムは、苦悶の表情を浮かべて黙り込んだ。
屍呪之王の素材として用いたのは、ヨアヒム自身が手ずから、人に尽くすよう厳しく躾けた犬だ。
よく言いつけを守る賢い犬だったが、もう名前すら覚えていない。
「なんにしたところで、ウスベルク帝国を守る呪術式は、もう意味がないのさ。結界に呪力を循環させる大切な核が、消えちまったからね。あの恐ろしい屍呪之王も、その最後は呆気ないものだったよ」
調停者クリスタは知らなかった。
精霊の子メルが、屍呪之王を蘇らせたことを……。
屍呪之王がメジエール村でハンテンと呼ばれ、村人たちのマスコットとして大切にされていることを……。
◇◇◇◇
前触れもなく唐突に、ビィーッ、ビィーッと緊急警報が鳴る。
魔法料理店の二階でコタツに入り、メルに貰った金ぴかの紙で折り紙をしていたマルグリットは、いったい何事かと跳び上がった。
「あやっ……。メル姉さま。何やら鳴っております」
マルグリットが顔を引きつらせて、メルに訴えた。
「あんなー。わらし、調理中なのに……。マルー。警報を止めるくらい自分でやらんかい!」
「そう申されても、どうしたら良いのでしょう。わたくし、分かりません」
「まったくロリ婆は、幾ら教えてもノーパソの使い方を覚えん。しゃーないのぉー」
厨房でおみくじクッキーにアイシングを施していたメルは、マルグリットに呼ばれて二階へと駆け上がった。
それから、面倒くさそうな顔でタブレットPCを操作し、けたたましい警報音を止めた。
「メル姉さま、何の警報ですか……?」
「ユグドラシル王国国防総省からのお知らせデス」
さっさと厨房に戻りたかったけれど、マルグリットが心配そうな視線を向けてきたので、メルはモニターに表示された緊急速報を読み上げた。
緊急速報なので、無視したりせずに確認するのが正しい。
そもそも、そのためのアラートだ。
「ナニナニ……。明後日の正午には、帝国騎士団がオリフベル沼沢地に到着する……、デスカ。これは出陣要請ですね」
オリフベル沼沢地は、領都ルッカに隣接する底なし沼だ。
冬季の現在、沼はガチガチに凍りつき、騎兵戦に丁度よい平原となっている。
「姉さま。戦いに赴かれるのですか?でしたらわたくしは、心を込めて、メル姉さまのご武運を祈りましょう」
マルグリットはメルが精霊樹の家を空けるのだと思い、嬉しそうに手を打ち鳴らした。
口煩いメルさえ居なくなれば、魔法料理店の厨房から好き勝手に美味しいものを盗み出せるからだ。
ナッツのハチミツ漬けに、すり潰した豆の粉と水あめを練り合わせた菓子。香料を混ぜて焼いた甘いクッキーや、色々な種類のチョコレート。カリカリとした歯ごたえのあるスッパイ実も美味しい。
「留守中のコトは、万事わたくしにお任せ下さいまし」
マルグリットが縦ロールを揺らしながら、可愛らしく告げる。
「マルー。何を他人事のように言うとるんデスカ……?今回は、あーたも一緒に出かくるのですぞ」
「えっ?」
「もう決めてあります。マルは斬り込み隊長デス!」
「エェーッ!?」
余りのムチャ振りに、マルグリットが目を白黒させた。
戦場に連れて行かれ、有無を言わさず最前線に放り込まれ、そのまま厄介払いされるのだと思い込み、プルプルと長いまつ毛を震えさせた。
ちと四歳児には過酷である。
「あのぉー。わたくし、このような幼児になってしまいましたし、使役できるピク……、妖精さんも、身だしなみ担当の心優しい妖精さんだけなのです。これでは、メル姉さまの手を煩わせるだけになってしまいます。とても戦場に従軍できるような身分では、ございませんわ」
「マルーには、邪妖精十万の軍勢を率いてもらいマス。選りすぐりの、イケイケ、ヒャッハーな精鋭部隊を預けましょう。キチンとした戦果を上げれば、その日からあーたはユグドラシル王国のオンナ将軍よ。戦場では注目の的です」
「…………女将軍ですか?」
「そう、将軍さま。二つ名で、鮮血のドリル将軍とか、狂乱の幼女将軍とか呼ばれるの、よくねぇー?」
「ハイハイ、やるぅー。やります。やらせてくださいませ。そのお役目。是非ともわたくしに、お任せ頂きたく存じます!!」
そもそも戦場での活躍を何よりの誇りとしてきたマルグリットである。
そこをメルに擽られたら、引き受けざるを得ない。
「フム。よろしい。それでは、マルーの働きに期待しております」
モルゲンシュテルン侯爵領に出撃する部隊のメンバーは、既に決めてある。
最低最悪の場所だけに、幼児ーズの女子組は連れて行かない。
教育に悪いので、魔法学校の生徒たちも待機だ。
マルグリット、ミケ王子、ハンテンは、最初から連れて行こうと考えていた。
ところが、置いていかれると察したトンキーが拗ねたので、仕方なくトンキーもメンバーに加えた。
ダヴィ坊やに関しては、頭を悩ませるだけ無駄である。
何を言おうと付いてくるのだから仕方ない。
「皆にケガをさせるつもりは更々ないけど、要はメンタルの問題やけん。そこに関しては、回避不能じゃ」
屑な大人たちを敵に回して、死体が転がる悲惨な戦場で戦うのだ。
ヴラシア平原のように、可能な限り流血を避けるような戦い方はできない。
彼の地に集められた敵勢力は、魂魄集積装置を起動させる祭祀に贄として饗されるのだ。
これから執り行われるのは、盛大な血祭である。
詰まるところメルは、無慈悲な妖精女王陛下の姿をできる限り見せたくなかった。
仲の良い女の子たちや慕ってくれる魔法学校の生徒たちにドン引きされたら、二度と立ち直れないような気がしたからだ。
真のメンタル弱者は、妖精女王陛下のメルだった。
「メッセージの続きがある。なになに……。要購入とな」
リンクを踏むと花丸ショップの商品が、大きくポップアップされた。
「如何なる虫も一飲みにする、インヴィンシブル・バードをデザインに取り入れたクールな鼻眼鏡。コレは鼻と言うより、くちばしか。カッケェー。買うしかなかろ」
瘴気の中でも目がシバシバしない、安心安全な飛行用ゴーグル。
特殊効果:精神耐性。ド根性が備わります。
備考欄には、そう記載されていた。
「??????????」
カメラマンの精霊からガジガジ蟲の存在を知らされたユグドラシル王国国防総省特殊兵装開発局が、総力を挙げて作成した妖精女王陛下専用の魔法具だった。
突然のこと故に性能実験をする充分な時間もなく、試作バージョンでの実戦投入だ。
従って、効果の程は不明である。
「相変わらず妖精さんたちは、言葉が足りませんね。何なの、この特殊効果は……。いや、しかし。アレやね。考えても分からんことに頭を悩ませるのは、時間と労力の無駄じゃ。わらしは、おみくじクッキーを作りに戻りマス」
メルが作っているおみくじクッキーは、祭りへの参加者を決めるクジだ。
幼児ーズの女子組を不参加とするために、無い知恵を絞って思いついた妙案である。
もっとも、メルが妙案だと思っているだけで、実際にどうなるかはやってみるまで分からなかった。








